台湾は日本に救われた。命がけで「伝染病」を根絶した日本人医師

2017.07.13
 

現在では民度・環境ともに「清潔」な台湾ですが、

かつては様々な伝染病が蔓延する「瘴癘(しょうれい)の島」と呼ばれていたことをご存知でしょうか。

そんな台湾の人々を死に至る数々の病から救ったのは、

誰あろうこの地を統治した日本の医師や研究者たちでした。

今回のメルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』では著者で台湾出身の評論家・黄さんが、

台湾で最も恐れられていたマラリアを根絶した研究者たちのエピソードを中心に、日本人が台湾の衛生面で果たした役割について記しています。

【アジア】世界の伝染病の発信源・中国と、アジアの救世主・日本

● スリランカでデング熱流行 227人死亡、8万人感染

今年も日本に本格的な夏が到来しました。夏は様々な楽しいレジャーがある一方で、夏特有の伝染病も流行します。 

去年、日本でも大流行したのがデング熱でした。

今年は日本では殺人アリ(ヒアリ)のことが話題になっていますが、

デング熱についてはまだ騒がれていません。

しかしデング熱はスリランカでは猛威をふるっているようです。

デング熱は蚊を媒介として感染する伝染病のため、無限大に感染します。

そもそも、蚊は様々な病気を運ぶ感染源です。かつてはマラリアの運び屋でした。

今でも日本では日本脳炎の予防接種をしていますが、

日本脳炎も蚊を媒介とする伝染病です。

 

このメルマガでも何度も述べてきましたが、SARSはもちろん、

ペストやこれらの伝染病の発信地として最も有力なのは中国です。 なぜなら不衛生だからです。

 

万が一、伝染病患者が出たとしても、その後の対策を講じれば拡散は最小限に抑えることもできますが、中国は人々の生活が不衛生な上に、対策を講じるどころか情報隠蔽に走るのみですから、拡散が防げるはずがありません。

 

一方で、同じアジアでも日本人が古代から衛生観念が強かったのは、

神道の禊祓(みそぎはらえ)と深い関係があるのではないかと私は思っています。

すでに江戸時代には、来日した西洋人も日本の衛生環境を絶賛しています。

戦前の日本がもっとも強かった分野は、金融財政と医療衛生でした

 

日本軍医が来れば伝染病が消えるという美談は、中国にも残っています。

しかし、台湾もかつては伝染病が蔓延していた地でした。

日本統治時代以前の台湾は、衛生環境も悪く、気候風土は伝染病が広がりやすい条件が揃っていたため、一度伝染病が流行すると多くの死者が出るのを防ぐ手立てはありませんでした。

そのため、当時の台湾は「瘴癘(しょうれい)の島」とも呼ばれていました。

免疫の強い先住民しか生活できない地で、日本人からも「鬼ヶ島」と言われ

いったん入れば生きて帰れない地と見なされていました。

 

私の祖先は大陸からの移民で、私はその8代目にあたりますが、

「族譜」を見ると、6代目の祖父より上の代では、30歳以上生きたのは1人のみ、

たいてい20代で死亡していました

 

日清戦争後の下関条約で、全権代表の李鴻章が伊藤博文に警告したのは、

台湾にはアヘンと瘴癘という二つの脅威があるということでした。

 

そんな台湾が近代文明社会へと変貌できたのは、日本統治時代があったからです。

日本統治の50年間で、寿命は倍増しました

台湾総督府による環境衛生のおかげなのです。私の祖父も、63歳まで生きました。

 

かつて日本は、台湾を統治するにあたり、ペストや腸チフスの猛威を撃退しようと努力しました

明治29(1896)年4月、台湾総督府は、「船舶検疫仮手続」を各地方行政に通達し、基隆、淡水、安平、打狗(高雄)、鹿港などの「開港場」で検疫を開始したのです。

 

続いて同年7月20日、「伝染病予防消毒心得」が公布されました。

10月15日には「台湾伝染病予防規則」が公布され、

その第一条には次の8種の伝染病が指定されました。

コレラ、ペスト、赤痢、天然痘、発疹チフス、腸チフス、ジフテリア、猩紅熱です。

 

