北海道応援のブログ

北海道応援のブログ

旭川在住の管理人が北海道の情報を、自分の足で現地に赴き、見て食べて感じ書いています。
リンク切れは順次修正しております。現在2017年度まで修正終わっております。
2016年度の修正を(5月まで終了、4月分を修正中)現在行っております。

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住所 旭川市春光5条4-7-11
TEL 0166-51-7017
営業時間 11時30分~15時 17時30分~20時
駐車場 隣のDZマートさんの駐車場を利用可能


創業は、1968(昭和43)年で現在の女将さんは二代目とのこと。女将さん一人で切り盛りしているので、出前があると開店時間が遅くなることもあるそうだ。
席数は、カウンター4席、4人掛テーブル1、小上がりは2人掛卓1、5人掛卓1の15席。
今回注文したのは、醤油チャーシュー、カツ丼、カツライスである。醤油はスープが優しい。具はネギ、メンマ、なると、チャーシューとシンプル。ラードがいいアクセントになっている。モモ肉チャーシューアはしっかり目の食感だがしょっぱくない。カツ丼は重箱で来る。完熟のカツ丼である。個人的にはこれが好き!肉が柔らかく味付けもしょっぱくない。値段の割にはボリューム満点。カツライスはいわゆるカツ定食である。カツは柔らかい。キャベツもたっぷり。
スープは、豚骨・鶏ガラ・野菜のスープ。さっぱりとした味わいにラードがたまらない。
麺は、北海製麺の加水率高めのちぢれ麺。ややもちっとした食感だがこれがスープとの相性がいいんだと仰ってました。

ちなみに他のお客さんが食べていたカレーが旨そうだったのでまた再訪してきたいとおもう。

そのまま処分するのももったいないかなと思いまして載せてみました。

住所 根室市納沙布

根室市観光協会

根室の由来は、語源は早くに忘れ去られ不明であるが諸説ある。江戸時代の記録には「子モロ」「根諸」などと記され、根室市では「根室国」を命名した松浦武四郎による「知床日誌」では、アイヌ語の「ニ・ムイ」(木・湾の意)を由来とし、この説を採用している。他にも「ニイモヲロ」(静かで樹木のあるの意)・「ニノヲロ」(ウニがあるの意)・「ニムオロ」(樹木繁茂する所の意)・「ネムロコタン」(池のある集落)・「メム・オロ・ペッ」(湧壺・そこにある・川の意)などとある。
納沙布の由来は、アイヌ語の「ノッシャム」(則崎の際の意)、元は岬ではなく岬そばにあったコタン(アイヌの集落)の名だった。納沙布は1968(昭和43)年から現在の町名で、元は根室市大字珸瑤瑁の一部だった。
根室市街地から太平洋側を歯舞方向から道道35号根室半島線を進んでくると道道が左に曲がるとこを納沙布岬方向に側道を直進し、道なりに約400mに駐車場がある。

納沙布岬は、「のしゃっぷ岬」とも言うが稚内のノシャップ岬とは違うので誤解のないように。稚内のノシャップ岬からは、晴れた日に利尻富士、礼文島も一望でき、夕日の美しい景勝地として有名である。
この納沙布岬は根室半島の先端、標高約20mの根室段丘の上にある。現状の日本最東端として知られている。珸瑤瑁海峡を挟んで北方領土(現・ロシアの占領下)である水晶・勇留・秋勇留島などの歯舞諸島を遠くに見ることができる。この岬から約1.8km付近がロシアが主張する海域となっており漁船の航行や操業の危険推定ラインになっているという。
現在ロシア連邦の占領・実効支配が続いている歯舞群島貝殻島までは3.7kmしか離れておらず、ロシアの巡視艇が頻繁に姿を現すそうだ。
北海道では一番早い初日の出を見ることが出来るが、緯度が高いため日本一早い場所とはならない。

本土最東端の碑の右手方向には納沙布岬灯台(北方領土を除いて日本最東端の灯台)がみえる。この灯台は現存する北海道最古の灯台として知られており、古くから国後・択捉方面に渡る航路として利用されてきたことから文献も多く残っている。古くから岩礁と暗礁浅瀬・濃霧と相まって海の難所だったことから、1870(明治3)年に開拓使判官の松本十郎が難破船の帆柱を利用して灯竿(とうかん)を設置。その後1872(明治5)年7月納沙布岬に「日本の灯台の父」と称される英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により灯標(初代納沙布岬灯台・当時の名称は「納沙布埼灯標」)が建設され、3月から9月末まで点灯。当時の灯台は木造六角形で高さ13mで光源に石油を使用。1878(明治11)年6月納沙布灯台に霧鐘を設けて1分間に12回打鐘する。1908(明治41)年霧信号所を設置。年代は不明だったがその後無線方位信号所が設置された。

1930(昭和5)年11月に現在のコンクリート造の灯台に改築。白亜塔形の灯台となる。霧に対応し、霧信号(霧笛)、レーマークビーコン(電波の灯台)が併設されていたが、船舶レーダーやGPSの普及により廃止となった。「日本の灯台50選」にも選ばれている。
塔高は13.5m 灯火標高は23.2m(平均海面)
光り方は等明暗白光 明3秒・暗3秒 実効光度1万4000カンデラ 光の届く距離14.5海里(約27km程度)
1872(明治5)年、7月納沙布岬に灯標を設置する。3月から9月末まで点灯する。
1876(明治9)年、納沙布灯標の点灯期間を4月~12月までとする。
1877(明治10)年、6月納沙布灯標を灯台に改築する。光線五里に達する。
1878(明治11)年、6月納沙布灯台に霧鐘を設けて1分間に12回打鐘する。
1881(明治14)年、納沙布灯台点灯期間が3月~翌年1月までとなる。
1908(明治41)年、12月納沙布岬電笛信号所(エアーサイレン・毎30秒隔て5秒吹鳴する霧信号)新築落成する。
1930(昭和5)年、11月納沙布灯台をコンクリート造りに改築する。
1998(平成10)年、4月無人化となる。
1963(昭和38)年、納沙布岬灯台に改称する。
2009(平成21)年、4月無線方位信号所(レーマークビーコン・電波を発射し、船舶のレーダー画面上に、船の位置とレーマークの方向を分かりやすくさせるシステム)が廃止。
2010(平成22)年、3月霧信号所が廃止。

灯台の裏手岬側には根室野鳥観察舎(ハイド)が設置されている。この施設はバードウォッチ時に鳥を脅かすことなく見られるようにと設置されているもので、根室市では各地に設置されている。寒い日は風よけにもなる。なんでもイギリスが発祥なんだとか。

開場時間 3月~10月は6時~17時 11月~2月は7時~16時
よく見られる野鳥は、ウトウケイマフリ・ウミスズメ・ウミガラス・カモ等、他にも運が良ければアザラシ・ラッコ・クジラ類も見られるという。

