彼らは、その島に残された、二人だけの軍隊だった。









結局、15分位遅れて着席したので、冒頭の部分がわかりませんが^^;

 

舞台上には大きなガジュマルの木だけで、傾斜のついた太い幹には蔓に見立てたロープが垂れ下がっていて、人が入れる程度の大きな洞(うろ)が数個。


はじめから終わりまで、シーンの転換なしの一場。

私が見始めたのは、新兵が、木の上で飢えに耐えかねて上官に乾パンを食べても良いかと問うている場面でした。

「腹が減ったからと行って、その都度食事をしていたら食糧が持たない」と言う上官に、「乾パンなら良いでしょう?乾パンは食事じゃないでょう?」と、変な理屈をこねて、なんとか食べ物を口にしようとする新兵。

次第に食糧は底を尽き、敵国の死体の持ち物から、あるいは残飯から…最初は反発していた上官も、次第にそれに慣れ。

遠く敵地陣営が日に日に広がるのを見張りながら、本土からの援軍がくるまではと飢えをしのぎ木の上に身をひそめ続ける2人。

それを見守るのはガジュマルの木。
木の精はときに優しく唄い、ときに2人の心の語り部となり、ときにそれぞれの恋人になり、ときに、遠く、記憶の奥の何かを掻き立てる声を出す。


そうして、ただただ、木の上で2年を過ごしてゆく2人。

揺らぐ関係性と疲弊する心。
極限状態で剥きだしになる性。

ある日、新兵は、食糧を探しに行くと、一枚の手紙を見つける。

「戦争は2年前に終わりました。早く出てきて下さい。」

この手紙を上官に見せ、とうに戦争は終わっている。木から降りましょう!と上官に嘆願する新兵。
これは罠だと言って聞かない上官。

でも、上官は、本当は、とうに戦地に向かう前に既に終戦の準備をしているのを知っていたのだ。

しかし、生まれ育って叩き込まれた恥の文化。
生きて帰っては、己が恥。
上官にはそれが耐えられなかった。


やがて新兵の体は病に冒され、このまま木の上にいては死を待つばかり。
意を決した上官は全てを告白し。
2人は木の下に降りることとなった。

こうして2人の戦争は終わり。
2人はそれぞれの生活に戻った。
その後、2人が会うことは一度もなかったと言う。

今でもガジュマルの木はそこに立って、
そして見守り続けているのだ、この国を、沖縄を。

本当は、2人の兵士は、まだ木の上から降りられていないのかもしれない。


不毛。
無意味。
絶望。
心の闇。
狂気。
生き地獄。

そんな言葉が渦巻くものの、所々で笑いもあり、その笑いに救われた。

二時間休憩無しの出ずっぱり。

上官と新兵の二人の演技力と集中力は大変なものだろうなぁ…。

木の精の、なんとも間の抜けた間の良さが、お芝居のアクセントになり、ヴィオラの音も巧く響く。


なぜ、三線では無いんだろう?と、チラッと考えたけど、これは、沖縄が舞台ではあるけど、沖縄だけに限らず、色んな場所にも当てはまる事だからかな、と思った。

私は、ラストシーンの上官を見ながら、戦後28年経ってから帰還された、横井庄一さんを思い出しましたよ。

もしかしたら、終戦を知らずに、その後も戦地に潜んで亡くなって、発見されなかった方もいるかもしれない。

ラストに会場に轟く行機の爆音。

昔、よく、祖母が、飛行機の爆音を聞くと、B29が焼夷弾を落としていったと話していたのを思い出す。

MIYAの言葉を借りるなら、戦争は終わったようで、実はまだ終わっていない。

色々悶々としたお芝居でした。