もうちょっと細かく色々と書きたかったのですが、今の私にはこれが精一杯でした。
守ってもらっていた一人の女の子が女性へと、そして真っ当な人間へと変わっていく様をちゃんと書きたかった。
彼女の未来はまだ誰にもわかりません。それはきっと彼女が迷い苦しみながらも、きちんと考えて生き続けなければ“未来”なんてものは存在しないから。
いつかまた、彼女と会える日が来ることを。そしてその時の彼女が今以上に素敵な人間になっていることを願いつつ、このお話を終わりにします。
読んでくれた全ての人達にお礼申し上げます。

あと、一つだけ。
この話はフィクションです。
平日の夕方までは派遣社員として働きながら、夜は勉強をがっつりとしたり、たまにお酒を飲みに行って飲んだくれたり、友達と馬鹿なことをして遊ぶ日々が、緩やかにそしてそこはかとなく続く。
太陽が容赦なしの光線を注ぐ八月に東京に戻って来た私は、日々を忙しく過ごしていた。
カレンダーはもうすぐ師走に入る時期になっていて、ということは受験ももうすぐだった。
焦ってもいい事なんて何一つないということぐらい、こんな不器用な私でも知っていた。だから、焦らないように心がける。時間という概念が私を許してくれる最後の瞬間まで、出来ることをただひたすらにこなす。というよりも、こなすふりをして、その実、私は逃げていた。
逃げるというよりも、見て見ぬふりをして、必死に縋りつくような思いや祈りを抱えていた。
どうにもならないことなんてきっとない、と言い聞かせて。

“事実は小説よりも奇なり”と、誰かだか何かだかが言っていた。
その通りだな、と思うこともあるが、そんなことない、と思ってしまうこともたくさんあった。
作り物はいつだってキラキラ輝いているし、最終的には小綺麗に纏まるのだ。その途中経過がどんなに最悪なものだったとしても。
現実の世界がそうかと問われれば、私は何とも返事を言えなくなる。作り物のように上手くいくこともあれば、その逆もまた然り、なのだから。その結果を望んだにしろ、望まなかったものにしろ。
作り物ではないこの世界は、いつだって残酷で、そして優しいものだと思い始めていた。

何とかして年末年始に地元と札幌に戻った私は、ありもしない自信に満ち溢れた言葉を聞かせ、けれど本当は不安なんだということを言葉少なに語った。
笑われるかと思い、踏みつけられて固くなった雪のように心をギュッと固くしていたら、温かい言葉が聞こえて、それだけでここまでやってきたことは無駄ではなかったんだと思えることが出来た。そして、より一層強く思う。期待を裏切ることなんて絶対にできない、と。
「じゃあ、いってきます。やりきってくるから、心の中で応援していて」
試験当日、朝早くに母に電話をし、私は去年も受けた学校へと向かう。
不安で仕方なかった。そんな気持ちは二年前の十一月に受けた試験の時以来で、こんな気持ちになるなんて思ってもいなかった。深呼吸をすればするほど、酸素過多になりそうな恐怖感を感じ、キリのいいところで深呼吸を終え試験に臨む。
国語、数学、英語の試験を無事に終え、学校から少しだけ遠いが歩いて帰る。
冷えた空気が体に沁みて、緊張感からほんの少しの間だけでも解放された私は瞬きをすることを忘れ、気がつけば涙を流しながら歩いていた。
ちゃんとやれたかどうかなんてわからなかった。でも、やれるだけのことはしたつもりだった。限りなく100%に近いくらいはやれたはずだった。
もしこれでダメなら、私は努力の仕方を間違えていたことになる。それだけは何としても避けたい道だった。
家に着き、私は足元から玄関に崩れ落ちる。
何かに縋るような、祈るような気持ちを抱えて。

今までの平凡な毎日はもうすぐ終えるという三月の中旬。
挨拶回りをしつつ仕事の引き継ぎをしていた私は、いつも通りに定時で上がり、電車に揺られ家路に着く。駅から歩いて家に帰ろうとしたら、ふとこれまでのことを思い出して歩みを止める。
そして唐突に、思い着いたことを実行しようと、家とは反対方向に歩き始め、着いた先はよく行っているバーだった。
「やぁやぁ。とりあえず、ビールもらえる?」