ちなみに、1964(昭和39)年10月納沙布岬灯台そばに高碕達之助顕彰碑を建立。北方領土付近の漁の安全操業のために尽力した方である。


納沙布は1968(昭和43)年から現在の町名で、元は根室市大字珸瑤瑁の一部だった。ノサップ・コタンスレート・ヲンネモト。珸瑤瑁は古くはゴヨマイ・コヨマエと呼ばれていた。納沙布岬と歯舞諸島の間は珸瑤瑁水道(海峡)と呼ばれている。珸瑤瑁の由来はコヨマイ島(現・カブ島)から。アイヌ語の「コイ・オマ・イ」(波・ある・所)に由来する。他にも「コヨマイペツ」(波浪の中にある川)に由来する説もあるという。コヨマエは江戸期から見られる地名で、ゴヨマイサキの地名は天明年間から見られるようで、当時から航海の難所として知られていた。松浦武四郎が著した「初航蝦夷日誌」には「コヨマヘベツ、此処岡の方少し高ミ于樹木。又小流有る也・・・。此処地より凡弐丁沖所々ニ岩磯有。コヨマヘ瀬戸と云也。大船〇(舟辺に風・音読みハン)方致(到)而なん所のよし云伝ふ也」とある。同「戊午日誌」には「コヨマエ、此辺海岸峨々たる巌壁。下転太石、海面より打付る浪甚だしきによつて号・・・此前に、カバブケモシリと云島有。カハフケは低きが故に浪が冠ると云儀なり・・・・トリトエウシと云。此処の奥に赤楊多し。其より起るなり。トリトヱとは、土人小屋の樽木様成ものに遺ふ木也」とあり、現・カブ島が当時はカバブケモシリと呼ばれていた。
 1754(宝暦4)年キイタップ場所を割いてクナシリ場所を開く。霧多布場所の小屋を根室ノッカマップに移す。1789(寛政元)年蝦夷地で和人に虐待されていたアイヌが蜂起するクナシリ・メナシの戦いが起こり、その後蜂起軍をなだめ説得が成功し、国後の131名、メナシの183名、合計314名が投降し、反乱参加者をノカマップ(野釜布、現・根室市東部)に護送した。報告を受けた松前藩も鎮圧に赴き、7月264人の鎮圧隊をノカマップに上陸させた。1812(文化9)年4月「寛政蝦夷の乱」(クナシリ・メナシの戦い) の犠牲者71人を供養するため「横死七十一人之墓」と刻まれた高さ約119cm。幅約80cm。厚さ約30cmの墓碑を作るがその後行方不明(安置されたか輸送中だったかも不明)となった。1843(天保14)年3月根室国地方に大津波あり。46人死亡、家屋倒壊75戸、船61隻被害受ける。1845(弘化2)年松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人和賀屋孫兵衛の手代を名乗って函館、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室、函館と探検した。1856(安政3)年藤野家では、ゴヨウマイに昆布場1ヶ所設ける。
 1869(明治2)年根室国花咲郡に属する。1870(明治3)年3月漁場持ちの柳田藤吉がゴヨマイ・トリトヱウスに昆布場を持っていた。1872(明治5)年3月根室管内の村名を定める。ゴヨマイ村が発足。1875(明治8)年3月管内町村及び港湾のカナ書アイヌ名を漢字に改める。大字を附する。珸瑤瑁村に変更。コヨマエ・ノツシヤフ・ヲン子モト・サンコタン・ノツカマフ・歯舞諸島のヲラドキ(オドケ島)・モンモシリ(萌茂尻島)・アキルル(秋勇留島)・ユウル(勇留島)・ハルカルモシリ(ハルカリモシリ島)・イタシベイソ(海馬島)・スイショウ(水晶島)・シボツ(志発島)・タラク(多楽島)などからなる。成立時はゴヨマイ村と称した。7月納沙布岬に灯標を設置する。3月から9月末まで点灯する。1875(明治8)年3月管内町村及び港湾のカナ書アイヌ名を漢字に改める。大字を附する。珸瑤瑁村と表記する。1876(明治9)年弁天島竿灯と納沙布灯標の点灯期間を4月~12月までとする。1877(明治10)年6月納沙布灯標を灯台に改築する。光線五里に達する。この頃から移住者が増えていく。1878(明治11)年6月納沙布灯台に霧鐘を設けて1分間に12回打鐘する。1881(明治14)年弁天島灯竿、納沙布灯台点灯期間が3月~翌年1月までとなる。1882(明治15)年4月根室県庁開庁し、諸々を開拓使より引き継ぐ。根室県に属する。1886(明治19)年北海道庁を札幌に置き、函館・根室に支庁を置く。1891(明治24)年の珸瑤瑁の世帯数は15戸、76人。1894(明治27)年3月大地震が起こる。被害戸数877戸、負傷者は4名。1895(明治28)年珸瑤瑁の世帯数は50戸、195人(定住者は20戸程度)。この頃歯舞諸島にも出稼ぎ者があったが夏季だけで冬季間は番人を数名置くだけだった。1897(明治30)年12月根室で大火、8町に延焼し焼失戸数662戸となる。1899(明治32)年珸瑤瑁簡易教育所設置。1900(明治33)年7月根室町に一級町村制を施行する。1901(明治34)年11月友知外五村戸長役場を歯舞村に移し、歯舞外五村戸長役場と改める。1906(明治39)年歯舞神社を創建する。1907(明治40)年珸瑤瑁尋常小学校となる。1908(明治41)年12月納沙布岬電笛信号所新築落成する。1909(明治42)年8月歯舞に駅逓を置く。
 1912(大正元)年12月珸瑤瑁(ごようまい・納沙布岬にほど近い)の海岸から「横死七十一人之墓」を引きあげる。発見後「寛政の乱和人殉難墓碑」を珸瑤瑁の墓地入口に安置する。1915(大正4)年4月歯舞外五村に二級町村制施行し歯舞村役場を置き、歯舞・友知・沖根婦(現・根室市双沖)・沖根辺(現・根室市双沖)・婦羅理(現・根室市歯舞)・珸瑤瑁(現・根室市珸瑤瑁)を大字とする。歯舞村の大字となる。この頃は昆布生産が主流だった。1917(大正6)年歯舞村では馬245頭飼育している。牧場の経営は4軒。1923(大正12)年珸瑤瑁神社を建立する。
 1927(昭和2)年歯舞・花咲・落石港の修築工事着工する。許可移民が根室原野に大挙して入地する。1929(昭和4)年10月根室拓殖鉄道会社の根室~婦羅理(現・根室市歯舞)間が開通する。12月婦羅理~歯舞間延伸開業する。1930(昭和5)年11月納沙布灯台をコンクリート造りに改築する。1945(昭和20)年根室市街が米軍機により空襲され、死者199人、行方不明者170人、市街中心部の大半が焼失する。8月ソ連軍が択捉島に上陸する。9月には千島・歯舞島が占拠される。米軍駐留軍が公会堂に進駐する。9月ソ連が千島の領有を宣言し、南千島、歯舞諸島から脱出者が相次ぐ。11月北方水域にマッカーサー・ライン設定される。稲茂尻(色丹島)で島民がソ連軍に射殺される。国後島より脱出した漁船が根室沖で沈没し、18人死亡する。戦災者・引揚者のバラック建設始まる。1947(昭和22)年7月道議会が歯舞諸島・択捉島・国後島の日本復帰の請願決議可決する。8月北方領土復帰根室国民大会開催する。北方島民残留者の本国引揚げが始まる。11月歯舞地区の電化が進む。1959(昭和34)年4月歯舞村が根室市と合併する。根室市の大字となる。根室拓殖鉄道が廃止となる。1967(昭和42)年7月根室市文化財に「温根元チャシ」「寛政の乱和人殉難墓碑」「チャルコロモイチャシ」を指定する。1968(昭和43)年「寛政の乱和人殉難墓碑」を現在地に移設する。1月歯舞地区の地番改正し、引臼・婦羅理・取戸石を廃し、豊里・温根元・納沙布・珸瑤瑁1~3丁目・水晶島・秋勇留島・勇留島・志発島・多楽島となるが歯舞群島関係域は実質的な行政権が及んでいないのが現実となっている。8月根室市開基百年記念式典挙行。1970(昭和45)年納沙布の世帯数は35戸、200人。1972(昭和47)年2月納沙布岬に「望郷の家」が竣工する。1975(昭和50)年監視用の望楼を円型コンクリート製に建て替える。1978(昭和53)年8月望郷の岬公園命名式挙行。1979(昭和54)年納沙布灯台横にレーマークビーコン電波を出す鉄塔を建設する。望郷の家完成する。1980(昭和55)年8月納沙布岬で北方館の落成式挙行。シンボル像の起工式行う。周辺の整備が行われ、望郷の岬公園となる。1981(昭和56)年9月納沙布岬に「四島のかけ橋」完成し、シンボル像点火記念式典挙行。1982(昭和57)年納沙布の世帯数は37戸、203人。1983(昭和58)年4月「根室半島チャシ跡群」(ポンモイチャシ他)が国の文化財の指定を受ける。1987(昭和62)年7月納沙布岬に「平和の塔」完成する。

住所 苫前郡羽幌町天売弁天

羽幌町観光協会

苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。
羽幌の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ」(流出広大の川)または「ハボロベツ」(広大な川の流域)から。
天売の由来は、アイヌ語の「テウレ」(魚の背腸)、もしくは「チュウレ」(足)に由来すると言われている。
弁天の由来は、地内に弁天社があったことに由来する。この弁天社は1804(文化元)年栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)が苫前・天売・焼尻に弁財天を祀ったことに始まる。1876(明治9)年厳島神社に改称し、1903(明治36)年に現在地に移転した。1940(昭和15)年天売村の改名・地番改正し、弁天となる。1955(昭和30)年羽幌町と合併し、大字天売弁天と改称。

焼尻島・天売島は、暑寒別天売焼尻国定公園に指定されていて、天売島は留萌振興局管内の苫前郡羽幌町にある羽幌港の西28kmの日本海に浮かぶ島で、焼尻島とともに羽幌町に属している。
面積は5.50km2、周囲約12km。最も高い所で標高185mとなっていて高低差があるので観光の際には電動アシスト自転車をレンタルするのがいいとおもう。島には背の高い樹木はほとんどなく、丘陵一帯が低潅木と笹におおわれて全体になだらかな島。天売島には羽幌沿海フェリーを利用、羽幌から焼尻島経由で約1時間20分の行程。

天売島の北西海岸は断崖が続き、ウミガラス(オロロン鳥)やウトウウミウオオセグロカモメなどの海鳥の繁殖が確認されており、1938(昭和13)年8月に「天売島海鳥繁殖地」として国の天然記念物に指定された。
1982(昭和57)年3月には、国指定天売島鳥獣保護区(面積546ha・うち特別保護地区117ha)に指定されている。
天売島は、明治時代以降に入植者(ニシン漁従事者)による乱伐、山火事の発生により島内の森林の大半を喪失する状態にあった。生活に必要な水資源に事欠くような状況となったため、第二次世界大戦後には治山事業により植林を開始して、厳しい自然環境の下、育成は困難を極めたが1990(平成2)年8月1日周辺の暑寒別山系や焼尻島等とともに暑寒別天売焼尻国定公園に指定された。

おろろんレンタル
TEL 01648-3-5125(兼 自宅)
フェリーターミナルのすぐ裏手にあるレンタルショップ。
島を周遊するための自転車やバイクが揃っているだけでなく、釣り道具まであるというからうれしい。

道道548号天売島線は、1周10キロ程度で道路は舗装されているので、島内はレンタサイクルやレンタバイクで簡単に周遊できる。徒歩でめぐってもおよそ3時間ほどだという。
私は、100CCのレンタバイクを借りました。1時間2500円、30分毎時間超過で、料金プラス500円。

 

レンタル
自転車 ゆったりコース(4時間まで)1000円。超過料金1時間+200円
電動自転車 2時間1600円。4時間2200円。超過料金30分+200円
バイク50cc ゆったりコース(2時間)2000円。超過料金30分+500円・燃料付き
バイク50cc お急ぎコース(1時間)1500円。超過料金30分+500円・燃料付き
バイク100cc ゆったりコース(2時間)3000円 超過料金30+分500円・燃料付き
バイク100cc お急ぎコース(1時間)2500円 超過料金30分+500円・燃料付き
レンタカー(軽自動車) 1時間まで3500円 超過料金30分+1000円・燃料付き

そして、レンタルショップの2階には天売郷土資料館・「天売ふる里館 森脇洋三コレクション」がある。
入館料 大人300円・小人200円・レンタルを利用された方は無料で入館できる。
いまは見られなくなった骨董品が所狭しと並んでいる。島の古き良き時代の空気が伝わってくるようで、実際に使われていた道具や生活用品を収集しているうちに、展示できる数になったという。
かつての生活を知る上で今や貴重な品々があり、乱雑に置いてあるがまたそれがいい。

毎年7月には、天売ウニまつりが開催され、獲れたてウニを激安価格で販売している。
島近海のウニや海産物がメインのイベントで、新鮮な海の幸をバーベキューして楽しめる。土曜の夜には花火大会も開催するそうだ。

