ドストエフスキーと無人島に取り残された場合。


私は彼を「どっちん」と呼んだ。急激に、ものすごく自分が親しいこと、かつ相手を食べる意思がないこと、またこういう人間を食べた場合に何らかの呵責に、将来なやまされそうだぞということを彼に、警告するべきだと思ったからである。彼は、人類を愛せるか愛せないか、つねに考えているケイレツなロシア人で、つねに自分をロシア人だと認識している。彼がロシア的、というときは、魔性の力に屈服してしまう人間のばからしさを言うときで、そのくせ彼はそういう人間を、捨てきれないようにも見えた。だから、もし魔性の契機が訪れれば、人間を食べるくらいのことは、彼は物語りが命ずるままに「実行にうつす」恐れがあった。祈るような、気持ちで私はドストエフスキー、略して「どっちん」と呼んだ。
「でどっちんは何を持ってきたの」無人島に入る前、「もしも無人島に一つだけ持っていくなら、何をもっていく?」という、あの問いに出会ったはずである。私は現場にいなかったが、彼のような男だったらそういう憂き契機を避けられるはずがない、と踏んだ。果たして彼は、苦渋に満ちた決断だったことを、物語るような表情でポケットから、その悪魔的な憂鬱のかたまりを取り出した。
聖書である。
「どっちん、どっちん、」私は、罪のない、いながらに健全でただしい民衆の一人となって、そのロシア男にたずねた。「どっちんあなた、気は確かなの?」これは無人島の外にあって、彼が神を信じないというときに婦人にされる質問と同じである。「無人島に来るのに、あんた、自分が脱出するか、生活をするかしないといけないって、誰もあんたに言わなかったの?あんたのその、賢いあたまの中にいる、誰も?」私は食われないよう、注意してばからしく振る舞い、足元にある石をながめた。「それじゃ仕方がないわねェ…」と半ば絶望したように、かつ、太陽のしたにいればどこかで神の加護がある、と信じているような後姿を見せつつ、なるべく一直線をたどらずに去る。「どっちん、それじゃ」たとえばの話しだけど、と、いくらか脅威を感じてもらう最後の手段として「あなた、聖書にくわしいようだけど、こういう話ってないの?もし、人間がふたり、無人島に放り出されて、たった一人の友人が、生きていくのに役立ちそうな物を、何ひとつ持ってないと知って、絶望した相手がつい起しそうな罪から、被害者と加害者を救い出すような話しって?」
どっちんは黙って、ページをいくらもめくらないうちに本を放り出して、
「その答えが無いってことを知るために来たんだ。」
などといい、砂にくるまって何もしなくなるに違いない。だから、ドストエフスキーと二人では無人島を脱出できない。