御前の仕事はなんだいと聞くと踊り子だと云う。踊り子とはつまり芸者の事かというとゲイシャではないと反発する。近ごろは日本語を覚えだして迷惑する。それでは御前は踊らないのかねというとますます怒る。それでいてその踊りについて、踊るも踊らないもとだいたい次のことを云う。自分は幼少の頃より、踊り子として修練してきて、今では第二位の売れっ子である。日本のゲイシャなどと一緒にされては困る。どっからどう聞いても芸者だから、恐らく日本の伊豆あたりでは芸者で済むものを、欧州のドイツでは舞姫ぐらいに出世させないと収まらないのだろう。
襟すの母親は未亡人である。女手ひとつで娘を育てていくうち、世間というものがよっぽど信用ならんと思い定めたらしく、見知らぬひとの前では目くらの振りをしている。それでも、往来で銅貨ひとつ落ちようものならちゃんとそっちを向くんだからよく出来ている。おい婆さん、と声を掛けると皺のなかにまた皺をつくり、気味の悪い首をかしげている。笑顔のつもりらしいがまったく気味が悪いだけだ。ええいあっち向いてろと云うとハイ旦那様と云う。旦那様、というのが此の場合不自然なはずが、あまりに自然であるのに己は少々驚いた。
自分はいつからここの主人になったものか。御前ついにボケたのか、亭主のお迎えが来たのかというといいえちっともそんなんじゃ在りませんと云う。間違いなく目あきの目である。この目で見つめられると亭主じゃなくともすくんでしまう。いったい何の積りで盲人の振りなんかするのだろう。世間には悪い人がたくさんいますからと云うが、何の悪いこととて善良な人まであざむくほど悪い事もあるまい。
そんな事を考えるうち、うん置いてやると云っていた。何やら誘導尋問にかけられたようだ。年がいもなく大喜びする老婆をみて、何やらとんでもない約束をしてしまったものと気づく。ええい婆さん冥土に行く前に返事しろ、おれは今何と云ったという。武士に二言はないと仰いましたとシャアシャアと云う。そんな事は御前が広辞苑でも引いて覚えた事だこのうすらだぬきめ、おれはうん置いてやると云った、そこまでは覚えているのだ。いったい何を置くのを承知したのだとたずねると、おだまんなさいと逆に叱られたので驚いた。もうすぐ父親になられるお方が、そんなていたらくではどうするのです。ていたらくはいい、しかし一体何で父親になるのか、と思案するとつと考えが浮かんだ。ばばあもばばあで、己のそういう瞬間を観察している。どうやらたぬきが人間に化けたものらしい。
襟すが妊娠しました、と云うのは、先月あたりから盛んに老婆が付くようになった嘘である。初めのうちは驚きもしたが、身重のはずの当人が日々ゲイシャをやってる以上は嘘なんだろうと見当がついた。一体何だってあんな嘘をつくんだろうと思ううち、思い当たる事が出来た。己の財布から現金が抜け落ちている。それも二度や三度ではなく、酔いの回った翌朝など確実に札の一枚二枚はよけいに這っている。むろん、賊は自分を介抱して呉れている。賊は賊である以上、ボランティアでそうしてくれるのではない。手間賃はこちらが支払わなくとも、自動的に差し引かれているというわけだ。
婆はそうした財産の使い込みを糊塗するべく、しきりにこの日本人に娘と結婚するように勧めてくる。哀れなものだと思う。こういう母親のもとに生まれた娘も哀れだし、この化け物のような婆自体もそれはそれで哀れなのであろう。襟すが生まれた子には教会に行かせるとかいって、夜ごとつぶやいていたイエズス会の文句を、もっときちんと聴いておけば良かったと思う。襟すはゼウスの前にはみな平等だと云った。平等なのは結構だ。しかしこういう化け物のような婆さんを、化け物と呼んではいけない道理など教わりたくない。化け物だから化け物だ。欧州だろうと伊豆であろうとゲイシャがゲイシャであるのと同様、天に誓って化け物は化け物でしかない。
ぢかごろはそう云ってさえあなたは嘘がないからよいご気性ですと云う。嘘つきと分かっているものに、嘘をつかれるほど気味の悪いものはない。どうやら機嫌を取り結ぼうとしているらしいが、枕元にうどんが運ばれてくるサーヴィスにもうんざりする。己は江戸っ子だからソバが好きだし、大体原作でもこの箇所はソバだというのに婆だから物覚えがハンパである。そのくせ三円貸して呉れる辺りとか原作に忠実すぎて気味が悪い。さてそろそろベッドにイナゴだなと思ううち、こんなところ首になるに限ると思い定め、さっさと天方伯に電話した。迎えの船がすぐに来た。
石炭を片っ端から積み下ろしていると、不思議なものですぐに飽きる。船中で襟すからの手紙を開くと、否という字で始まっていた。おそらく拝啓というのを書きちがえたのだろう。これだから教養のない女は迷惑だ。かと云って悪気もないんだから己も適当になつかしんでいる。我ながらいい身分になったものだと思う。出かけるときも、襟すはまるで子どものように分別がなく、頬に涙を千行ぐらい垂らして泣くので手を焼いた。金色夜叉なみに蹴っ飛ばそうかと思ったが、野蛮人だと思われるのもシャクだからおとなしくした。よしよし向こうに着いたら土産を送ってやる、何がいいと云っても黙ったぎりで泣いている。いま手紙を開いてみると越後の笹飴がたべたいと書いてある。いったい何でそんなもの知ってるんだろう、さては婆かと思い至る。石炭がひとつ飴のようにころがる。すでに船である。己には陸の上の婆さんをながめる余裕がある。海中にころげ落ちんばかりに身を乗り出し、毛を天のほうへと逆立てて何か喚いている。大方、笹飴の辺りどころでも悪かったのだろう。襟すの手紙の返事に、笹飴を送ったら婆に笹ごと食うように伝えて欲しいと書いた。もういいだろうと思ってみると、やっぱり婆は立っている。婆が笹飴を笹ごと食べるのが目に浮かぶ。越後という地名は独逸からは遠いが、確かに日本である。笹飴が薬になるかは知らぬ。婆の事だから、現金でも送るまで生きのびるに違いないが、いよいよ離れていく船からだと、なんだか大変小さく見えた。