顔見知りの店員さんは「彩子ちゃん、お疲れ様ー。顔赤いよー。寒かったんじゃない?」と言いながら温かいおしぼりを私に手渡し、サーバーからビールを注いだ。
いくら昼間の気温が春めいてきたからと言っても、まだまだ夜は寒く、うっかり気を抜くと人恋しくなってしまうほどだった。
私の前に置かれたビールを飲みながら、一人ぼんやりと考える。
ようやく終わって、始まるんだな、と。
十七に時に色んな物を捨てて得た私は、いつも心のどこかで埋まらない何かを持て余していた。投げ出したのは自分なのにも関わらず、出来る限りの事柄を誰かや何かのせいにしてきた。他人の家庭環境とは違うのだとどこかで予防線を張って、いつでも逃げる準備をしてきた。そうすることでしか、自分を保てなかった。
でも、そんな自分に嫌気が差していたのも事実として存在していて、だから私はあれほど戻りたくはなかった地元に一度戻って立て直そうとしたのだろう。
もう誰かや何かのせいにはしたくなかった。どんな過去も、今も、そして未来も、自分で責任を負いたかった。
私に起こったこと全てを人に話せはしない。でも、それが一体何の負い目になるんだろうか。もしかしたらそれは、人として生きているのなら、仕方のない事なのかもしれない。自分の身に起こったことや自分で選んだ他人に話せない事柄など、話せるわけもなければ許せるわけもない。それはずっと抱えていく人には見えない傷みたいなものだ。その証に、私の右の内太腿には黒色でかたどった星の刺青が入っている。体を見知らぬ人に見せないようにするための戒めみたいな、そんな意味合いの誓いの模様。
遠回りばかりをしてきて、気づくのが遅かったかもわからない。でも、ようやく私は自分の事を好きになるための一歩を踏み出せた。
二週間後からは、新しい環境で、年下やもしかしたら同世代、下手すると年上の人もいる“学校”というコミュニティに属することになる。その揺るがない事実が、今の私を生かしている。
頭の片隅でそんなことをぼんやりと考えつつも、偶然来た師匠や常連さんと毒にも薬にもならないことを話し、私は店を出る。
突然吹いた強い風に春の色と匂いを感じ、私は家に帰る。
変わってしまうことを恐がっていた、いつかの私はもういない。
日々のスピードは加速度を増して過ぎ、目の前まで夏が押し迫っていた。
昼間の仕事も辞めることを伝え、職場の人たちには残念がられたが応援もしてくれた。「将来は私達と同じ職種になるのだから、応援しているね。頑張って」という温かい言葉付きで。
東京で一人暮らしをするにあたって、六月の中旬に母と東京に行って部屋探しをしていた。
茹だるような暑さは私にしてみればいつも通りだったが、母にはその暑さが堪えたようで、耳にタコができてしまうんじゃないかと思ってしまうくらいに口走っていた。「暑すぎて腐りそう」と。
昼間や夕方は部屋探しに明け暮れ、夜は私の行きつけのバーに連れて行ったり、食べ放題のしゃぶしゃぶやお洒落なうどん屋さんに連れて行ったり、ここぞとばかりに母を連れまわす。
東京で暮らしていた時、きっと母は心配もしていただろうけど、何よりも興味があったと思う。私が付き合っている人達はどんな人達なんだろう、と。
母も私もほろ酔いになって来た頃、隣に座っている母に話始める。
「…この街を基盤にして私は頑張って生きていたんだよ。英明との関係もここで紡がれたし、色んな人と知り合えて仲良くなれたんだ。…とりあえずはここで頑張るから。地元には戻らないかもしれないけど、国家試験が受かったらもしかすると札幌あたりにいるかもしれない。…その前に看護学校に受かんなきゃ話は始まらないけどね」
「ほんとだよー。頑張ってくれなきゃあんたを東京に出す意味がなくなるんだから、ほんと頑張ってよね」
色んな事があった街に私はまた舞い戻る。今度こそはちゃんと、自分のことを好きになれるようにたくさんの努力をするために。

いつの頃からかは定かではないが、私は自発的に泣かなくなっていた。
…あぁ、そうだ。あれは高校一年生の冬に不眠症になってからだ。まともな睡眠時間を取ることが出来ずにいた頃、私は心を殺して日々を過ごしていた。
震えなかった。自分の周りで起きている出来事では感じることが出来ずに、まともに泣けなくなっていた。泣こうと決めて聞く音楽や見る漫画やドラマや映画、端的に言ってしまえば作り物でしか泣けなかった。
