エイブラハムのビュッフェとは、願いや好きな物にフォーカスすることと、ネガティブな思考等を手放すことをビュッフェに例えたものです。
好きな方を選べるよ、ということ。
わたしはそれを理解したつもりになっていました。
これが好き、これが嫌い、と言いながら嫌いな物を取り続けていたんです。
と、いうのも嫌いなものはことさら大切で大きなものに見えていたようで(今もまだ見えていますが)、気付いた時、わたしの手元のお皿は好きな物の5倍以上嫌いなもので満たされていました(頭の中のイメージです)
でも、特に嫌いな物(特に世間で言われる常識や、ルールや、みんなそういうもの)を持っていなければ、という思いが一番大きくなっており、それに釣られるようにして嫌いな物をひょいひょい選んでいたのです。
今も気を抜くと忘れてしまうので、お皿からビュッフェ台に戻したり、また取ってしまったりを繰り返している途中です。
また、人に関しても、この人が嫌い!嫌!と、思っていましたが、その人自体はどうでも良くて、その人の表面に現れている(わたしの目に見える、または感じ取れる)たくさんの要素が嫌いなのでした。
自分を通して見る、「その人」はたくさんの要素で構成されています。
「髪が長い」「目がぱっちりしている」「太っている」という外見から、「優しい」「気前がいい」「怒りっぽい」「矛盾した行動」「卑屈」など内面まで。
これらはわたしが認識している、という点でどれも一緒でした。
そして分解してみれば、1つ1つの要素だけが残り、「その人」はいなくなってしまいます。
でも目の前には「その人」がいる。不思議だけど、他人は鏡とかっていうのはそういうことなんだろうな、と思いました。
そして、こうなると「特定の人」もいなくなってしまいます。
自分が好きなたくさんの要素を持っているのが「特定の好きな人」なだけでした。
だから「特定の人を引き寄せられる派」と「引き寄せられない派」がいるんですね。
それから同時に「今」だけが存在している、というのもなんとなくわかりました。(時系列的にはこちらが最初です)
「今」はただ真っ白で、真っ平で、目の前にはたくさんの要素(料理)というだけのたくさんのものが並んでいて、それを選択するだけ。それを繰り返していくだけなんです。
淡々としているけれど、これがわかった状態であえて嫌いな物を選ぶ必要はないので、必然的にいい気分になる、ということじゃないでしょうか。
単純だけれどたどり着くまでにいろいろあって時間がかかりました。
まだ理解できていないこともあると思います。
それにこれを無意識でできるようになるにはまたどれだけの練習時間がかかるのか……
でも、すればするだけ成果が表れるのですからやってみようと思います。
頭の中はタダですから笑