明治32年8月21日には、「台湾検疫規則」を再公布し、基隆、淡水、安平、高雄の

4カ所を検疫港として改めて制定しました。 

総督府が、これだけ港を厳しく検査したのは、

台湾はしばしば中国大陸からコレラの襲撃を受けていたからです。

 

明治28年の日本軍澎湖群島上陸当時、6,194人の日本兵士のうち1,945人がコレラに感染し、1,247人が死亡しました。罹患率は31%で、死亡率は64%にも達する数です。これ以後も、台湾ではしばしばコレラが流行しました。

 

ペスト(黒死病)は、日本領台後の明治29年5月、

中国のアモイから台湾の安平港に入港した船舶から最初に検出され、すぐに台湾で大流行しました。 ちょうどそんな折、後に台湾総督府医学校の3代目校長となる堀内次雄が台湾を訪れたため、すぐにペスト検出の仕事に従事することとなったのです。

当時、台湾に派遣された医師のなかで、顕微鏡操作ができ、細菌学を勉強した唯一の貴重な人材として堀内は周囲の期待を背負っていました。 しかし、堀内を中心に検疫に力を入れようとした医師団を阻んだのは、ほかでもない台湾人だったのです

 

当時の台湾人は、検疫に対して強い抵抗感を持っていました

医官が石灰や薬水で消毒をすることは、冷水で人を害すことであり、

死亡者を火葬することは葬る地のない屍を燃やすことと同じ。

また、医官が屍体を解剖するなどということは、屍を毀傷することである。

このように信じていた住民は、堀内らの疫病退治に抵抗したのです。

 

そんな闘争を繰り返しているうちに、明治29~大正6(1917)年の間で、

ペストにかかった患者は3万101人、死亡者2万4,104人にも達し、

死亡率は80・08%にも上りました。この22年間の長い間、

台湾ではペストが衰えることなく、人々を苦しめてきたのです。

ペストは、多くの場合ネズミを媒介にして伝染するため、総督府はネズミ退治を急務としました。 当時のネズミ退治についての統計を見ると、明治41~大正13年の17年間に捕獲されたネズミの数は計5,411万442匹という、膨大な数でした。

それにしても、これだけのネズミが市街や田野に繁殖していたことからも、

当時の劣悪な衛生環境が想像できるでしょう。台湾総督府の要請を受けた、東京帝大の病理学者・緒方正規教授や山極勝三郎助教授らは、

台湾のペストを調査するため明治29年末に台湾へやってきました。

そして緒方は、堀内次雄とともに、ペスト感染過程の研究に没頭したのです。

そして、彼らの努力によってペストが下火になり、ようやく撲滅されたのは

大正6年ごろでした。それまで、さんざんペストの恐怖にさらされていた住民たちの

喜びようはいかばかりでしょうか。

住民たちは、嬉しさのあまり「ペスト絶滅祝賀会」を開いたほどでした

 

また、腸チフスは台湾では「傷寒」と呼ばれ、大正元年以降大流行しました。

毎年、感染者は1,000人に達し、100~200人もの死亡者を出しました。

明治36年、堀内次雄は台湾ではじめて副腸チフスB菌の検出に成功。

その4年後には、黒川嘉雄が副腸チフスA菌を検出するという偉業を達成しています。

 

そのほかにも、台湾人を苦しめていた伝染病はありました。

台湾マラリアです。 これは、木下嘉七郎、羽島重郎、小泉舟、森下薫らの努力によって撲滅されました。

 

あらゆる瘴癘がはびこる島台湾で、もっとも恐れられていたのはマラリアで、

明治44(1911)年以前の台湾における最大の死亡原因はマラリアとなっていました。 統計によれば、少ないときで年間死亡者数は数千、多いときには万を超えていました。たとえば、大正4年の台湾の人口は331万人で、マラリアによる死亡者は

1万3,350人でした。

言うまでもなく、これは台湾に限らず亜熱帯地方共有の風土病であり、

古代ローマ帝国衰亡の一因だともいわれているほど恐ろしい伝染病です。

 