そもそも私という個体は本当に人間なのか疑わしくなった時もあり、存在していることを確認するために自分の左手首に傷をつけたことも、過去にあった。
痛くはなかった。それ以上に安心して涙が出そうになったことのほうが、よっぽどあったのだ。
失望もしたし、言葉に表すとちっぽけに感じてしまうが、絶望した日もあった。希望なんてどこにも見出せなかった。
そんな日々の中にも光は存在していた。友達や、恋人の存在はあまりに大きく、どれほど救われたか言葉になんか表せなかった。
逃げたことや目を背けたことの方が多かった。“逃げるが勝ち”という言葉を捻くれた使い方をして。
逃げて、背いて、そんなことを繰り返しながら辿り着いた場所には何もなく、ますます頭は混乱する。本当に私はこれを望んでいたのか?と。
山の手線や京王線の電車はいつだって時刻通りに動き、その度に思っていた。自分の人生もこんな程度のものでしかないよな、なんてことを。
最近売れてきた変態的なバンドが私の心を射抜く歌を歌っている。悲しみと、ある種の優しさの中に内包されている残酷さを歌ったその音と歌詞は私を捉えて離さない。
《青春時代は優しくて残酷だ。今はただ一筋の光も見当たらない》
きっと私の青春時代と反抗期は他人よりも遅くやって来て、将来の目標が出来て帰って来た地元で過ごした日々でようやく消化されたのだろう。
ちゃんとした、まともな人間になりたいと思った。遠回りばかりを繰り返してきた私の日々を、肯定することは出来ないかもしれないけど、それでもいつの日にか今という過去を一瞬後の重なりで出来る遠い未来で笑って話せる日が来ることを、今はただ信じて進むしか私には残されていない。
迂闊に人になど話せない仄暗い過去と経験を持った私だけど、むしろそんな私だからこそ人に優しく出来るし、人に優しくされたのだろう。
自分の血など愛せない、と嘆き、悲しんだ夜も数えたらキリがないほどに確かにあった。
でも―。私はこんなにも人に大事にされているし、過去の自分が思っていたよりもこの世界はきっと悪いものではない。
一人の自由はこんなにも窮屈で、そして満ち溢れた時間だ。
自分探し、なんて恥ずかしげもなく言ってしまうような大人にはなりたくない。
探す必要なんて、どこにも、ない。きっと探して見つけるものではなく、知らず知らずのうちに見つかっているものだと、私はいつからか思っていた。
肩に力なんて入れなくても、歩ける。どこにいたって私は私を支えるのだ、間違いなく。

「じゃあ、いってきます。とりあえず、東京に着いたら連絡するね」
八月一日。天気は晴れ。一番近くにある空港まで送ってもらい、搭乗口に入る前に私は母にそう伝える。
「気を付けて行きなさいよ。何かあったらすぐに連絡をすること。わかった?それじゃあ…いってらっしゃい」
「姉ちゃん、いってら。まぁ…頑張って」
いつだって守らなきゃいけないと思っていた弟たちも、いつの頃か私の背を追い越し、逞しくそして無骨に育っていた。
「ありがとう。お前らもとりあえず頑張れよー?私もめっさ頑張るから」
思いついた言葉を話しただけで、笑いが欲しいなどとはこれっぽっちも思っていなかったはずなのに、出て来た言葉は“めっさ頑張るよ”で、自分でがっかりしていたら、弟たちにつっこまれる。
「「めっさってなんなんだよ!!」」
姉弟でひとしきりニヤニヤし終わった後、アナウンスが流れる。
「それじゃあ、そろそろ行くわ。…したっけね」
口々に言われる“いってらっしゃい”を背に受け、私は保安検査場を抜ける。
ようやくスタートラインに立てた。まだまだスタートではないかもしれないけど、歩幅は小さいかもしれないけど、前へ進めている。
飛行機では窓際の席を取ることができ、どこまでも広がる青空を眺める。
一時期は泣くこともきちんとできなかったのに、いつからか私は涙脆くなっていた。
他の人や客室乗務員の人に見つからないようにそっと涙を流す。
悲しくて泣いている訳じゃない。大人という生き物は訳もなく泣きたくなる日だってあるのだ。