ターミナル裏には他にも、お土産屋などが数店舗並んでいる。

弁天は、地内に弁天社があったことに由来する。この弁天社は1804(文化元)年栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)が苫前・天売・焼尻に弁財天を祀ったことに始まる。元は天売村の一部で、ワッカクシナイ・ベンザイトマリ(弁財泊)・ウエンナイ・クダリカゲ・天売基線・天売1線・シマコタンからなる。地内北部は江戸期から船入澗として利用され、この辺りをベンザイトマリと称してきた。当時天売島と本島を結ぶ航路は小樽だった。1876(明治9)年天売村発足。弁財天を厳島神社に改称。1880(明治13)年天売の世帯数は12戸、234人。1883(明治16)年曹洞宗説教所(現・海龍寺)創建され、寺子屋教育が始まる。1885(明治18)年日本郵船(株)の定期船(渡海船)汽船栄嘉丸が天売・焼尻に寄港開始する。1902(明治35)年9月天売戸長役場が焼尻より独立する。世帯数は313戸、1422人。ウエンナイに戸長役場を置く。1891(明治24)年世帯数125戸、444人。1903(明治36)年神社を現在地に移転した。明治期はニシン漁で賑わった。特に秋田県の出身者が多く、次いで青森・山形・富山などから3000人近くの出稼ぎが来島した。1906(明治39)年2級町村制施行で天売村役場と改称。世帯数は415戸・1876人。大字は編成せず。この頃からニシン不漁となる。
 1913(大正2)年からシシンの豊漁が続く。1921(大正10)年からニシン不漁となる。ニシン不漁の対策として沖合漁業振興のため漁港修築運動が高まる。1925(大正14)年武蔵堆が発見され、天売島の漁場が見直された。
 ゴメ岬と太郎兵衛崎(前浜漁港までの間にある崎)には暗礁がありその間にあるわずかな湾入を利用して1932(昭和7)年天売港修築開始。1933(昭和8)年船入澗完成し、漁港として利用する。1933(昭和8)年苫前・焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。江野力が札幌逓信局と契約して羽幌~焼尻・天売を結ぶ郵便航路開かれる。1934(昭和9)年天売漁港竣工。1940(昭和15)年天売村の改名・地番改正する。相影・富磯・和浦・前浜・弁天・豊畑・千鳥ヶ浦を編成する。1950(昭和25)年発電所設置し天売島は電化となる。苫前両島定期船(両島運輸)が羽幌にも寄港するようになる。戦後ニシンが豊漁となる。1954(昭和29)年天売灯台新設。ニシン凶漁となる。1955(昭和30)年羽幌町と合併し、大字天売弁天と改称。羽幌町役場天売支所を設置。ニシンが獲れなくなり対策として天売港の整備、前浜漁港の築設を推進する。養殖事業を振興する。世帯数は341戸、2154人。1965(昭和40)年世帯数は312戸、1512人。1966(昭和41)年島内一周道路完成する。1967(昭和42)年南北の防波堤完成する。物揚場完成する。1975(昭和50)年世帯数は268戸、892人。

紀元前5000頃縄文時代前期 海の幸に恵まれた天売島に人が住み始める。(土器や石器が出土している)
900-1200頃 縄文文化(最後の土器文化(擦文文化))がこの島に及ぶ。
1667(寛文7)年、「松前蝦夷図」に初めて「テウリエゾ」の名が現れる。
1670(寛文10)年、津軽藩の蝦夷地調査書にともまい(苫前)・てうれ(天売)・らいけ(焼尻)・はほろ(羽幌)・てしほ(天塩)の地名がある。
1700(元禄13)年、この年から数年間、ハホロヘニ30人ずつ金採掘に派遣される。2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「とままい・はほろ・つくべつ・てふれ・・島」の地名が載る。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛が宗谷場所、ルルモッペ場所を請負う(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)。
1782(天明2)年、松前広時の支配地となる。
1786(天明6)年、6代栖原角兵衛、焼尻・天売・天塩場所の漁場請負を命ぜられる。島で漁場経営とアイヌ民族との交易を請け負う。このときの島民、アイヌ人12人。主な産物はニシン、アワビ、ナマコ、タラ、昆布など。
1792(寛政4)年、ニシン漁のために出稼ぎに来ていたアイヌ人23人が遭難。
1804(文化元)年、栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)苫前・天売・焼尻に弁財天(厳島神社の創始)をまつる。
1807(文化4)年、西蝦夷地、幕府領となりこの頃、天売とは無人島となり、焼尻・苫前・手塩のアイヌの出稼ぎ地となる。
1815(文化12)年、この頃間宮林蔵がこの地方を測量する。
1821(文政4)年、8月松前奉行調役松田伝十郎がこの地を巡視する。12月幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、5月松浦武四郎がこの沿岸を踏査する。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。秋田藩の警備地となる。
1856(安政3)年、テシホ・トママイ場所を分割する。テウレ・ヤンケシリはテシホ場所に属する。5月松浦武四郎がこの沿岸を踏査する。トママイ・テシホ場所への出稼ぎが認められ、トママイ・ハホロ・テウレ・ヤンケシリに本土・東北地方などから出稼ぎ民が進出する。
1857(安政4)年、初めて和人漁民の出稼ぎが許可され、秋田・津軽の漁民3人(雇漁夫39人)がニシン漁を始める。
1859(安政6)年、苫前領、天売、焼尻(天塩領)庄内藩の支配地となる。この後藩は古丹別川右岸に陣屋を設ける。松浦武四郎が著した「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」では天売の地名21が記載されている。
1865(元治2・慶応元)年、善弥が天売のベンザイトマリにて鰊行成網(定置網漁法のひとつで建網の一種)を経営する。
1868(慶応4・明治元)年、善弥の鰊行成網は廃業する。庄内藩は陣屋を引揚げ、藩士・農民等を帰国させる。秋田県戸賀村(現・秋田県男鹿市戸賀)より畠山藤兵衛等12名が鱈釣り、鰊刺網のために来島する。
1869(明治2)年、7月開拓使設置。明治政府が開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改め国郡を設定する、天売島は手塩国苫前郡に属す。水戸藩の支配地となる。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。この年の出稼ぎ漁民、男鹿(秋田)7人、松前1人(雇漁夫11人)。定住者なし。
1874(明治7)年、青森県人の熊木平作が栖原の漁具・建物の管理のため天売で越冬する。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。
1876(明治9)年、天売村発足。天売村の厳島神社が村社となる。
1879(明治12)年、郡区町村制が定められ、留萌に郡役所設置、焼尻村、天売村戸長役場を焼尻に設置。
1880(明治13)年、焼尻外一戸村長役場の管轄区域となる。12戸、234人。
1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。青森より天売に木村宇太郎が移住する。
1883(明治16)年、曹洞宗説教所(現・海龍寺)創建され、寺子屋教育が始まる。
1884(明治17)年、天売・焼尻両島に郵便船の定期航路(渡海線)開設する。石橋秀三が自費で教師を招き教育を開始する。曹洞宗説教所で郵便業務開始。この年天売の森林が乱伐により禿山となる。
1885(明治18)年、日本郵船(株)の定期船(渡海船)が天売・焼尻に寄港開始する。
1886(明治19)年、1月三県を廃して北海道庁を設置する。
1888(明治21)年、天売に焼尻外一村戸長役場派出所開設する。
1890(明治23)年、6月焼尻小学校天売分校開設する。鰊漁盛んとなる。藤山要吉が汽船天塩丸・北見丸が天売に寄港するようになる。天売で回漕業開始。
1892(明治25)年、5月天売小学校が独立する。
1895(明治28)年、天売尋常小学校となる。日清戦争勝利をを記念して天売島にカラマツ1000本植樹する。
1897(明治30)年、産卵のために日本海に来たニシンを97万5千トン漁獲する。
1900(明治33)年、1月天売で火災が発生し、海龍寺・民家・倉庫など8棟焼失する。天売郵便局が独立する。日本郵船株式会社の定期船が羽幌~焼尻~天売に寄港する。
1901(明治34)年、焼尻~天売間の海底電線敷設され、天売郵便局で電信業務開始する。天売に私設消防組創立。両島汽船株式会社設立する。
1902(明治35)年、天売・焼尻のニシン漁船70隻が天売港で暴風のため転覆、死者228人。9月天売戸長役場が焼尻より独立する。天売消防組設置。真宗大谷派布教所(後の興徳寺)開設する。天売の植樹は大正期まで続けられる。
1903(明治36)年、3月天売尋常小学校に高等科併置。天売厳島神社を現在地に遷座する。鳥海山神社建立する。
1904(明治37)年、ニシン建網(定置網)50統、同刺し網7766放、漁獲高15000石(一石=生ニシン750kg)、入稼漁夫2500人。浄土宗布教所(後の修善寺)開設する。
1906(明治39)年、2級町村制施行で天売村役場と改称。415戸・1876人、ニシン漁不漁期に入り、島民の生活困窮。
1908(明治41)年、タラ釣り漁船34隻遭難、死者230人。両島汽船株式会社解散する。
1912(明治45・大正元)年、字ゴメサキにアワビの禁漁区を設置する。
1915(大正4)年、日本郵船(株)の定期船(渡海船)廃止。
1919(大正8)年、天売で火災発生し5戸焼失する。
1920(大正9)年、ニシン大漁、約30000石 (最高記録)(一石=750kg)。この年の後ニシン凶漁が続く。
1921(大正10)年、7月町制施行、羽幌町となる。
1932(昭和7)年、天売漁港修築工事着工する。
1933(昭和8)年、苫前・焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。江野力が札幌逓信局と契約して羽幌~焼尻・天売を結ぶ郵便航路開かれる。
1934(昭和9)年、天売漁港竣工。
1935(昭和10)年、苫前両島定期航路株式会社設立し、苫前~羽幌~焼尻~天売航路に就航する。天売道路修繕する。
1938(昭和13)年、天売島が海鳥繁殖地が国の天然記念物として指定。ウミガラス4万羽。
1940(昭和15)年、焼尻・天売村の改名・地番改正する。
1942(昭和17)年、苫前両島定期航路株式会社は「両島運輸」に社名変更する。
1944(昭和19)年、漁業組設立。(羽幌・焼尻・天売)
1947(昭和22)年、天売中学校創立。
1948(昭和23)年、天売電気協同組合設立する。旭川の業者が天売島の鳥糞採取を計画するが島民の猛反対に遭い中止する。
1949(昭和24)年、漁業協同組合(羽幌・焼尻・天売)に改組。天売電気会社設立する。
1950(昭和25)年、発電所設置し天売島は電化となる。苫前両島定期船(両島運輸)が羽幌にも寄港するようになる。
1952(昭和27)年、天売観光道路新設する。
1954(昭和29)年、天売灯台新設。天売高校を中学校に併置し開校する。
1955(昭和30)年、羽幌町と合併、大字天売と改称。天売支所設置する。
1956(昭和31)年、ニシン凶漁、乱獲によってニシンの群は北海道から姿を消し、生態系が壊れ以後ニシン漁業消滅。ウミガラス激減する。11月天売小学校新築し移転する。
1957(昭和32)年、北海道のニシン漁は終わった。
1959(昭和34)年、4月焼尻村を羽幌町に編入する。
1961(昭和36)年、天売・焼尻に発電所完成する。
1963(昭和38)年、鳥類研究者が天売島海鳥調査実施。ウミガラス8千羽。 天売高等学校新校舎新築落成する。
1960年代から70年代にかけて島周辺で盛んに行われた[サケ・マス流し網]漁業による混獲で、おびただしい数のウミガラスが犠牲になった。
1964(昭和39)年、天売・焼尻道立自然公園(後の暑寒別天売焼尻国定公園)指定。
1969(昭和44)年、6月離島電気海底ケーブル敷設する。苫前港から羽幌港へ両島の母港が移転する。
1970(昭和45)年、3月両島の電気施設は北電に移管する。
1972(昭和47)年、環境庁、天売島のウミガラス1117羽と報告。焼尻・天売への観光客約5万人。
1978(昭和53)年、天売深層地下水調査する。天売診療所落成する。
1980(昭和55)年、ウミガラス553羽。天売島の重要水源山地整備治山事業を開始。
1980年代から食糧難のトド、アザラシなどが[カレイ・タラの刺し網] を食いちぎる被害増加。
1982(昭和57)年、天売島、国設鳥獣保護区に指定。
1986(昭和61)年、ウミネコ6万羽。
1989(平成元)年、フェリー「おろろん」就航。
1990(平成2)年、暑寒別天売焼尻国定公園指定。屏風岩にウミガラスのデコイ設置して、ウミガラスを呼び戻さざるを得なくなった。
1991(平成3)年、4月高速船「さんらいなぁ」就航。羽幌町が常駐の海鳥調査員を配置。
1996(平成8)年、羽幌・天売・焼尻漁業協同組合が合併。
1997(平成9)年、羽幌に北海道海鳥センター設置。
2000(平成12)年、ウミネコが半減し、3万羽になる。
2001(平成13)年、コオナゴが不漁、コウナゴを捕食するホッケが不漁。コウナゴを捕食するウミガラス21羽。フェリー「おろろん2」就航する。
2002(平成14)年、ウミガラス13羽で絶滅の危機。
2004(平成16)年、観察史上初、ウミガラスは繁殖数0羽になった。天売小中学校の校舎新築落成。
2005(平成17)年、2年連続、ウミガラスは繁殖数0羽。さらにウミネコの繁殖も0羽となった。
2013(平成25)年、高速船「さんらいなぁ2」就航し、羽幌側の発着地を中央ふ頭の新ターミナルに移転する。
羽幌町史参考

