方法論・指向についてのお勉強・・・覚書
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生きた証し

つい先日のことである。

ある知人が教育関係の仕事をしていて、「今度、学校でIT学科を創設するので非常勤で講師をしてほしい」との依頼を受けた。

正直言って私は人に教えることは苦手である。

ただ、この業界では、少なからず経験もあり、プロとしての自覚もある。

もし誇れるものがあるとしたら、今の仕事が好きだということでしょうか。

ときどき、自分の存在理由を考えることがある。

仕事では、もし自分がいなくなったとしても、自分以上の能力を持つ誰かが自分の代わりを努めるでしょう。

考え方は違っても結果が出せれば、成果主義の社会ではなんら問題が無い。

でも、それでは私の存在意義はないってことになります。
だから私は、この仕事を一生の仕事と決めたときから、もし会社がなくなっても一人で生きていけるだけの武器を持とうと思いました。
武器とは、他の誰にも真似のできないもの。私の場合は、常に新しい技術の知識を持ち、それを実践できる、ということ。
ITの世界の技術は急速に進化しています。今トレンドの技術は2年後には陳腐化しています。だから今すべきことは誰よりも早くに将来には当たり前になる技術や手法で仕事を実践すること、理解することなんです。


今、他の会社の若いスタッフと一緒に仕事をしていて、思うのは、皆、与えられた仕事は一生懸命こなしているけど、どうも楽しそうに見えない。与えられた仕事で精一杯なのでしょうが・・・。

私は楽しくない仕事はしたくない。

もしやむを得ずつまらない仕事をすることになっても(なるべく避けて通りますが)、その中で知らなかったこと、興味の対象を見つけ出して、自分にとって価値のある仕事、と思うようにしている。

価値のある仕事とは、将来の仕事に活かせる知識を得られる仕事をさします。
そう考えると仕事も楽しくなる。

一緒に仕事をしている若いスタッフには、そういう楽しみを知ってもらいたいと思い、機会があるごとに、新しい技術や将来性、トレンドなどを話題にしている。

私も40代、そろそろ老後を考えなければならないし、今の仕事を何歳までできるかわからない。

今まで自分がしてきたこと、経験、知識から、無からものを創る楽しさ、新しい技術にチャレンジする楽しさ、どうしたら顧客が満足するかを考えて、顧客の想像を超えるものを作ったときの喜びなど、若い人に知ってもらいたいという欲が出てきました。

本題からそれましたが、今まで貫いた自分の信念を伝えること、生涯の仕事としてのエンジニアの仕事の楽しさを伝え、彼らの記憶に残すことが私の生きた証しなのかな、と思うこのごろです。


イデア論について

認識が浅かったみたい。

<主観と客観>

よく、「主観でものを言うな!」、「客観的に見て云々・・・」という言葉を使いますよね。

主観とは、「自分のひとりの考え」、「自己認識」、「自己の感情の入った見方」

客観とは、「認識作用と関係なく存在する外界の対象」、「第3者の見方」

学問用語としては<主体と客体>として説明されているようである。

主体=感覚を受け止めるものであり、いわゆる「意識」・・・見るもの、知るもの
客体=感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる「物」・・・見られるもの、知られるもの

例えば、今目の前にある「この10円硬貨」は何か?と問われたときどう説明するか。

「この10円硬貨」の要素を列挙して説明してみましょう。

Aさんは「丸い」、「茶色」、「数字の10が書いてある」、「汚れている」と列挙する。
仮にAさんなりに眼に見えるすべてを列挙して、「列挙した項目すべて=この10円硬貨」とAさんは判断したとします。

Bさんは、「上から見て丸い」、「横から見て長方形」、「日本国と書いてある」、と列挙する。
そして同じく「列挙した項目すべて=この10円硬貨」とBさんは判断したとします。

Aさん、Bさん(主体)は、同じ10円硬貨でも、それぞれに異なる見出し方で「客体」を見ていることになる。

同じ10円硬貨なのに、Aさんには「日本国」という字が読めていない、それに対してBさんは「10という数字」が読めていない、要するに「この10円硬貨という客観存在≠主観によって列挙された(見出された)項目」となります。

プラトンのイデア論は、この主観によって見出された列挙項目は現実界から見た、本質(完全なる客観)の投影である、言い換えると、主体からみた完全なる客体(本質)は現実界に存在しない、と言っているのでしょう。

前回までに書いた、「川の水」もそうですが、ひとつの「もの」(本質)をみるときに、時間によって、主観によって、それぞれ異なった客観が存在する、というということでしょうか。

ある意味、学問とは、誰かの主観から生まれたものであり、論議は主観をぶつけ合って、主体の足りない認識を知る作業であるといえる。

アリストテレスの論理学を勉強する上では、事前知識として、この辺を、なんとなくでも理解していないといけないようである。

話しが外れるが、アリストテレの経験的立場からの哲学を支持したドイツの哲学者ブレンターノは、現象を心的現象と物的現象とに分け、この心的現象の根本的な特徴として「志向性」(あるいは指向性,Intentionalität)という概念を導入して、「対象への関係」への意識の働きに注目した。この意識の志向性の概念は、現象学や心理学 へ大きな影響を与えた。

ことばでよく使う「指向性」、「志向性」。「オブジェクト指向」を理解するうえで知っておく必要がありそう。



アリストテレス・・・の前に

私は、システム開発に携わって、必然的に「オブジェクト指向」という考え方に触れました。

システムをデザインする上で、何も無いところから、ソフトウェアを作っていくわけですが、このソフトウェアと言う道具を使って誰が何をしたいのか、誰にどういう結果を与えたいのか、などなどつきつめるととめどもなくいろいろな条件が発生します。

システムが大きく、複雑になればなるほど、整理収集がつかなくなります。

これを論理的かつ効率的に整理し、分析する指針が「オブジェクト指向」だと考えています。

ですが、考えてみると、このような考え方は、なにもシステム開発でなくても、すべてに当てはまりませんか??

例えば、仕事で言えば、ビジネスプランやビジネスモデルの策定もそうでしょうし、大げさにいうと、「人生」とか「生き方」とか。

最初に断っておきますが、私は哲学者でもなければ思想家でもありません。論理学に関する知識はまったく無いです。未熟者の自分の主観から書いておりますので、誤ったことも書いていると思いますのであしからず。

例えばですが、生活の中で何かの目標を設定し、それに向かって進んでいく。人は何らかの目的を持って行動する。

目標・目的・・・オブジェクトですよね。

実を言えば何故こういう題目を書きとめようと思ったかと言うと、仕事に生かすのはもちろんなのですが、日常の生活の中で、色々な事を考えたとき、整理がつかず、そのまま流されて過ごしたり、社会生活の中で、社会とは何?常識とは何?自分の中の主観と客観、感情、など様々な疑問や矛盾に直面し、どう解釈したらいいのだろう。たまたま仕事で触れた「ものごとの考え方、ものごととは」という、指針から、古代の人たちがどう考えていたのか、その考えが今の自分の考えや生き方にどう当てはまるのか、ということに興味を持ったからです。

正直、私はとても面倒くさがりやです。このブログをいつまで続けられるかわかりません。

ただ、今はとても興味があり、自分を知るためにも、日常のひとつとして続けようと思っています。