抱えきれないくらいの幸せを、応援を、糧を、抱えて私はこれから先も最期の日まで生きていこう。抱えるぐらいしか私にはできないけど、今の私と二年前に東京を離れることになった私はきっと同じ人間だ。
羽田空港に着き、割と大き目のキャリーケースを引っ張りながら私は京急のホームまで行く。
ホームに電車が来る瞬間の風はいつもと同じ温度と色で、私の長い髪がその風で煽られる。
品川、渋谷、明大前で乗り換えて、ようやく一人暮らしをする府中に辿り着く。
平日の昼間なのに、相変わらずたくさんの人で溢れていて、私は安堵を覚える。そして、そっと呟く。
ただいま、と。
時間を少しだけ巻き戻す。
一月の下旬に東京にある専門学校の受験し、まんまと落ちた私は母に言われる。
「あんた、三月でスナックの仕事をやめなさい」
納得していなかった私に母はこんこんと諭す。母の言っている意味はわかるし、その通りだとも思える。母は何一つとして間違ったことは言っていない。けれど、少しだけでもいいから私の意見も聞き入れて欲しかった私は、私が考えていたことを話す。
もともと、私は五月末でスナックを辞めようと考えていた。残りの二ヶ月は勉強しながら、家族との時間を大事にしようとも思っていたのだ。
三月か五月か、お互いにひかない私と母。いつまで経っても行きつく答えが出ない私は妥協案として四月末で辞めること提案し、それで事なきを得た。
次の出勤日を明後日に控え、私はその日にスナックのママに話をつけるように心に決めた。

「あーあ、彩子も今月末で辞めちゃうのかー。切ないなぁ」
緊張せずに話せるようになったお客さんと、私と、一緒に働いているお姉さんとお酒を飲みながら話していたら、隣から考えてもいなかった言葉が聞こえた。
働き始めた当初、きっと仲良くなんてなれないであろうと思ったお姉さんは、今や大の仲良しになっていた。
「…こんなに早く辞めることになるなんて、私も思ってもいなかったんですけどね。五月からは昼間の仕事と勉強、頑張ります。最後の日のことを考えると今から泣きたくなるんで、とりあえず飲みましょう」
元気よくそう提案するとそのお姉さんは「うん、そうだね。悲しくなるのは最後の日でいいや。さて飲もう飲もう」と張り切ってお酒を作っていた。

ありえないほどに単純な細胞をし、けれどその単細胞な私を隠すかのように屁理屈を並べていつだって理論武装をしてきた私にとって、お酒とタバコは大事なものだった。
一人になると部屋の隅っこで答えの出ない自問自答を繰り返し、夜が明けることも少なくはなかった。元々が根暗なのだと思い知ったのは十代の後半になってからで、そんな自分自身を他人に見せたくはなかった。
アホで、お酒が入ると自分でもわけのわからないテンションの上がりっぷりを発揮する、押しつけがましい明るさを持つ私でいたいと思ったのは東京に出てから。
広告代理店では営業職に就き、大人になってから発病した人見知りを悟られることがないように元気で明るい私を振る舞う。それは夜の仕事でも同じことで、嫌われないように、好かれるように、いつだって気を張っていた。
日々の生活で疲れ切っていた私にとってお酒とタバコは大事なツールで、どうしようもないほどに依存していた。
東京にいた頃も、札幌で過ごす時間も、地元で流れるような日々を送っていた時も、いつだって私の近くにはその二つがあった。
癒されることの無い思い出や傷は、もしかすると私の思い過ごしかもしれないけどお酒やタバコ、そして何よりも人で少しずつ癒されていた。

「というわけで、今日でいなくなる私にかんぱーい」
スナックで働く最後の日がついにやって来て、ほんの少しの感傷を堪えながらも元気に振る舞う。
馴染めないと思っていたこの場所はいつからか私にとって大事な場所になっていて、ここを離れてしまうことになったのはどうしようもなく寂しかった。
スナックのママも、働いているお姉さん方も、来てくれたお客さんも、仕事ではあったけど、疲れたこともたくさんあったけど、私は間違いなく癒された。
最後のお客さんが帰り、お店には働いている人達だけが残り、私は最後の挨拶をする。
「短い間でしたけど、ここで働けて本当に良かったです。お世話になりました。東京に行くまではまだ結構な日にちもありますが、あっちに行っても頑張ります。…ありがとうございました」