住所 留萌市栄町1-4-24
TEL 0164-42-1868
営業時間 11時00分~19時00分
定休日 不定休
駐車場 駅前の駐車場を利用するといいだろう。

創業は1958(昭和33)年。名前の由来は「時が良いようにときよし食堂と名付けたとのこと」。現在は2代目にその味が継承されていて、気さくでアットホームな雰囲気が非常に気に入ってしまった。まさに昭和の駅前食堂という表現がぴったりのお店である。
人気メニューは焼き魚定食と焼肉定食だとか。焼肉は自分で焼くことも、厨房で焼いて出してもらうことも可能とのこと。他にもトンカツ・日替わり・天ぷらなどの定食が充実している。私が訪問した際は数人の地元の方が食べられていた。すぐ近くの地元のお客様曰く「チャーハンが美味しいんだわ!今度食べてみれ」と言っていただいたのが印象的だった。
今回注文したのは、オムライスと味噌ラーメン。オムライスはコクがしっかりしたチキンライスが入っている。なんか懐かしい旨さ。味噌ラーメンはシンプル。ネギとメンマとチャーシュー。チャーシューはホロホロ系で柔らかい。モモ肉だろうかしっかりとした味わい。スープがクリーミーだった。優しい味わいで暑い日だったが完飲してしまった。まさに昭和の味・お袋の味といった感じ。
スープは、魚ダシは使っていないとのこと。企業秘密で教えらんない!と言われたのであくまでも個人的推測となるのだが、鳥メインに野菜かな?と思う。主張が少ない控えめなスープだが味噌はしっかり引き立っていた。
麺は高加水率の中細麺。札幌麺に近い感じ。(留萌市栄にあるフタバさんのかも?とも思うが詳細は分からなかった)また再訪したいお店である。


住所 空知郡上富良野町東7線北20

かみふらの十勝岳観光協会

空知の由来は、アイヌ語の「ソーラップチ」(滝が・ごちゃごちゃ落ちている・川)と呼ばれ、和人がそれをソラチと呼んだことに由来する。
上富良野町の由来は、富良野川の上流にあたる事から。
富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。
上富良野の市街地から道道298号上富良野旭中富良野線を富良野方向へ約5.5kmほど進み、デボツナイ川の掛かる6線橋を越えて斜め左方向に側道を約1.0km左手の会館横に碑がある。

上富良野町にラベンダーが作付けされたのは、1948(昭和23)年で、1951(昭和26)年には東中地区内にボイラー式蒸留場が設けられおり、栽培農家自ら蒸留作業にあたっていた。
作付面積の拡大に伴い、島津・江花・旭野・日の出・里仁地区にも蒸留施設が設置され、最盛期には85ha(約850000平方メートル)と全国有数の生産量を誇った。蒸留場は現在解体され見ることは出来ない。
1970(昭和45)年当時の国鉄のカレンダーにラベンダーが採用されたときに始まり、1976(昭和51)年全国キャンペーン「一枚の切符から」のポスターにも採用され、1977(昭和52)年東中の吉河喜逸氏が耕作していたラベンダー畑の写真が「北海道新聞」に掲載されたこともあり、観光客が年々増加してきたとも言われている。
ラベンダーの観光面での知名度と価値観が高まり、1981(昭和56)年「町花」に認定された。
ここで、はっきり申し上げておきたいのは上富良野のラベンダー発祥の地はここ東中であり、町営の日の出公園にある碑自体は発祥の地ではなく、上富良野の観光PRを目的とした発祥の碑であるということ。中富良野町のファーム富田は、観光における発祥の地と言えるのでお間違えの無いように。そして日本における発祥の地は、札幌市南沢3条4丁目の札幌南沢神社境内に碑がある。1940(昭和15)年に札幌南ノ沢(現・札幌市南区南沢)の麻田農場にて16.4haのラベンダーが植えらたのが国内最初。1942(昭和17)年にラベンダーオイルの抽出成功につながっていく。最盛期は1970(昭和45)年だが、その後安価な合成香料輸入の影響により、香料原料として札幌におけるラベンダー畑は、1972(昭和47)年に栽培を終えた。

碑文
上富良野町の ラベンダーの由来
 ラベンダーは、フランス原産のシソ科の多年生小灌木で、
古くから地中海沿岸で香料作物として栽培されている。
 昭和12年に日本各地で試験栽培が行われた結果、北海
道が最も適していることがわかり、昭和15年から本格的な
栽培が始まった。
 上富良野町には、昭和23年に東中在住の植田美一、太田
晋太郎、岩崎久二男氏等が曽田香料株式会社札幌工場と委託
栽培契約を結び栽培されたのが始まりで、富良野地方で初め
てラベンダーの根が下ろされたのである。
 昭和26年には、東中を始め、町の数箇所に蒸留工場が設置
され生産地として最盛期には85ha、全国の85%が生産された。
 その後、輸入品の増加等の影響を受け栽培面積は昭和45
年をピークに減反の一途をたどり、昭和52年には香料原料
としての買い付けは中止となった。
 しかし、丘一面を紫色に染めるラベンダーを愛する人々の
手によって栽培が継続されていたことが踏み台となり、昭和
50年頃から観光面でラベンダーの知名度が高まり始め、新
たな観光作物としての道が開かれた。
 昭和56年には「町花」に認定され町民に親しまれている。
ラベンダーは、北海道の初夏を代表する花として、この東
中から第二の道を踏み出したのです。

