台湾の若者を命懸けで守った日本人 2・28事件から70年「史実知って」

1/4(水)

 

戦後間もない1947年に台湾で起きた「2・28事件」。

日本に代わって台湾統治を始めた

国民党政権が多数の市民を殺害する中

命懸けで民衆を守った男性弁護士がいた

 

熊本県宇土市出身の父と台湾人の母を持つ

坂井徳章(台湾名・湯徳章)

 

言論統制が長く続いた台湾では詳しく語られてこなかったが、

その生涯を描いた本が日台で同時出版された。

坂井の命日を「正義と勇気の日」と定める台南市は、

事件から70年の節目となる2月28日に犠牲者の慰霊祭を開く。

 

台湾のために尽くした父の思いを継ぐ

 坂井は1907年、日本に統治されていた台湾で生まれた。

8歳のとき、交番襲撃事件で警察官だった父を亡くすが、

台湾のために尽くした父の思いを継ぐように自らも警察に入り12年間勤務

 

差別に苦しむ台湾人の人権を守るには弁護士になるしかないと東京に移り住み、

苦学の末に司法試験に合格した。

 43年に台湾に戻り、台南市で弁護士事務所を開設

敗戦で周囲の日本人が引き揚げる中、中国から渡ってきた国民党政権から民衆を守ろうと、台湾に残って弁護士活動を続けた。

 事件が起きたのは47年2月28日。

政府へ不満を募らせ抗議活動する群衆に向かって警備兵が機銃掃射。

人々の怒りは台湾全土に広がり暴動が起きた。

政府の凶暴性に気づいた坂井は、大学に出向いて決起しようとしていた学生らを説得。

思いとどまらせたことで、その後の容赦ない武力鎮圧から多くの若い命を救った。

 しかし坂井自身は、日本人を首謀者に仕立てたい当局ににらまれ逮捕された。

隣の留置場にいた男性によると、坂井は取り調べ中、天井からつるされ、銃床で殴られても、決起しようとした若者の名前を一人も明かさなかったという

 処刑が行われたのは逮捕から2日後の3月13日。

拷問で肋骨(ろっこつ)が折れ、手の指も動かなくなった坂井は、後ろ手に縛られ、

処刑場となった台南中心部の公園に連れてこられても悠然としていたという。

 多くの市民が見守る中、目隠しされることを拒否。 言うことを聞かせようと

蹴りつける兵士にひるまず立ち上がり台湾語で叫んだ

「目隠しは必要ない。なぜなら私には大和魂の血が流れている。もし誰かに罪があるとしたら、それは私一人で十分だ」

さらに日本語で「台湾人、万歳」と高らかに叫んだ直後、3発の銃弾に倒れた。

 戒厳令による言論統制が87年まで38年間続いた台湾では、政府に立ち向かった坂井のことを詳しく知る人は少ない。このため、ジャーナリストの門田隆将氏が当時の資料や証言を丹念に集め、ノンフィクション「汝(なんじ)、ふたつの故国に殉ず」(角川書店)を先月刊行した。

門田氏は著書の中で

「どんな拷問にも耐え抜く徳章の気迫は、若者の『命』を守り、『人権』を守り抜くという信念に基づくものだった」と伝える。

 処刑された公園の近くで生まれ育ち、その足跡を調べている李文雄さん(67)は

「常に弱い人に寄り添う正義の人だった。日本人、台湾人を問わず、

多くの人にこの史実を知ってほしい」と話す。

 

【ワードBOX】2・28事件と「正義と勇気の日」

 2・28事件と「正義と勇気の日」 1947年2月28日、中国から台湾に渡ってきた国民党政権に抗議する群衆に対し、警備兵が機銃掃射し数十人が死傷、台湾全土に騒乱が拡大した。

政府はいったん話し合いで解決する姿勢を見せた

3月8日に中国から援軍が到着すると鎮圧を開始

教育者や医師、弁護士など多くの知識人層を逮捕、処刑した

 

92年の台湾政府の報告書によると死者・行方不明者は1万8千~2万8千人とされる。

台南市は98年、坂井徳章が処刑された公園の名称を「湯徳章紀念公園」とし銅像を建立。2014年、命日の3月13日を「正義と勇気の日」に定めた。

=2017/01/04付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞社

 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170104-00010001-nishinpc-int

 

クズ蓮舫なんかと比べてはいけないけど、大違いですね。 台湾のかたがたはしっかり

真実を伝えていますね。 これまた比べたらいけないけど、シナコリアとは大違いです。

 

こんな方がいらしたのですね。 大和魂の血が流れていることに誇りを持って自国日本の為に行動しないといけないなと改めて思いました。