寒さで震えながら、みんなで夜を過ごしました…。

3月13日
朝8時に7人で出発しました。
道では無い道、ガレキ、ヘドロ、魚の上を歩きました。日本赤十字病院を目指して。
水没して通れない道が多数あり、遠回りしながら歩きました。途中で2人が
『私の家、こっちだから…』
と抜けて行きました。
3時間掛けてやっと日本赤十字病院に着きました。
『あの、公衆電話貸して欲しいんですが…。』
『ダメ!ダメ!出来ないから!』
病院の方は負傷者の手当てで私達の相手をしている暇はありませんでした。
携帯に電話出来れば迎えに来てくれる。そう思っていました。5人で
『どうする…』
と話し合いました。みんな足がパンパンで体力も限界が近付いていました。でも
『歩こう!夕方までは着くよ!休みながら、ゆっくり行こう!』
再び出発しました。
『ヒッチハイクしてみようか!』
3回ほど挑戦しましたが、ことごとくダメ…。自力で歩く事を決意しました。みんなで声を掛けながら、励まし合いながら歩きました。
その時、自衛隊の車が止まりました。
『〇〇〇中学校までなら乗せて行きますよ』
とても助かりました。5㌔くらい乗せてもらったと思います。車から降りてから、また歩き始めると知
木を燃やしていましたが、その周りだけが温かく、ずっと立っているのも辛い状態でした。ものすごい寒さで眠る事が出来ませんでした。朝5時がピークだったと思います。手と足の感覚は無く、凍傷になる覚悟でいました。手や足の一つ無くしても、私は生きる!生きる事だけを考えて、みんなで寄り合って、励まし合いながら、なんとか朝を迎えました。

3月12日
長靴を履いた男性陣達が食料の調達と避難場所を探しに行きました。幸い近くにスーパーと薬局があったので、お菓子や飲み物などがいっぱい流れついていたため食料にはあまり困りませんでした。多少の泥は気にせず、みんなで生きる為に食べました。避難所の周りには海水がまだ貯まっており、行けませんでした。でも、もう一晩山で過ごす気力はありませんでした。
すぐ近くに3階建の会社があり、そこに避難させてもらいました。そこで作業衣も貸してもらいました。やっとスカートから脱出出来ました。昼間に少しだけ座ったまま寝ました。夜に秋田県から父親を探しに来たという男性が訪ねて来ました。その男性に通れるルートを教えてもらい、明日帰宅する事を決めました。
夜、建物の中とはいえ、とても眠れるような状態ではありませんでした。
気持ちが落ち着いたので…。

3月11日、地震が起きて、家に到着するまで記憶が鮮明なうちに書きとめておきたいと思います。

3月11日
私は石巻の港付近の会社で仕事をしていました。
『あっ、地震だ…』
最初は少し強めの地震でした。それから急に激しい揺れになり、横にグイッと誰かに腕を引っ張られるような勢いで揺れ始めました。とても立ってはいられず、玄関付近のカウンターに必死になってつかまりました。
揺れがおさまり、外に出てみると会社と道路の間に大きな段差が出来ていました。近くでは水道管が破裂し、道路から水が吹き出していました。すぐに所長から
『津波がくる!みんな各自避難するように!』
と声が掛かりました。みんな各自帰宅するように解散しました。私もすぐに着替えを持って、制服のまま車に乗り込みました。
しかし、停電で信号は止まり、外は混乱ですごい渋滞になっていました。そのうちスピーカーから
『大津波警報!大津波警報!』
とサイレンが鳴り始めました。
『早く帰らなきゃ、娘は…、旦那は…、実家は…』
不安は募るばかりでした。もちろん携帯は全然つながりませんでした。
全然車は進まない。鳴り続けるサイレン。どんどん怖くなってきました…。
急に歩道を走る人が増えてきました。
その時、パトカーが来て
『津波が来てます!津波が来てます!高台に逃げて下さい!』
頭が混乱しました。
『……来てます?』
サイドミラーを見ると津波は目の前まで来ていました。それは黒い固まりでした。
『……やばい。』
そう思いました。バックだけを持ち、近くの山に駆け上がりました。その後すぐに津波がきました。
目の前を流れる、家、車、人…。
ただ呆然と立っている事しか出来ませんでした。
周りで車のクラクションが一斉に鳴り始めました。
『助けて~』
流されながら叫ぶ人、車から身を乗り出して叫ぶ人、自然の中で人間は無力でした。
山に避難したのは、約30人ほどいました。
最初は逃げるのに必死で気付きませんでしたが、私は制服のまま逃げていたので下はスカートで薄着でした。
『寒い…』
震えていると、たまたまその山で工事をしていた方が上着を貸してくれました。自分も寒いはずなのに…。人の暖かさが心に染みました。
自衛隊の救助はありませんでした。そのまま山で夜を過ごす事になりました。