せめて最後くらいは潔く、綺麗に終わりたかったこともあり、涙を堪えた。
一緒に働いていた人達からの言葉の一つ一つが温かく、じんわりと胸にこみ上げる。
“頑張って”。その言葉は大嫌いなものだった。けれど、東京から地元に帰って来るときに色んな人達に言われた言葉がそれで、今回も例に漏れずにそうだった。
いずれ忘れてしまうだろう。私の存在も、彼女らや彼らの存在も。けれど、それでいい。むしろ、それがいい。
何かの小説で誰かが言っていた。“さよならだけが人生だ”と。
大人になってからの人生なんて多分仕事でしか存在を見出せない。意図していなくても、人生イコール仕事、になってしまうのだ。そこに恋愛や結婚、果ては子供が出来て、仕事以外にも大事なものができると言うだけなのかもしれない。
それでも多分、言い切れはしないけど私は忘れないだろう。
他人の本心なんてわからない。でも、言ってくれた事実に変わりはない。応援してくれているのだ、これからの私の人生を。
ほんの少しの時間でそこまで考えてしまった私は、頬がほんのりと濡れていることに気づく。
「では、お疲れ様でした。おやすみなさい」
そう言って、色んな思い出が詰まったお店を後にする。
きちんと前に進むために努力をしようと、頭の中で決意を固めて。
「…っていうことがあったんだよね。会っていなかった間に。」
私がまだ十代の頃、今はもう疎遠になってしまった友達に紹介されて仲良くなった年上の男友達がいた。
二年前の四月に地元に戻って来てからは、何度か連絡をしていたけど、頻繁に会うようになったのは去年の初夏で、お互いに暇だったこともあり二か月近くその友達とは一週間に一回は会っていた。
去年の夏から多忙な日々を送ることになった私達は、そこから半年近く連絡が途絶えていた。
「色々あったのは俺だけじゃなく、彩子もだったんだな。とりあえず、お疲れさん」
去年の初夏に会ってから、私達は何かの決まり事かのように会う時はいつだって彼の家で、下らない話から真面目くさった話までたくさんの時間と思いを共有してきた。比喩でもなんでもなく、晴れの日も、雨の日も。
「そうね、お互い色んな事が会っていない半年の間にあったんだねぇ。久々に飲んで語りますか。…お疲れカツカレー」
至って真面目なトーンで最後の言葉を言うと、お互いに笑い出しながら缶ビールを傾けた。

北風が吹き荒ぶ二月に半年ぶりに会ってから、私達は去年の初夏のように一週間に一度は必ず会うようになっていた。
時にはほんのちょっとだけだが険悪になってみたり、アホなことばかりを話して笑い合ったりと、傍から見たら恋人同士にしか見えない日々を送っていた。
久々に会って話をした日から、私は彼に対して何かを話したくて仕方がなかった。でも、何を話そうとしていたのか長い間思い出せずにいて、一人燻る日々が続いていた。のだが。
「…あ、思い出した」
ずっと心に引っかかっていた考え事が取れた瞬間、思わずその言葉を口に出していた。喉の奥に魚の小骨が引っかかっているような状態は誰しもが苛立つと思うのだが、まさしくその小骨が取れたのだ。しかも、唐突に。あまりにいきなりで、どうしてこのタイミングで思い出したのかわからなく、自分自身でも不思議なほどに。
「何を思い出したの?」
缶ビール片手に彼は興味深そうに尋ね、私の言葉を待つ彼の様子はまるで、きちんと躾がされた犬のようで微笑ましい気持ちを抱いた。
「札幌にいる好きな人のことを話したじゃない?ちょっと前に。しんちゃん、あの時に私に言った言葉、覚えてる?…聞きたかったんだ、どうしてこの恋に反対なのか。…教えてくれない?」
以前のように頻繁に会うようになってから、私は自分の好きな人の事や私に好意を抱いてくれている男の子のことを話していた。客観的に話すように努めていたが、それでもどうしても主観的になってしまうことも数え切れないくらいに存在していた。
「正直な話をするとさ、俺は彩子に幸せになってもらいたいんだわ。こんな感情を異性の友達に抱くのはレアな訳よ。…彩子がどこにいたとしても、彩子にはちゃんと幸せになってもらいたい。でもさ…、彩子の話を聞く限り、どこからどう見ても幸せになんてなれなさそうじゃん?俺としても決めつけたくはないけど。…逆に教えてくれよ。彩子はその人のどこを好きになったんだ?」
