「ハートアンドソウル」BYジョイディビジョン


僕らを裏切るかもしれない本能
太陽の傍まで連れてかれる旅
魂スカスカで破滅にだけ没頭し
正しいことと誤ったこととの間で葛藤し
土壇場できみに居場所を奪われたりする


憐れみを乞う目つきで僕は観察している
卑しい者の口調で許して下さいと言う
それは僕らなんかの頭上にある要求である



心と魂 燃えるだろう
心と魂 燃やすのだろう



創造に生命を与え続けている深淵
(別の歌詞サイト:創造を笑い飛ばす深淵)
あらゆる道化を満載したサーカス
時代を潜り抜けて生き残った基本法則
そうして根っこからそれらは引き裂かれる


これら全ての善きものを超越するのは恐怖
損得勘定の手のひらでのひとにぎり
残酷さが正当な理由のために復活したら
(別の歌詞サイト:残酷さが全ての善き動機をひっくり返したら)
今さら後戻りなんか出来っこないし無抵抗



心と魂 燃えるだろう
心と魂 燃やすのだろう



存在っていうけれど存在が何なのさ
僕は最高に存在してるっていうのに
過去だって僕の未来の一部だったし
現在には何だか手が届きそうにない
現在には何だか雲をつかむようだけど



心と魂 燃えるだろう
心と魂 燃やされる
燃やすのだろう ひとはそれを燃やす
心と魂 燃えるんだろう


ミシマユキオの金閣寺をいまノートに写しているのだけれど、そうすると驚くのはこの天才、むずかしい言葉なんかぜんぜん使っちゃいないということ。文によってはほとんど全てひらがなだったりして、あとは当たり前だけれどひとつの感情についても、その感情に至るまでのステップをいちいちの動作で描いてくれているので追体験もしやすい。そういう文豪に出会ったことはないけれど、ハードル上げるばっかりでぜんぜん、素人には分からない感情の領域を掘り下げ掘り下げして、

ここからは王族の領域だ黙れ小憎、みたいな、眼が眼がみたいな、理解るひとにしか分からない領域、でクロールしてそれですごく楽しい、みたいな文豪もあるにはあるだろうし。それはスタンスの問題だけれども。岡本かの子も、ジャンルとしてはよく理解しがたい分類に入るのかな。うんでも分かる分からないで文豪分けることは出来ないか。アクセスしやすいかどうかはそのひとのスタンスに寄るしね。
ジジを相手にひたすら、フィオナアップルが別れた男の子の写真にダーツをぶっさすみたいな具合で(本人が自分の持たれているイメージについて被害妄想気味に言ってた。余談ですが
マリリンマンソンが彼女を、手も握れないぐらい好きらしいすね、、)、ミシマユキオの短編の、電車がとおる描写がいいんだ、鴉を集めて夜空にはなつ、これって何の音だと思う電車の音よ、みたいなことを例の昂奮のテンションで話していたら、みんながそれほど感動するわけじゃないよ、みたいな平明なことをスラッと言われた。マジで?と思った。たとえばレディボーデン食ったときに、レディボーデンの席に居なかったやついたらスプーンですくってこれマジ美味いから食ってみ、みたいな気持ちになるであろう。あれ。俺にとってのレディボーデンミシマユキオオカモトカノコシバリョウタロウ。しかし動物性蛋白質に食傷気味のひとには上記のやつってけっきょく空しい。前に書いたような気もするけれど、丸坊主の神様に目鼻クチをほかの神様が、寄ってたかって開けたら死んでしまったという中国の故事。レディボーデンを流しこむつもりだったのかもしれないし。その気持ちはよく分かる。ひとつのことが大変に好きであるとき、それを全然好きでないひとのことをつい忘れる。しかし甘い物が好きなひとの数だけパイの実があるわけじゃあないし、またパイの実が嫌いなひともいるんであろうからな。何かAがいたらA以外が同列にいるということを強烈に意識しなくちゃ。パイの実食えないなんてサイテーよとか言っちゃうと思うから。ジョジョ読んでないなんて人間じゃないみたいなね。人間やめたら?みたいな。私とっくにやめたよ?的な。つーかこれだってジョジョ読んでないと明日って現在さとか、よく共有できない事態に陥ると思うし。
あえてうちにある動物性蛋白質と微かな音楽を紹介してみようかしらと思う。アマゾンのレビューで、聖おにいさんについてクリスチャンだけれどなかなか勉強されてるなと思いますというのがあっていいのかナーと思った。日本でしか出せない漫画というよね。関係ないけれど、日本カルチャーのあの白黒バキバキにつけたがるところと、他方でむちゃくちゃに適当なところがだいすきです。劇にしても歌集にしても、ますらおとかたおやめとか公衆トイレのように区分されるものもあれば、オチがないシリーズみたいなのがあって。狂言の一つだったかで、太郎冠者が泣いている、次郎冠者がどうしたのっていうと、あの鬼がわらがうちのカミさんに似ているんだ、以上。これ別にウケを狙っているとか、そういう類のものじゃなさそうなんです。ただ、母ちゃんに似ているといって泣いている。ただそれだけ。時代室町つながりだと、あの時代の退廃した気分の反映でかへんてこなのが色々と不幸に蠅でも立派なのが止まるようにあって、はえでも寺山修二とかはそれで1本戯曲を上げるんだろうけどさておき、室町時代の歌で。うちの生き別れたティーンエイジャーの娘は、歩きみこになってそのへんをふらふらする内に、景色のいい海岸とかにきたら若者につかまって嬲られたりしているだろう、みたいな(母親らしいひとの)歌がへいきで収録されていて、善悪の埒がいのただ奔騰する生命がいいじゃないのというような肯定の母胎をみとめる。万葉集に出てくるような、枕を嫁に行った娘の代わりにみたててさあ一緒に寝ましょうみたいな殊勝なお母さんとだいぶ違うし時代の変りすぎ。そういういいのかなこれ、みたいな歌ばっかりでもないにしても、オチがなかったりオチが非道だったりするのを無造作に集めてあるのが閑吟集とかそういう名前であったかと思います。御茶ノ水の古本屋でありますかって言ったら小娘だと思ってなめられたのか、花歌を止めてくれなかった。仕方がなく100円コーナーでエリカジョングの『飛ぶのが怖い』を買った。タイトルが当時はべらぼうにいかしていると思って、ハイヒールみたいにいつか試したいとかあこがれのオートクチュールを観るように思っていたから手の届く値段であって大変うれしかったのを記憶しています。

