この先私があげるものは全て病み腐った物だと思います。注釈はこれで最後にします。申し訳ございません。

決意を固めてから数日。
諦めて期待はしなくなりました。そこに大した問題はもうありません。

しかし、身の回りの理不尽、朽ちていく体、心、体力、それにより起こる失敗、原因不明の困難等が目についたり現れたりし始めました。

私を続けているということは、これは先に期待をしてしまっているということなのでしょうか?
期待をしないというのは完全にお仕舞いにするということでしょうか?

私は私の価値を把握しています。私の価値はそれ程親しくない人や社会的関係の人にとってちょうど良い立ち位置にいることができるということ。つまり、都合のいい人になれるということです。

しかし、そんな価値は何の意味があるのでしょうか。私が愛したい人には私はよく煙たがられます。そうして自分を変えようとしたらそうではない人ばかり寄ってきてくれます。

私が良いと思える私の価値は何なのでしょう。きっとそんなものありはしません。

自我が壊れていき、全てが面倒になり、仲間の成功も喜べなくなり、比較されては首を下げ、避難されては体が折れ、前や上なんてものはもう視界からきえさってしまいました。

楽しいと感じることはあります。しかし、楽しかったでは絶対に終われません。もう私には何が残っているのでしょう。何を得ることが出来るのでしょう。

趣味も最近は趣味と呼べるのかよくわからなくなってきました。好きだった音楽を聴きながらの夜中の散歩も音楽が耳障りにきこえ始め、頭の中が常にぐっしゃぐしゃで楽しさがなくなってしまいました。

誰にも気付かれないから、誰にも心配されないからこうなってるのだと思いますが、誰にも言えなくなったからこうなってしまったのです。
信頼することを忘れ、無理をすることを覚え、自分を蔑ろにすることに慣れてしまいました。

お別れはいつでしょう。
きっと5,6年もないところ。