牡丹社事件に端を発した、明治7年の日本軍台湾討伐の際や、

明治17年の清仏戦争の際のフランス軍台湾北部上陸、

明治28年の日本軍台湾出兵の際など、台湾に足を踏み入れるあらゆる外敵を、

この「台湾熱」は襲いました。

 

もちろん、台湾熱が襲うのは外敵だけではありません。 原住民たちもさんざん悩まされてきました。原住民たちは、熱が出て悪寒が走る症状から、

「寒熱病」や「悪魔病」などと称して恐れ、悪魔のたたりだと考えていました。

また、マラリアは「気」から人体に侵入したものと考える者もあり、

「瘴気」とも呼ばれたのです。

 

日本の台湾出兵当初は、日本軍もマラリアにはなす術もなく、

病死者を多く出しました。 台北城内に「台北兵站病院」をつくり

病患兵士を収容しようとしましたが収まりきらず、寺院の天后宮に「第一分室」を

設けたほどでした。

やっと、マラリアが蚊によって感染することが発見されたのは明治30年のことでした。 イギリス人駐インド軍医で、熱帯病研究者でもあったロス氏が事実を確認し、

2年後にマンソンが人体実験で実証したのです。 ロスは、この発見によって、

ノーベル医学賞を受賞しています。

 

台湾のマラリア蚊は、全11種、変種も加えると16種にもなります。

ロスがマラリア蚊を発見した2年後、マラリア蚊の研究を進めていた

木下嘉七郎は台湾で最初にマラリア蚊の存在を論文で発表しています。

木下は、その4年後に研究のためドイツへ渡りますが、

台湾マラリアについて多大な貢献を果たした彼も36歳の若さで亡くなっています。

そのころ、羽島重郎も台北地域でマラリア蚊の研究・調査を進めており、

マラリア蚊の新種を発見し、「台湾マラリア蚊」と名付けました

 

小泉舟もまた、台湾のマラリア蚊の種類と生態について研究していた研究者です。

そして、マラリア蚊類の隆盛期が毎年5月と10月で、衰退期が3月と8月であることを指摘。マラリアは感染した体内に約2週間潜伏し、感染者は1、2カ月以内には死亡することを確認しました。

 

小泉の助手であった森下薫(後の台北帝大医学部衛生学教授)は、

台湾をあまねく走破してマラリア蚊の分布と脾臓腫との関係を調査しました。

これら研究者の功績を受けて、昭和4(1929)年4月、中央研究所は「マラリア治療実験所」を設立。 そこで小田定文、菅原初男、並河汪、石岡兵らが、台湾の風土病撲滅のため、心血を注いで貢献したのでした。

 

こうして日本人医師の努力によりマラリアは絶滅、さまざまな瘴癘も次第に退治され、台湾は清潔で住みやすい島へと変わっていきました。

 

マラリアや天然痘は今や撲滅されましたが、替わってデング熱や新たな感染症が登場しています。 日本では今、海外からもたらされた毒を持つアリ「ヒアリ」も話題になっています。暑い夏、感染症や夏特有の病気には十分注意して楽しい夏を

お迎え下さい。

 
日本の医学、医療関係者は素晴らしいです!!
自衛隊員もそうですが、あまり日本国内では評価されないし、 
アメリカと違って安月給ですw あんなに働いているのに。。。
アメリカとは保険制度がかなり違って、
日本は病院へ気軽に行けるもんだから、お年寄りの溜まり場となっている
個人病院も多くて、病院に姿を見せないお年寄りがいると、病気かなと心配するという笑い話もあるほどですよね。
そんなこと、アメリカではあり得ません!! 
日本では入院が当たり前な病気などでもアメリカでは通院となることが多いです。  出産も数日入院で、すぐ退院です。 日本では懇切丁寧に医療従事者が対応しますよね。 安月給でwww 
 
と、話が逸れましたが、有名な方々では、 

華岡 青洲・高峰譲吉・野口英世・北里柴三郎・田原 淳・森鴎外・山極勝三郎・秦佐八郎・肥沼信次・山中 伸弥 などなど、沢山いらっしゃいますね。