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タイ・カンボジア国境の町アランヤープラテートの取材協力者から連絡が入った。
「国境線から三キロ手前の民家にベトナム人・カンボジア人の十歳から十六歳の少女売春婦がいる」
早朝私とアシスタント二人で国境の町アランヤープラテートに向かった。

1979年1月7日のポル・ポト政権の崩壊により、ベトナムの後援を受けた新政権とポル・ポト派、シハヌーク派、ソン・サン派などの歴代政権を担った派閥ゲリラとの間で内戦が始まり何万人、何十万人というカンボジア人が殺された。そしてここアランヤープラテートにはカンボジアからの難民が何百万人 という数に膨れ上がっていった。
最後の難民帰還は1993年に終わり現在は陸路でアンコールワットに行く観光客、ビザ更新の外国人、カンボジア側のカジノで遊ぶタイ人が利用する町として知られている。

夜我々三人は協力者のアドバイスで旅行者のフリをしないとまずいといってホテルの前から力車に乗り隠しカメラを持って目的地に向かった。
街をはずれて二十分ぐらい行ったところ暗い闇の中にピンクや緑のネオンが見えてきた。
道筋に何件かその類の置屋らしいものがある。協力者は目をつけてあった置屋を目指して力車の運転手に指示している。中に案内されると三十畳ほどのガランとした部屋に、あどけない女の子が壁に背をつけて客待ちをしていた。
四十人ぐらいだろうか、平均年齢は十二~十四歳ぐらいのカンボジア人・ベトナム人少女達。色の白い子はベトナム人だろう。中では十数人の男性客が物色しはじめていた。ほとんどが中国人観光客で日本人客がいなかったのが救いだった。中国人は少女とセックスすると長生きできる、と言い伝えられている。そういえば中国の毛沢東主席も文革当時数十人の少女を囲っていた話は有名だ。
我々はひと通り少女を物色するフリをして客を装った。どうやら隠しカメラは見つかっていないようだが置屋の男は執拗に我々の後を追う。我々が狭い置屋の中を一周する頃、かなりいたはずの少女が先に来ていた男どもと姿を消して、そこは単なる物置小屋に変わろうとしていた。
協力者が一人の少女を指差し「この子を連れて行く」といった。置屋の男はうれしそうに「二時間だったら千バーツ、泊まるのだったら二千バーツ渡してくれ」と協力者に説明している。
帰りは四人で力車に乗りインタビュー撮りのホテルを目指した。
ホテルに着くと同時に矢継ぎ早の質問が飛んだ。女の子はカンボジア系ベトナム人。我々を警察関係と疑っておびえている。「年は?」「十一歳」「どこからきたの?」「カンボジアのシェムリアップ」「いつから売春の仕事をしているの?」「一年ぐらい前から」「何故この仕事をしているの?」「親が二百ドルの借金をして払えないから売られてきたの」「たった二百ドルか、ひどい話だね。時々親のところへ帰っているの?」「借金を返し終えるまでは、あそこから離れられない。あとどのくらいで返せるかも分からない」両親に恨みがあるふうでもでもなかった。
一身に両親の借金のかたを受けている感じだった。そういうものだと思っているようでもある。
美人ではない彼女。女ではない、ただの少女だ。ただ借金のために売られてきたのが良く分かる。
汚いホテルの一室のベットの上に、少女はハンカチを手でもみながらどう身を処していいのか困っているふうであった。二十四時近くひと通り話を聞き終えた協力者は「このことは誰にも言うんじゃないよ。客を取ったふりをして帰るんだよ」といってポケットから二千バーツを少女の両手に押し込んだ。少女は「ありがとう」と消えいるような小声で両手を合わせて礼を言い出て行った。
東南アジアの国では娘の売買が成立すると、両親は世話人から三百ドルから五百ドルの範囲で前借が出来る。その後、娘が働きに出たら、その娘は前借の二倍の額を世話人に返さなければならないシステムになっている。
だいたい二~三年ぐらい働くと借金を返し終えて自由の身になるが、その後は家に帰らず再びブローカーを通して売春の道に走るのが常だという。
十一歳。小学校五年生の売春婦。ランドセルを背負っているほうがはるかに似合う年齢だ。勉学は絶たれる。親は何故働かないんだ。同情と怒りがこみ上げてくる。