東中地区は、私が調べた範囲では東中になったいきさつはわからなかった。1887(明治20)年道庁技師柳本通義らが、フラヌ原野の殖民地選定事業を行う。1895(明治28)年測量の役人に請ひ萱原を貰い受けて、現在の中富良野西1線北19号あたりに、伊藤喜太郎が単独入殖する。1896(明治29)年5月殖民地区画を設定する。1897(明治30)年4月三重団体田中常次郎、田村栄次郎、久野伝兵衛、高田治郎吉、川田七五郎、吉澤源七、川辺三蔵、服部代次郎の一行8名が単身で上富良野の西3線北29号175番地に入地する。1897(明治30)年7月歌志内村、富良野村を創立。歌志内村外1箇村戸長役場を歌志内に置く。1898(明治31)年東8線北15号(東中地区)で纓坂源三郎が雨紛産赤毛種籾1斗余を移入し、べベルイ川から揚水して、反当り1石2斗の米を収穫し、富良野の稲作の起源となる。東中で牧野吉蔵が鍛冶業を始める。東中地区に神田農場・倍本農場開設する。9月北海道官設鉄道(後の富良野線)旭川~美瑛間開通し辺別、美瑛駅新設。11月美瑛~上富良野間延伸開業し、上富良野駅新設。官設鉄道の線路が旭川から富良野原野を通り十勝に向かって敷設される予定だったが、途中の鳥沼が湿地帯で軟弱地盤だった為、当時の鉄道建設技術では困難との判断で変更、上富良野駅より中富良野経由で富良野まで鉄道が敷かれた。
東中に停車場建設が浮上していたこともあり、入植も早い段階で開始され、東中富良野神社は1899(明治32)年創立。3月神田和蔵が東中富良野簡易教育所を開く(現・東9線北17号付近)。1900(明治33)年9月東中富良野簡易教育所(現・東中小学校)を東9線北17号に校舎建築し授業を開始。東中に灌漑溝できる。1902(明治35)年天照大神を祭神として統合され、祭られている。1903(明治36)年7月石狩国空知郡富良野村の南方を下富良野村とし、富良野村を上富良野村と改称する。成立時の世帯数は520戸。3160人。1904(明治37)年東中で豚の飼育を始める。1905(明治38)年真宗高野山派説教所開設(東8線北18号)創立時の建物を弘照寺出張所「源照庵」として存置。東中富良野尋常小学校校舎を、東7線北18号に新築し移転する。1906(明治39)年4月戸長役場を廃止し2級町村制を施行。空知郡上富良野村。字中富良野・上富良野となり世帯数は847戸、4525人。1907(明治40)年東中で佐藤農場・五十嵐農場経営に着手。1908(明治41)年2月東中で西谷牧場開場する。4月真宗興正派上富良野説教所(現・東6線北20号付近)として創立。東中に橋野農場開場。1910(明治43)年東中ベベルイ地区に伊藤祐三郎を団体長として宮城団体入殖。東中に神田牧場開場。1911(明治44)年東中金比羅神社(現・東8線北20号付近)創祀。


 1913(大正2)年東中に西谷牧場開場。1915(大正4)年東中斜線道路に砂利を敷く。東中で養蜂を始める。1917(大正6)年4月上富良野村を分割、中富良野村をおき、二級町村制を施行。1919(大正8)年4月下富良野村が富良野町となる。上富良野村一級町村施行。上富良野村の世帯数は1924戸。10691人。村役場庁舎を建設(現・本町1丁目1番)。真宗興正派上富良野説教所が東9線北19号に移転。1920(大正9)年東中に向井・長野農場設立。1923(大正12)年3月東中富良野尋常高等小学校校舎全焼失する。4月東中高台地区造田計画の水源確保のため、水源をヌノッペ川に求めた幹線水路(現・ヌノッペ幹線用水路)造成工事が竣工する。1924(大正13)年9月東中富良野尋常高等小学校校舎新築落成。1926(大正15)年5月24日十勝岳大爆発により大規模な泥流が発生し、上富良野・美瑛・中富良野各村に甚大な被害を与え、死者・行方不明144人、被災戸数482戸、田畑全滅1187町歩の被害を出した。


 1928(昭和3)年4月上富良野~東中間に幌形客用車を運転開始。1929(昭和4)年4月東中に佐渡団体入地。東中市街地区に電灯がつく。1930(昭和5)年12月上富良野村の世帯数は1655戸。人口1万104人。1935(昭和10)年10月上富良野村の世帯数は1759戸。1万1092人。大印自動車会社が富良野沿線バス開業。上富良野駅前~東中~鳥沼~富良野駅前、上富良野~中富良野~富良野間を運行。1937(昭和12)年10月東中神社境内に西谷翁頌徳碑(西谷元右ヱ門)建立。12月東中郵便局集配業務を開始する。1944(昭和19)年東中診療所が設置される。1946(昭和21)年東中倍本西谷木工場を澱粉工場に改造し、秋から本格的生産操業に入る。真宗興正派上富良野説教所が寺号公称により専妙寺となる。1947(昭和22)年5月上富良野中学校東中分校が開校。東中小学校に併置し授業を行う。10月上富良野村の世帯数は2093戸。1万2587人。1948(昭和23)年2月東中酪農協同組合設立。東中集乳所集乳開始。東中でラベンダー苗7000本を植え付け、富良野地方でラベンダー栽培のはじめとなる。11月東中診療所が道立東中診療所となる。1949(昭和24)年6月旭川中央洋裁女学校東中分校開校。1950(昭和25)年9月上富良野中学校東中分校が「東中中学校」と改称し独立。1951(昭和26)年8月町制施行し上富良野町となる。1952(昭和27)年4月東中郷土誌発刊する。1953(昭和28)年10月東中豆類精撰工場を新設。1955(昭和30)年東中診療所閉鎖。1959(昭和34)年11月東中市街付近に親子連れの熊が出没し、4人(重傷3人・軽傷1人)が襲われる。熊(雌熊で、体重約200kg)は翌日射止められた。1960(昭和35)年10月上富良野町の世帯数3097戸。1万7101人。1962(昭和37)年6月十勝岳が噴火し、噴煙が高さ1万m以上に達し、62火口ができる(死者4人、行方不明1人、負傷者12人)。5月東中神社境内に「東中開拓者顕彰の碑」建立。1964(昭和39)年7月東中「専妙寺」老齢病弱により継承者なく廃寺となる。1969(昭和44)年6月東中へき地保育所(東中小の空き教室を利用)開所。1969(昭和44)年東中ラベンダー耕作組合青しそ部が発足。「青しそ」の本栽培に入る。東8線北19号に蒸留搾油工場を設け搾油を行う。1975(昭和50)年11月東中郵便局局舎新築落成。1977(昭和52)年12月東中中学校校舎改築落成。1978(昭和53)年12月東中地区簡易水道給水始まる。1980(昭和55)年4月東中「清流獅子舞」が発足。1980(昭和55)年6月東中土地改良区で、国営・道・団体営事業のかんがい排水、温水溜池、道営圃場整備、ヌノッペ幹線用水路、倍本用水路等の事業総合完工祝賀式を挙行。1985(昭和60)年10月上富良野町の世帯数3868戸。1万4127人。1988(昭和63)年4月東中に青しそ耕作組合が結成。
 1992(平成4)年1月東中倍本浄水場の通水式を挙行。1994(平成6)年11月「ラベンダー発祥の地記念碑」が建立(日の出公園・東中四東部落会館横)。1995(平成7)年10月上富良野町の世帯数4106。1万2881人。1998(平成10)年12月東中開拓百年記念誌「清流の里 ひがしなか」発刊する。1999(平成11)年1月東中開拓100年記念式典挙行。


