先日 講演会に参加してきました。


その方はとても高名な先生で

多くの学びもありましたが、残念な気持ちも大きかったです。



発達障がいに関する本を読んでいても よく思うコトなのですが…。

理解や受け入れを促す内容のものが多いように感じます。


そして私の(一般的ではない)感覚は やはりうまく伝わらないのだなと実感しました。

どんなに研究をされ 多くの当事者に関わってこられた方でさえ

微妙なニュアンスの理解に ずれが生じるのだと…。


それは私たちが 多数派を理解しきれない 感覚の違いと同じなのだと思います。



発達障がいを研究されている先生方は

『この子達の生きにくさを理解し、受け入れましょう。』

と訴えてくださる方が多いのですが


自立するためにはどうすれば?(私はそれを学ぶことが療育だと思っています)

という療育に関しては あまり視点が向いていないように感じました。

もしかしたら 「今は理解してもらうことが最優先!」 との考えから 

そちらを優先しているだけかもしれませんが…。



「できない事を無理強いしてはいけない。」


この言葉を 『本当の意味』で 理解している方が

どれだけいるのかな。


というのも

「この子は○○(発達障がいや自閉)だから できないの!」と

なにもかも 障がいのせいにして 周りを攻撃してしまう保護者の方々や


「ムリに頑張らせなくてもいいのでは?」と

その子の力量を見極めることさえせずに

できないと決めつけてしまう 療育者の方々を目にすることが多く…。



できない事をできないまま終わりにしてしまったら

どうやって自立させればいいのかな・・・


そもそも自立させるという考えが 間違っているのかなぁ


でも それじゃ 支援体制が整っていない今の日本では

親がいなくなったら 生きていけないんじゃないかな?



どうも『障がい』 という言葉ばかりが 先だって

その子自身が見えなくなってしまっているのではないかな

と切なく感じることが多いのです。( ´(ェ)`)



私は 障がいとは

ある部分が不自由な事だと思っています。


目や耳が不自由な方 足や手など身体が不自由な方

その方たちと同じように 目に見えない部分(脳機能やメンタル面)も

同じではないかと思っています。 


考える能力が不自由(知的障がい) 心のバランスを保つコトが不自由(精神障害)

などと同じように 見えない部分に 様々な不自由さを抱えたのが

発達障がいではないかと…。


そして、その不自由さを抱えた方達すべてが 健常な方達と同じように

一人一人が 『心や考え』を持っている 一人の人間であるというコト

健常な方達と同じように 同じ人間は一人もいないというコト


そんな簡単で 何よりも大切な事を 忘れられてしまうことが多いような気がします。



もちろん足が不自由な方に 歩けと言うことも 歩かせようとすることもしませんよね。

目が不自由な方や 耳が不自由な方も同じ。


たしかにそういう意味では 「できない事を理解して受け入れる」


でも 目や耳や足が不自由でも 

生活のすべてを 介護してもらって生きているわけではないですよね


目で見る代わりに 点字で本を読むことだってできるし

手触りや音を頼りに 簡単な料理だってできる方もいるようです

(もちろんすべての人が同じようにできるとはいいません)


人それぞれ 多少の差はあっても 自分にできる方法で 

自立する努力はしていると思う。


発達障がいだってきっと同じコト

自立せずには生きていけないと思う


できない事を無理強いするのはよくないけど

できない!で終わりにしてしまうのはもっとよくないんじゃないかな


その子の可能性をちゃんと見極めて その子にできる方法で

できない事をカバーする方法を身につけさせてあげる(教えてあげる)

将来の自立に向けて サポートすることこそが支援のあり方じゃないかな



ピヨを育てていて 発達障がいについて いろいろな情報と触れ合うたびに

何度となく自問自答してきたことだったので


今回初めて言葉にしてみました


でも これはあくまでも のんびりの考え

賛否両論あると思います

人それぞれ自分の信念がブレなければ それがまた正解なのだと思います


だって子供や大切な人を想う気持ちは みんな同じですもんね。(*⌒∇⌒*)

だから遠慮なく 私はこう思う!という意見も聞かせてもらえたらなと思います。


これからもどうぞよろしくお願いします。(#⌒∇⌒#)ゞ 



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