『ある微笑』フランソワーズサガンが『悲しみよこんにちは』で売れまくったあと、「私、この次の小説を大人たちがマシンガンを持って待ち構えてるってこと分かってるわ」とか言いながら出した第二作。じゅうぶんにマシンガンだと思う。悲しみよ~が当時、何かセンセーショナルだったのは文体が巧いとかそういうことよりも、自分の父親がねーちゃんを引っ掛けてうちに連れて来て、そのねーちゃんと一緒に別荘でバカンスとかしているというのが、当時としてはいかがなものかという設定だったみたいで。「父は彼女を連れてくることが嫌でないかどうか、私に聞くことさえした。」だから父はとても私に寛容で気がきいていて、女がいないと駄目という性分は分かっていたし、また女自体が自分たちのバカンスに大した影響を与えないことは理解ってたからみたいなスタンスで、父のガールフレンドとも余裕で親しくなっていたわけですが、うちの73歳の祖母がティーンエイジャーだったころに、同級生のコがそんなセリフを言ってたらやっぱり白い目で見られたんだろうなと想像します。

んで、「ブルジョワの令嬢かスキャンダラスな作家か」という選択肢が彼女の進路にあって、けっきょくはブルジョワの作家でスキャンラダスな令嬢と言われるようになった、とうまいことを彼女は言っているんですが、この第二作、主人公は自分がいつかは死ぬ運命にあるということを、ふとした拍子に強いイメージで直観するシーンから入り、あとは自分のボーイフレンドのちょっと変わり者の叔父さんに出会って浮気するというはなし。この、叔父さんの奥さん、ちょっと太っていて大して美人じゃないけど母性型の女性、「彼女は母親であるために造形されているのにどうして子どもがいないんだろうと不思議に思った」と皮肉じゃなく描かれているこの女性に、フランソワーズという自分とおんなじ名前をつけてるっていうね。「私、自分がおばあさんのような気がするの。」という大してゆうめいじゃないし、実際に使うとえてしてひとを滅入らせる台詞がありますが、サガンの作品に出てくる登場人物はみんな人生に疲れていると言われていますから彼女もその一。倦怠の手段が少女であることって案外通るんじゃないかな。バージンスーサイズの「まだ13歳の女の子で若いのに。」自殺未遂なんかしたりして、という医者にたいして13歳の女の子になったことなんかないでしょ、と言うのは名言とされているけれども本当にそう思います。サガンの主人公がハタチそこそこだけれどおばあさんのような気がする、というのは段差を下げてくれているだけで、私って若いのよと言われてるのとおんなじことに思います。しかし老化現象ほど自然なことはないのにどうしてこういちいち悲しいのでしょうか。「私にはもうセックスアピールがないことは分かってたし自信がなかった。」とかいう、フランソワーズ(浮気相手の丸顔の奥さんのほうの)台詞は若い女である私から観て、あまりに意外だったと書いてあってこのへんは年老いた思慮深い女にたいするシンパシーとデリカシーで上品だと思います。台詞は私のうろおぼえで下品に落ちてるけど。