彼の言いたいことは理解できるし、私に幸せになってほしい理由もわかる。でも、好きなもんは好きなのだ。そこに理由なんてつけられない。それでも、あえて言葉にするとしたら。
「…不可抗力だったんだ、その人のことを好きになったのは。というよりも、そう決まっていたことなのかもしれない。話せば長くなるけど、掻い摘んで話すと…」
私が東京で英明と暮らしている時、どうでもいいことで余りに大きいケンカをした。持て余していた空白はそう簡単に埋まる訳がないのだけど、それでも幸せには違いなかった。でも、ケンカをしてしまった。埋まらない穴は少しずつ広がり、そんな時にその人に出会ってしまった。最初の印象は最悪そのものでしかなかったが、それ以上に下がる必要がなかったその人は私の中でどんどん上がっていく。会う度にどんどん上がっていく私の中での彼の評価。その評価の高さはいつからか好意に変わっていた。そして、私の想いを決定づける彼の一言。
「彩子はよくお母さんや弟のことは話すけど、お父さんのことは話さないよな。言いたくないのなら無理には聞かないけどさ、笑って話せる時が来たらその時は聞かせてよ。さて、酒でも作るか」
気が付いていなかった。父のことをこれっぽっちも話していない、ということを。言われて気が付いた私は、少しだけ酔った頭に電気が走るような感覚を覚える。
私はきっとこの人にこう言ってほしかったんだ。この人の言葉や心はこんなにも私を軽々と掬い上げる。しかも、彼が意図していないところで。ありえないくらいに単純明快で、そして優しさに満ち溢れた言葉は、こんなにも私を救った。
「こういう感じかな。その時の言葉なんて、きっとあの人は覚えていないだろうさ。でもね、それでもいいんだ。意図して私を救ってほしくはないのよね、あの人には。…私の人生をある程度知っているしんちゃんなら、その人の言葉にどれだけ私が救われたか、簡単に想像がつくでしょ?」
空になったビールをゴミ袋に入れ、新しい缶をこぎみよく開けて口に運ぶ。
「どうしようもない人だな、ってすごく思うよ。…しんどい思いをしながら昼夜問わず働いたお金をあてにして、会った時はお酒を飲んでいたし。私の好意に胡坐をかいていた。俺は悪いやつなんだよ。だから、彩子はいい人を見つけなさいね、って自分でも言っちゃうくらいだから。でもね、そんなのを差し引いても私は彼の言葉や彼の生まれ育った環境や家庭、そしてその人の存在自体に救われた。…思わず言っちゃった。フライング気味に、好きだ、って。その時はそれはもうすごいくらいの熱量でその人のことを好きだった。…でもね、今はその時とはちょっと違って来ていて。随分穏やかなんだ、心が。凪いでいる海みたいにどこまでも平坦で、真っ直ぐなの。揺らぎなんて何一つとして、ない。揺らぎが無くなったんだろうね、その人に向ける想いに対して。…多分、どこまでもいつまでも好きだと思う、その人の事。この想いがありえない確率で叶っても、計算が引っくり返らなくて叶わなくても」
タバコを吸いながら話し、吸い終わったころに私の話も終えた。
どんな表情をしていたのかなんて、私にはわからなかった。しんちゃんは私の表情と言葉に合点がいったような言葉を返す。
「それは確かに彩子の気持ちもわかるわ。その人の事、好きにならずにはいられないな、そんなことを無意識に言っていたら」
でしょー?と、言葉を返し更に私は彼の言葉に耳を傾ける。
「…撤回するよ。全力で応援する。彩子のその想いを、俺は支持する。…俺はその人のことを大して知らないけど、彩子のことをここまで救ってくれるのはその人しかいない。その人の気持ちなんか、ほんの少しだって知らないけど彩子はその人じゃなきゃダメだ。どれだけ彩子のことを好きでいてくれる人がいようとも、多分彩子はその人だ。…彩子のことを好いてくれている人には申し訳ないけどな」
真面目に話していたしんちゃんの話の腰を折ってしまいそうで怖かったが、思わず突っ込まずにはいられなかった。
「しんちゃん、あんた私のなんなのよ」
そう言い切り、私達は夜が更けているということもあり、大笑いしてしまいそうになったのを何とかして堪えた。