1853(嘉永6)年、藤田良、蝦夷闔境輿地全図にトカチ山(十勝岳)を記入。
1857(安政4)年、春に箱舘奉行所足軽松田市太郎が石狩川探検の命を受ける。上川に至り、忠別太番屋(現・旭川市神居)に着く。番人小太郎、乙名クーチンコロ(松浦武四郎の踏査に何度も同行する上川の総首長)外アイヌ数名を伴い、3月18日発し、石狩川を遡り旭岳の北東より同山に登頂する。そこから忠別川の水源に出て、これを下り4月10日に番屋に戻った。さらに忠別川を遡り、石狩川水源と思わしき所を見分し、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰った。29日に忠別太に戻った。
1858(安政5)年、2月松浦武四郎十勝越えのためフウラヌイ(上富良野)に来る時点で、美瑛川支流のホロナイ(美瑛町美田第二)に露宿している。ビエベツ(上川郡美瑛町春日台間宮岳付近)の高地で、「硫黄の燃る烟実に目覚ましく天にさし上がりたり。」と十勝岳の噴煙を眺め上富良野町域へ足を踏み入れた。そしてポンカンベツ(江幌完別川)沿いに下り、フウラヌイ大川(富良野川)を越え、笹原の丘陵地を歩き、「一か国位とも見られる平野にして、土肥え暖気にて、雪少しもなし。実に一大良域と云うべきの地味なり」と述べている。クヲナイ(コルコニウシベツ川)を越えて、レリケウシナイ(旭日川)の川端に着くと「これより先は飲用できる水がない」というので、野宿する。
1887(明治20)年、道庁技師柳本通義、フラヌ原野の殖民地選定事業を行う。
1895(明治28)年、測量の役人に請ひ萱原を貰い受けて、現在の中富良野西1線北19号あたりに、伊藤喜太郎が単独入殖する。
1896(明治29)年、5月殖民地区画を設定する。9月三重県からフラヌ原野(現・上富良野)に、田中常次郎、川邊三蔵、島義空ほか数名が下見にくる。
1897(明治30)年、4月三重団体田中常次郎、田村栄次郎、久野伝兵衛、高田治郎吉、川田七五郎、吉澤源七、川辺三蔵、服部代次郎の一行8名が単身で上富良野の西3線北29号175番地に入地する。中富良野合力農場経営に着手。中富良野伊藤農場・鹿討農場・福原農場・岩本農場(後の有富農場)・吉井農場(吉井造林所)貸下げを受ける。7月歌志内村、富良野村を創立。歌志内村外1箇村戸長役場を歌志内に置く。12月歌志内~(下)富良野間の仮設道路が開通する。中富良野鹿討農場事務所設置。人見農場・田中農場(上富良野)貸下げを受ける。
1898(明治31)年、1月高田派専修寺説教場(現・専誠寺)創立。4月福井団体の青山栄松・大嶋新松・野尻初太郎・徳岡平太夫ら入地。7月亀田政五郎村医として嘱託する。9月真宗大谷派説教場設立認可(現・中富良野町法栄寺)。旭川~下富良野間に仮設道路開通。富良野村を上川支庁管内に編入する。東8線北15号で纓坂源三郎が雨紛産赤毛種籾1斗余を移入し、べベルイ川から揚水して、反当り1石2斗の米を収穫する。(富良野の稲作の起源)神田農場貸下げを受ける。牧野吉蔵が東中で鍛冶業を始める。森川房吉が旅人宿業を開業。
1899(明治32)年、3月島津農場創業する。神田和蔵が東中富良野簡易教育所を開く(現・東中小学校)。6月上川支庁管内所轄富良野村戸長役場を上富良野に開庁。(東1線北25号-現・本町1丁目1番付近)7月道庁福井技師により上富良野市街予定地測設。9月北海道官設鉄道(後の富良野線)旭川~美瑛間開通し辺別、美瑛駅新設。11月美瑛~上富良野間延伸開業し、上富良野駅新設。夕張郡から空知郡フラヌ原野(現・上富良野町)へ島津団体入殖する。倍本農場事業開始。中島農場経営に着手。纓坂源七始めて馬を飼育。島津農場の農神・守護神として「島津神社」創祀。
1900(明治33)年、6月真宗大谷派上富良野仮説教場(現・明憲寺)創設。福原農場(現・中富良野)経営に着手。8月上富良野~下富良野間延伸開業し、中富良野・下富良野駅新設。9月東中富良野簡易教育所(現・東中小学校)を東9線北17号に校舎建築し授業を開始。真宗大谷派上富良野仮説教場創設(現・明憲寺 空知郡上富良野町西町1丁目)。東中に灌漑溝できる。
1901(明治34)年、7月上富良野市街地貸付け開始。10月西川牧場経営に着手。中富良野井形農場貸付けを受ける。新井牧場経営に着手する。安川某・松浦市兵衛が(現在の大町1丁目付近)石屋兼業で湯屋を始める。東中神社を建立創祀する。
1902(明治35)年、3月富良野神社(現・上富良野神社)創祀。5月真宗本願寺派西本願寺仮説教所(現・聞信寺)創設。7月上富良野尋常小学校開校。草分神社創立。東中で田畑浅吉が澱粉工場を始める。第一本間牧場貸下げ。第二本間牧場経営に着手。森農場入地開始(現・演習地)。丸谷常吉が十勝岳に高山植物の採取に出掛けた所、温泉を発見する。このとき吹上温泉を発見したと推定される。
1903(明治36)年、7月石狩国空知郡富良野村の南方を下富良野村とし、富良野村を上富良野村と改称する。真宗大谷派上富良野説教場の御堂を建替え移転する。日新神社創祀。渡辺牧場(日の出)開場。牧野吉蔵が蹄鉄業を始める。村木農場(江花)開墾に着手。江幌地区に奥野仙造を団長とした滋賀団体が入地する。
1904(明治37)年、山加農場(旭野)設立する。酒井農場(旭野、日の出)・山田農場(旭野)貸下げを受ける。岡部農場(日の出)・堀川牧場(草分)経営に着手。東中で豚の飼育を始める。静修(現・西12線北31付近)に福島団体入地する。
1905(明治38)年、7月上富良野尋常小学校を上富良野尋常高等小学校に改編。真宗高野山派説教所開設(東8線北18号)創立時の建物を弘照寺出張所「源照庵」として存置。東中富良野尋常小学校校舎を、東7線北18号に新築し移転する。
1906(明治39)年、1月中富良野に長岡牧場経営に着手。4月戸長役場を廃止し、2級町村制を施行。江幌に後藤貞吉を団体長とした岐阜団体が入地する。5月十人牧場(旭野)設置。上富良野村農会設立。中川三郎が、中川吹上温泉を経営する。芝居小屋田村屋が開業する。
1907(明治40)年、6月真宗大谷派上富良野説教所が「真宗大谷派光暁山 明憲寺」となる。9月落合~帯広間が延伸開業により旭川~釧路間が全通する。徳島県から空知郡フラヌ原野(現・空知郡上富良野町西11線北34号付近の上富良野最北地)へ原田徳次郎を団体長として阿波団体入殖する。同地区に守屋熊治を団体長として豊里団体入殖する。江花地区に大場金五郎を団体長として山形団体入殖。同地区に秋田団体・大野嘉を一団体長として土佐団体入殖。江幌地区に奥野仙造を団体長として滋賀団体入殖。静修地区に佐々木利左衛門を団体長として宮城団体・福島団体入殖。
1908(明治41)年、江花地区に越後団体入殖。翁温泉(現・富良野 思惟林・以前のヒュッテバーデン上富良野より上流500m付近)の上で硫黄の採掘はじまる。一色仁三郎が亜麻を始めて耕作する。
1909(明治42)年、10月釧路線(旭川~釧路)とする。日新地区に佐川団体入殖。江幌地区に村上兵馬を団体長として衣川団体入殖。静修の熊野神社創祀。江幌神社創祀。東中ベベルイ地区に伊藤祐三郎を団体長として宮城団体入殖。
1911(明治44)年、11月上富良野郵便局で、電信電話の取扱いを始める。東中金比羅神社創祀。静修地区に岡山団体入殖。
1913(大正2)年、7月ヌッカクシフラヌイ川とデボツナイ川の合流工事着工。11月滝川~下富良野間が開業する。滝川~釧路間を釧路本線と改称し、下富良野~旭川間を分離し富良野線とする。中川三郎十勝岳新噴火口の硫黄採掘に着手。
1915(大正4)年、東中斜線道路に砂利を敷く。東中で養蜂を始める。十勝岳翁地区で硫黄採掘と併行して、西村某が翁温泉宿を経営する。
1916(大正5)年、8月三重団体組織代表「田中常次郎頌功碑」を建立。(専誠寺境内)
1917(大正6)年、4月上富良野村を分割、中富良野村をおき、二級町村制を施行。世帯数は上富良野村1484戸。中富良野村1107戸。
1918(大正7)年、平山硫黄砿業所事業に着手。日本通運の前身であるー印上富良野運送社創立。
1919(大正8)年、4月下富良野村が富良野町となる。上富良野村一級町村施行、人口10691人(戸数1924戸)。村役場庁舎を建設(現・本町1丁目1番)。飛沢清治が、私財を投じて吹上温泉までの道路を建設に着手。除虫菊の作付け始まる。
1920(大正9)年、3月上富良野郵便局で電話交換業務を開始する。東洋製繊株式会社、日本麻糸株式会社亜麻工場を設立。村役場庁舎落成し、移庁式を挙行。12月富士電気㈱により、上富良野市街に電灯が付く。
1922(大正11)年、11月中川三郎氏が吹上温泉施設を飛沢清治に譲渡。ビート栽培本格化する。
1923(大正12)年、戸長役場を全廃し、町村制を施行。大日本麦酒株式会社(現・サッポロビール株式会社)直営ホップ園(上富良野村富原地区)でホップの試作栽培始まる。
1924(大正13)年、7月長谷川零餘子の句碑(現・吹上温泉保養センター白銀荘敷地内)建立。11月10日下富良野~旭川間を富良野線と改称する。
1926(大正15)年、5月24日十勝岳大爆発により大規模な泥流が発生し、上富良野・美瑛・中富良野各村に甚大な被害を与え、死者・行方不明144人、被災戸数482戸、田畑全滅1187町歩。9月10日美馬牛駅新設。
1927(昭和元)年、2月飛沢清治の経営する吹上温泉宿が硫黄山駅逓開設(吹上温泉)となる。5月十勝岳爆発遭難記念碑を日新入り口付近に泥流により流されてきた巨石の上に建立。7月俳人石田雨圃子の句碑を十勝岳山麓中茶屋付近に建立する。水難予防鎮魂碑を上富良野神社境内に建立。
1928(昭和3)年、4月上富良野~東中間に幌形客用車を運転開始。10月十勝岳爆発記念碑を十勝岳元山事務所付近に建立。
1929(昭和4)年、4月東中地区に佐渡団体入地する。5月門上浄照師が聞信寺で農繁期(農村)幼児託児所を開設。7月九条武子の歌碑を十勝岳中腹泥流跡に建立。東中市街地区に電灯がつく。
1932(昭和7)年、2月草分土地改良区江幌貯水池が完工する。吹上温泉株式会社創立。代表者山本一郎(終戦まで建物は軍用施設に転用される)。7月門上浄照、吉田貞次郎等が十勝岳連峰の縦走に成功する。日新ダムの奥地松井牧場解放の時に清富神社創祀する。
1933(昭和8)年、1月十勝岳山麓に「白銀荘」新築。上富良野村で大火。駅前竹料理店より出火し、駅本屋・物置・駅前飛澤自動車部・集乳所・住宅家屋等13棟15戸を延焼した。夏期間のみ飛澤清治が吹上温泉までバス運行を始める。十勝岳観光協会を設立する。
1934(昭和9)年、1月十勝岳山麓に「勝岳荘」新築。沼崎重平所有の沼崎農場開放記念式挙行。12月日新尋常小学校清水沢特別教授場(後の清富小学校)開設し授業開始。
1935(昭和10)年、大印自動車会社が富良野沿線バス開業。上富良野駅前~東中~鳥沼~富良野駅前、上富良野~中富良野~富良野間を運行。10月島津地区(現・富町1丁目付近)に家畜市場設置される。富良野川河川敷にごみ焼却場を設置する。
1936(昭和11)年、6月島津農場解放し、小作農を自作農に開放した。