『かの子繚乱』岡本かの子をイキナリ読む以前に、かの子がどういうひとであるかを、別の女流作家が詳細にレポートしたのを読むとなるほどと思うと思われます。作者は晴美のころの瀬戸内寂聴さんです。「きみは身体中のホックが外れているような女だな、」みたいな上司と浮気するみたいな話を描いていたころのペンネームで、ホックが外れているような感じのかの子文学を詳細に、その人物像から描いておられます。これ読んどくと、作中でパパア、とかやたらに言ってる理由とか、素焼きの壺と壺とがただ並んでいるようなごくあっさりした男女の関係というのは無いでしょうかとじっさいに言われた話とか、そういうのが分かるので滅茶苦茶なかの子文学の中盤とか後半とか、大団円の持って行き方みたいなのがたしょう分かります。それでもかの子文学って、何か物恐ろしいところが沢山あります。近所の植え込みの蕾を、ぎゅっと押すと「おぎゃあ」とか赤ん坊の泣くこえに聴こえるという描写があるんですけれど、ただ自分が夫を持ったり出産したりしないで、厳しい芸術の道をひとりで歩いている女流華道家であることの総まとめみたいなものだったらしいです。パッチギ、みたいな感じかしら音の雰囲気としては。音の印象としては。
「いい加減ミシマとか読もうかと思ってるんだけどねー、ゆなちゃん何かぱっと思いつくのない?お勧めあったらおしえてよー」とか正宗さんが言っていたのでおためごかし(おまじないと化している。意味がいまだによく知らない)、「仮面の告白、カフカの変身(ムンクのさけび)、国盗り物語。」とガチすぎる布陣で3ついってみた。あまりの自分の気合いの入り様にわらけてくるけど。女の作家ばっかり言ってみたのであと、色川武大をあげつらいます。『百』っていう短編をビレッジバンガードで買ったのが出会いだったけれどこれがくそみそに面白いんです。たいして詳細に書かないんだけれど全然いいやって感じで。アメリカの小説とか、時間を教えるために時計を示すみたいな言語のつくりがまんまテキストになってるみたいな、視線が動かされすぎてけっきょく今何の場面?という風に混乱してしまうのですが、色川武大は「その、坊っちゃんっていちいち言うのやめてくれないか。」「気にするな、別に尊敬して言ってるわけじゃねえ」とか、そういう台詞がラーメン屋の店に連めんと張ってあるメニューの短冊みたいにダラダラ続いて人が死んだりとかゾンビのまま麻雀打ったりとか、でもゾンビなのに手加減されなかったりとか(こっちの方面は阿佐田哲也だけれど)、何だか混沌としていて単純にその匂いがいいなーというだけです。部屋の中がむちゃくちゃに散らかっているというひとは現実にもいるけど、その場所を「巣」って呼んでいて(安部公房の人物でもないのに)、そこに着物をきた女の友達がねっころがって、帯のところが嵌るから平らに寝られるといって喜んだりする。それがただ居心地がいい作家のひとです。そういう理由で人気があるんだと思う。鉄腕アトムみたいなの描いて欲しかったな。戦争中、同じように学校をドロップアウトした友達と(原因は壁新聞だったそうだけど)、昼間ヒマだから公園で何とはなくトコロテンを食ってて、気分の持ちようによってはそれは非常にまずいんだけど、ごまかすように上をB29が往くので、友達が「あ、上にもトコロテンが飛んでいらあ」とかいうのをつめたい耳で聴いてるような描写がたくさんはいる。麻雀放浪記だったか、ばいにんぶるーすだったか、そんなのに囲舎から出てきた天才パチンコ少年が俺は天才だよ、地元じゃみんな俺のことパチンコの神様だっていうよ、という台詞におじさんがきみくらいの年齢のころはみんな何かの天才だよ、といっていてそれがたまらなく居心地が良かった。背景とかの描写は別にないしA級の障害児とかいきなり衾ひらいて横たわってるとか言われても、よく理解らないところがあるけど大変にいいです。ドススメです