パラリンピックが始まりましたね。
我が家ではオリンピック同様チケットを取って楽しみにしていました。現地での観戦は叶いませんでしたがTVでの観戦を楽しみにしています。
(でもやっぱりパラバスケはその激しさを実際に見て体感したかった…残念です…)

パラリンピックをとても楽しみにしている我が家ですが、開会式を家族で見る際に、改めて「障がいを説明するって難しいな」と感じました。

やはり娘たちが開会式の選手入場を観て気になるのは、選手たちの障がいが一体何なのか(あとは国名と国旗)

「この人は腕が片方しかないんだね」「この短い手で国旗を持てるんだね」
「この人はサングラスをかけているから目が見えないのかな」
「この人はなんの障がいがあるんだろう?」

純粋な疑問です。
身体的障がいを抱えた方はパッと見でわかることが多いですが、知的障害など、表面的にはわからない方もいらっしゃいます。
「障がいとはなんなのか」ということを説明するのが難しいです。一言では語れないですよね。


娘が保育園で同じクラスだった友人に軽度の知的障がいのある子が居ました。障がいがあっても健常児と一緒に保育する保育園なので、「◯◯はこれが出来ないから手伝ってあげる」「一緒にやる」「待つ」そんなことを娘は自然にやっていました。

「なんで◯◯はこれが出来ないんだろう?」

そんな疑問には、「人によって出来ること、出来ないこと、得意なコト、苦手なコトがあるんだよ。早く出来る人もいれば、ゆっくりな人もいるよ」と話をして来ました。「娘にも苦手なことはある。早く出来ればいい、というものでもないよ」と
娘の友人は、娘は障がい児だと思って接していないし、私自身もそう思って接していなかったので、わざわざ「彼は障がいがあるんだよ」などと娘に知らせることもありませんでした。


また、娘の学校のクラスで、じっとしていられない子がいました。お喋りも止まりません。
私自身接すると、確かにお喋りではあるものの、いろんなことに興味を持った素直な子だと思いましたが、一日中相手をする担任の先生はずっと注意をし続けねばならず、うんざりしていたのかもしれません。クラスの皆の前でキツメに注意することも多かった様で、娘の口からも「煩くて迷惑なんだ」という言葉が出る様になってしまいました。
親としては残念な言葉でしたが、娘の正直な気持ちなんだと思います。

その子とは別に、現在のクラスで保健室登校をしている子もいるそうです。休む日があったり、来てもクラスに居るのは数時間で、あとは保健室にいるそうで
「ちょっとしか来ないなら来なきゃいいのに」娘はそう思ったそうです。「凄く頑張って学校に来ているかもしれないよ。学校に来たくても、来ると体調が悪くなっちゃう子もいるんだって。だからその子も行きたいと思っていても、学校に着くとやっぱり無理だ…ってなって保健室に居るのかもしれないよ?」そういう話をしました。
娘がどのように感じたかはわかりません。


障がいだけでなく、自分と違う状況にいる人のことをどう捉えて娘は成長していくのか。
娘の疑問や意見を否定するのではなく、色々な人が居るということを色々な状況にある人が居るということを、どのように伝えていくのか…


実は私は足の骨が生まれつき変形しており、産後負荷がかかり歩けない時期があり、次女妊娠時には車いすで生活をしていました。
今はトレーニングの甲斐あって、歩けるようになり、調子がいい時は軽い登山も出来るようになりましたが、骨の変形は変わらないので、私自身がいつか「障がい者」になるだろうと子どもたちには伝えています。
子どもたちも現在は健康に恵まれていますが、いつか事故に遭うかもしれない。精神的に辛いことがあるかもしれない。だから決して他人事ではないんだよ、と常々伝えています。

他にもジェンダーの違いであったり、これから社会に出ると様々な違いに遭遇すると思います。
そのたびに娘たちは色々考えて行くのだと思います。いろいろな違いを受け入れ、優しく接せられるようになってくれれば嬉しいです。


娘はパラリンピックでは競泳とバスケとロードレースが楽しみだそうです。

競泳は、「片手や両手、足が無い人がどうやって泳ぐのかを見てみたい」とのこと

先日拝見した記事で、
「手足が無いのにどうやって泳ぐんだろう!?って興味を持って欲しい。陸上では不自由な体が、水中では如何に自由かを見て欲しい。」と発言されている選手がいらっしゃいました。
シンプルにそういう見方でいいのだな~と。


疑問や知識を得ることも大事ですが、まずは純粋にパラリンピックを観て楽しめたらいいな、と思います。


多様性を知る上で我が家ではたくさん読んだ絵本
「さっちゃんの魔法の手」