1937(昭和12)年、10月東中神社境内に西谷翁頌徳碑(西谷元右ヱ門)建立。12月東中郵便局集配業務を開始する。山本木工場創立。
1941(昭和16)年、4月上富良野産業組合の味噌正油醸造工場(現・栄町1丁目)新築落成。東中警防団を合併し、上富良野警防団となる。11月永楽座館を増改築し、上富良野劇場落成開業する。12月2次世界大戦勃発。
1942(昭和17)年、4月中堀医院を引き継ぎ渋江医院開業する。8月十勝岳山頂に「光顔巍々」石碑建立。日の出地区(現・西1線北28号付近)の粘土を原料に素焼き土管を製造する。
1943(昭和18)年、吹上温泉株式会社解散する。6月北日本木工製作株式会社創立。富原神社が創祀する。東中診療所が設置される。
1945(昭和20)年、7月15日富良野上空に米軍機が飛来し、空襲を受ける。上富良野には被害なし。吹上温泉は終戦まで軍用施設に転用される。
1946(昭和21)年、4月開拓地(現・上富良野町西2線北)を記念し「憩の楡」の碑を建立。
1947(昭和22)年、5月上富良野中学校・上富良野中学校東中分校が開校。上富良野中学校・上富良野小学校に併置し授業を行う。東中分校は東中小学校に併置。授業を行う。
1948(昭和23)年、東中でラベンダー苗7000本を植え付け、富良野地方でラベンダー栽培のはじめとなる。
1949(昭和24)年、4月上富良野中学校新校舎の一部が落成。6月上富良野市街地で大火。焼失家屋等112棟。12月上富良野中学校東中分校新校舎落成。
1950(昭和25)年、3月江花地区に電灯点く。9月上富良野中学校東中分校が「東中中学校」と改称し独立する。
1951(昭和26)年、8月町制施行し、上富良野町となる。町制施行記念式典を挙行。11月上富良野町公民館東中分館新築落成。清富でハッカの栽培をはじめる。旭川~浦河間道路が2級国道(現・国道237号)となる。十勝岳スキー山岳会設立。
1954(昭和29)年、1月富良野川鉱毒水処理を目的として、日新ダム建設を促進する期成会を設立。7月富良野川・ヌッカクシフラヌイ川鉱毒防止促進期成会が設立。
1955(昭和30)年、2月ラベンダー耕作組合創立。9月陸上自衛隊が上富良野町に移駐(第二特科連隊・第二特車大隊他)する。沼崎重平翁彰徳碑を美馬牛駅前庭に建立する。
1957(昭和32)年、11月上富良野町上水道利用組合設立し、水道工事竣工式及び通水式を挙行。12月国鉄富良野線にディーゼル気動車の運行始まる。町内でアスパラガスの試作始まる。
1958(昭和33)年、5月十勝岳大正火口下にブロック造の避難小屋「シュナイダーハウス」新築。9月上富良野町立国民健康保険直営病院開院。12月自衛隊上富良野駐屯地に第308地区施設隊が旭川から移駐。
1959(昭和34)年、2月十勝岳山麓「勝岳荘」火災によって焼失。
1960(昭和35)年、日新地区・里仁地区・清富地区電化となる。11月会田久左ヱ門が十勝岳温泉凌雲閣の建設計画申請し認可が下りる。清富地区簡易水道工事着工し、翌年通水。
1961(昭和36)年、4月デージー食品工業株式会社上富良野工場が創業開始。6月美馬牛駅前庭に「沼崎重平翁彰徳碑」を建立する。7月十勝岳温泉旅館建設(38年完成)に着手。自衛隊第308地区施設隊が十勝岳産業開発道路工事を中茶屋から着手する。8月合同缶詰株式会社上富良野工場設立操業。9月佐川団体(新井牧場)の簡易水道工事完成。江幌・静修・旭野・日の出・草分地区の無電灯農家に電気点灯される。広島産肉牛黒毛和種37頭導入される。
1962(昭和37)年、1月上富良野駐屯地に第二対戦車隊が新編となる。3月上富良野駐屯地第2特科連隊が旭川へ移転。上富良野駐屯地に第4特科群が北千歳から移駐。旭野小学校閉校式挙行。上富良野小学校に統合となる。6月憩の楡跡記念碑を建立する。6月十勝岳が噴火し、噴煙が高さ1万m以上に達し、62火口ができる(死者4人、行方不明1人、負傷者12人)避難小屋「シュナイダーハウス」埋没する。8月十勝岳温泉株式会社設立。會田久左エ門が代表となる。上富良野駐屯地に第315武器野整備隊が島松から移駐。伊藤凍魚の句碑を自衛隊駐屯地営庭に建立する。
1964(昭和39)年、3月31日江幌中学校が閉校し、上富良野中学校に統合。空知郡中富良野村を町とする。5月深山峠に展望台が完成し、開園式を挙行。9月株式会社十勝岳観光開発公社設立。
1965(昭和40)年、2月第1回上富良野町雪まつりを開催。3月上富良野スキー連盟設立。5月「かみふらの十勝岳観光協会」発足。7月旭川電気軌道バスが十勝岳温泉凌雲閣前まで運行を開始する。10月町営国民宿舎「カミホロ荘」営業を始める十勝岳産業開発道路完成。12月上富良野高等学校校舎新築落成。
1966(昭和41)年3月31日日新中学校閉校し、上富良野中学校に統合。7月26日日新ダム工事着工、起工式を行う。11月清富小学校前の農業センター付近より土器と石器発見。深山峠「さくら園」に展望台できる。
1967(昭和42)年、3月上富良野町十勝岳山岳救助警備隊設立。3月31日江花小学校・創成小学校閉校。4月上富良野西小学校開校。6月役場庁舎新築落成。7月町営日の出山スキー場設置。11月十勝岳温泉地区に十勝青年の家「上富山荘」を建設し開業する。山本木材工業製材部を閉鎖し、山部に工場を移転操業を開始する。
1968(昭和43)年、4月上富良野農業協同組合と東中農業協同組合が合併「上富良野町農業協同組合」となる。新しい町内行政区画割でき、市街区は常盤・中央・西富・北栄・本町・旭・春日・住吉。郡部は清富・日新・草分・里仁・江幌・静修・江花・日の出・西日の出・島津・西島津・旭野・富原・東中となる。
1971(昭和46)年5月自衛隊上富良野駐屯地に第102装甲輸送隊新編。9月十勝岳登山口に「十勝岳産業開発道路記念歌碑」建立。
1973(昭和48)年、1月1日から市街地区上水道給水開始。3月里仁小学校閉校記念式挙行し、上富良野西小学校に統合となる。4月島津公園造成事業が着工する。10月深山峠に松浦武四郎顕彰之碑を建立する。
1974(昭和49)年、8月国営直轄かんがい事業十勝岳地区日新ダム竣功。
1975(昭和50)年、8月會田久左衛門の「歌碑」(十勝岳温泉凌雲閣前庭)建立。
1976(昭和51)年、1月三浦綾子著小説「泥流地帯」北海道新聞日曜版に連載始まる。
1977(昭和52)年、7月日の出公園設置。開基80周年記念事業「上富良野町郷土館」新築落成。
1978(昭和53)年、5月上富良野町郷土館開館。8月白銀荘(勝岳荘と合築)改築完成。9月第1回北海ホップまつり開催(後にラベンダーまつりとなる)。10月自衛隊演習場専用道路開通。島津公園噴水広場が完成。
1979(昭和54)年、3月31日日新小学校閉校し、上富良野西小学校に統合。5月国道237号線上富良野バイパス工事着工。12月上富良野町立病院改築落成、旧病院より移転。
1980(昭和55)年、9月十勝岳連峰カミホロカメットク山付近に避難小屋完成。10月島津公園が完成。12月上富良野町郷土をさぐる会設立。
1981(昭和56)年、6月第1回十勝岳駅伝大会を上富良野駅前~十勝岳温泉凌雲閣前広場まで開催。
1982(昭和57)年、10月日の出ダム竣工(48年9月着工)。11月市街地東側地区が新住所となる。緑町・大町・南町・旭町・新町・東町・本町・宮町・丘町・向町・桜町となる。
1983(昭和58)年、11月市街地西側が新住所となる。富町・錦町・中町・栄町・泉町・扇町・北町・光町・西町となる。
1984(昭和59)年、3月町営国民宿舎「カミホロ荘」民間に委託する。第三セクター株式会社十勝岳観光開発公社が設立。自衛隊上富良野駐屯部隊に第301多連装ロケット中隊が新編される。5月十勝岳爆発災害復興60周年記念。三浦綾子著小説「泥流地帯」文学碑建立。9月北光電子工業創設。十勝岳温泉翁地区に「バーデンかみふらの」新築創業する。十勝岳翁森林公園造成事業が完成し開園する。
1985(昭和60)年、5月十勝岳62火口東壁中央に、新噴気孔が確認される。8月社団法人かみふらの十勝岳観光協会を新設。町役場庁舎改築改装工事完工。12月日の出山スキー場にスキーリフト(ロープトゥ式)完成。
1986(昭和61)年、4月町内市街区は緑町・大町・南町・旭・本町・宮町・西富町・中町・栄町・泉町・住吉町・東明町・丘町となる。郡部は清富・日新・草分・里仁・江幌・静修・江花・日の出・西日の出・島津・西島津・旭野・富原・東中となる。
1987(昭和62)年、1月ディジー食品株式会社上富良野工場閉鎖。富良野工場に吸収統合。4月国鉄が民営化されJR北海道となる。駅名が「JR北海道上富良野駅」に改称。12月日の出公園に展望台完成。
1988(昭和63)年、3月食肉センター施設を民間に売却。空知ミート㈱の経営となる。9月国道237号線上富良野バイパス開通。12月16日十勝岳が噴火。12月24日十勝岳再噴火で避難命令が発令される。
1989(平成元)年、6月上富良野神社新社殿・付属施設等が完成。記念式典を挙行。
1990(平成2)年、7月町の字名を廃止。フロンテイアフラヌイ温泉完成。9月十勝岳温泉・吹上温泉などで47度のお湯が湧出していることが確認された。12月日本画家、後藤純男画伯 上富良野町東4線北24号にアトリエを新築落成。
1991(平成3)年、5月カミホロ荘の温泉ボーリング成功。湯温37度毎分120リットルの湧出。8月吹上温泉地区に、吹上憩いの広場・吹上露天の湯を整備。スガノ農機株式会社「土の館」が完成。
1992(平成4)年、6月フラワーランドかみふらの開園。7月「富良野ホップス・トーアスホテル」がオープン。スガノ農機㈱「土の館」オープン。10月JR富良野線がワンマン運行となる。
1993(平成5)年、6月スガノ農機㈱土の館に、第3展示場「農機具伝承館」が完成。9月日の出5遺跡発掘調査を行う。10月千望峠「花と憩いの広場」完成。
1994(平成6)年、6月深山峠地区に「トリック・アート、ラ・ギルランダ美術館」完成オープン。11月「ラベンダー発祥の地記念碑」が建立(日の出公園・東中四東部落会館横)。12月十勝岳温泉凌雲閣が新装オープンする。
1995(平成7)年、3月第2戦車連隊が新編される。
1996(平成8)年、12月吹上温泉保養センター新築工事竣工し、翌年1月から開業。鉄筋コンクリート造2階建て2棟。
1997(平成9)年、1月11日吹上温泉保養センター開業。4月深山峠に「ハーブヒル富良野」オープン。7月深山峠にハンガリー仕込みの「上ふらのびいる館」がオープン。上富良野町開基100年記念式典を挙行。9月草分地区に「フラノーブル」オープン。
1999(平成11)年、8月国民宿舎カミホロ荘全焼する。10月日の出公園オートキャンプ場センターハウス新築落成。
2000(平成12)年、4月上富良野町郷土芸能資料館オープン。7月東中を中心に豪雨が降り、デボツナイ川が氾濫し被害が出る。9月日の出公園オートキャンプ場コテージ新築落成。11月国民宿舎カミホロ荘が再建オープン。
2001(平成13)年、7月日の出公園オートキャンプ場オープン。
上富良野町史・百年史参考

住所 旭川市8条通24丁目-353
TEL 0166-34-2244
営業時間 昼の部 10時~14時30分(LOは14時) 夜の部16時30分~21時(LOは20時30分)
定休日 火曜日(不定休あり)
駐車場 店舗裏に7台程度

オープンは、2011(平成23)年12月。旭川の老舗とんかつ屋さんで修行された方が独立したお店である。定食系のメニューが充実しており、揚げ物が旨くボリュームもあることからサラリーマンやガテン系の方々に人気のお店でもある。テイクアウトもOK。気になるメニューがあるならお持ち帰りも可能である。
私が滞在していた時間帯は、ジャンボメンチカツ定食を注文される方が多かったように思われる。噂では昼の部で売り切れになるメーニューもあるのだとか。接客も丁寧である。
席数は、カウンター席4・4人掛椅子卓2・1人掛椅子卓2・半個室4人掛椅子卓2+2人掛椅子卓1の24席。今回注文したのはからあげ定食とトンカツ定食。どちらも衣がサックサクで肉がジューシーなこと。熱々で提供されるので火傷に注意ですぞ! とにかく美味しくてボリューム満点。そしてお味噌汁が美味しい。次は何を食べようかな?と再訪を誓うのであった。


 

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住所 旭川市東旭川町米原(旭川第一小学校 校庭)

一般社団法人 旭川観光コンベンション協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
水田が広がる豊田・米原・瑞穂地区は、総称して「ペーパン(米飯)」と呼んでいる。
これはアイヌ語で「ぺ・パン」(水・飲む)と、「ペー・パン・ペッ」( 水・あまい・川)のペッ(pet 川)が略された説の二説がある。もちろんお米づくりが盛んである。昔は「上ペーパン、下ペーパン」と呼んでいたそうだ。上ペーパンのうち20区・21区・23区から成立した。米原になったいきさつは分からなかったが、米飯・豊田・米原・瑞穂は、稲やお米にちなんだ地名になっている。
旭山動物園の入り口手前のY字分岐を旭川21世紀の森方面へ、道道295号瑞穂旭川停車場線を約10km。

1905(明治38)年頃、東旭川村立第一簡易教育所(現在の旭川市立旭川第一小学校)の校長・八島武平が同教育所の前身であった上米飯(ペーパン)簡易教育所の初代教員岡崎正明の退職を記念して、札幌から苗木を取り寄せて植えたといわれている。
2本の梅があったが紅梅は、2000(平成12)年夏に老齢による枯死が確認され現在は白梅のみ現存。2001(平成13)年には紅梅を新たに植え、順調に育っている。
白梅は、白加賀という品種と推定されていて、推定樹齢は100年を超えており、毎年桜とともに5月初め頃に開花する。
梅は旭川市内でも見ることができ、北限の梅としても知られており、旭川市文化財(天然記念物)となっている。

案内板
旭川市指定文化財
 この梅の木は、1905(明治38)年頃、東旭川村立旭川第一簡易教育所
(現在の旭川市立旭川第一小学校)の校長 八島武平 が同教育所の前身で
あった上ペーパン簡易教育所の初代教員 岡崎正明 の退職を記念して、
札幌から苗木を取り寄せ植えたといわれている。また、福島団体開拓記念
誌によると、岡崎正明が移住の際、故郷の福島県太田村(現保原町)より
苗木を持ってきて自分の屋敷地に植えてあったものを、同氏が教職を去っ
て亡くなった後八島武平の指示により1911(明治44)年に現在地に移
し替えられたものであるともいう。
 2本の梅のうち、右側が紅梅で、豊後という品種、左側は白梅で、白加
賀という品種と推定されている。
 1966(昭和41)年1月15日、北限地帯に生息する梅としての標本的
価値、約70年と推定される樹齢(指定当時)、巨木な点において上川地方
では稀なものであることから、旭川市の文化財に指定している。
旭川市教育委員会

追記
 紅梅は、2000(平成12)年夏に老齢による枯死が確認されました。
現在の紅梅は2001(平成13)年春に新たに植えられたものです。

米飯は1898(明治31)年福島県からの入植者により開拓され、戦時中の物資の無い時代には、農村の女性達が冬の手仕事にしていたのが織物で、家で飼っている羊の毛を刈り、糸を紡ぎ、草木で染め、手で織った「ペーパン織り」があり現在も継承されている。

米原は、1937(昭和12)年~1963(昭和38)年までの行政字名。豊田・米原・瑞穂地区は、総称して「ペーパン(米飯)」と呼んでいる。これはアイヌ語で「ぺ・パン」(水・飲む)と、「ペー・パン・ペッ」( 水・あまい・川)のペッ(pet 川)が略された説の二説がある。もちろんお米づくりが盛んである。昔は「上ペーパン、下ペーパン」と呼んでいたそうだ。上ペーパンのうち20区・21区・23区から成立した。岐登牛山はアイヌ語の「キト・ウシ・イ」(ギョウジャニンニク・群生する・所の意)に由来する。。1959(昭和34)年からは東旭川町の行政字。1963(昭和38)年からは、旭川市と東旭川町が合併し旭川市東旭川町米原となる。
 1869(明治2)年蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。1877(明治10)年鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む(上川最初の和人定住者)。1886(明治19)年空知太(現・滝川)~忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により上川仮道路開通する。1890(明治23)年上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。1891(明治24)年永山村(現・旭川市永山)に屯田兵第三大隊第3・第4中隊400戸入地する。これにより開拓が本格化する。1892(明治25)年8月旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する(下東旭川兵村 第三大隊第三中隊200戸。上東旭川兵村 第三大隊第四中隊200戸入地)。1894(明治27)年クラロマナイ川から延長1200間の灌漑溝を掘る。1897(明治30)年上川郡役所を旭川に移転開庁。字ウシシュベツ(東旭川)を永山村に編入。1898(明治31)年9月永山村から独立し東旭川村を置く。上ペーパンに福島県伊達郡大田村(現・伊達市保原町)の三代目村長菊田熊之助を団体長とし、近隣村を含めた128戸が入植したのが始まり。伊達郡は、江戸時代を通じて養蚕業が発展していたこともあり、1909(明治42)年入植者は養蚕農家独特の家をつくった。1899(明治32)年東旭川村上米飯簡易教育所として創立(12坪の教室だった)1900(明治33)年旭川村を旭川町と改称。1903(明治36)年射的山(現・旭山)に稲荷の祠を祀り稲荷山と呼称した。1904(明治37)年屯田兵制度廃止する。5月越中団体10戸、宮城団体数戸移住する。1905(明治38)年東旭川村第一簡易教育所と改称する。1907(明治40)年4月二級町村制施行。1908(明治41)年旭川第一尋常小学校として開校する。1909(明治42)年一級町村制施行する。1910(明治43)年120坪の校舎新築する。
 1912(大正元)年国有林字クラロマナイ(現・旭山)、44町歩の払い下げを受ける。1915(大正4)年一部を当麻村に編入する。1917(大正6)年旭川第一尋常高等小学校と改称し、高等科分教所独立する。1922(大正11)年11月石北線(後の石北本線)旭川~愛別間開通。新旭川駅・東旭川駅・桜岡駅・当麻駅・愛別駅を新設。分教所を旭川第六小学校と改称する。
 1928(昭和3)年東旭川第一家政女学校を設置する。1929(昭和4)年水神宮の小堂建立する。旭川市から郊外へ電車が開通して大通りが中心街として発展していく。1937(昭和12)年下兵村・朝日・千代田・愛宕・共栄・旭正・上兵村・本町・忠別・日ノ出・倉沼・桜岡・東桜岡・豊田・米原・瑞穂の16字を編成する。米原の世帯数は159戸。1947(昭和22)年米原に東旭川村役場出張所が置かれる。東旭川村立旭川第一小学校と改称する。1959(昭和34)年町役場が新築移転する。村制時の15字を継承する。東旭川町立旭川第一小学校と改称。1963(昭和38)年東旭川町と合併し旭川市東旭川町米原となる。旭川市立旭川第一小学校と改称。町制時の15字を東旭川町を冠する。旭山風致公園として供用開始する。1966(昭和41)年「梅の木」旭川市天然記念物に指定。1967(昭和42)年旭山動物園開園。昭和43年から昭和47年にかけてペーパンダムの調査が行われる。1973(昭和48)年養蚕民家を旭川市文化財に指定。1974(昭和49)年からペーパンダムの工事に着手する。1983(昭和58)年旭川第六小学校休校。1984(昭和59)年旭川第六小学校と統合する。1985(昭和60)年「梅」3本植樹する。1987(昭和62)年3月旭川第六小学校閉校。
 養蚕民家を長く保存するため、1990(平成2)年から1年かけ解体・復元を行い、萱もそのときに葺き替えられた。1992(平成4)年「梅の木」保存作業開始。1997(平成9)年ペーパンダム竣工する。2000(平成12)年紅梅枯死する。


1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太~上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊永山武四郎一行が上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)~忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。笠原喜助(新潟県の出身で笠原喜助・喜八郎兄弟と鈴木亀蔵と共に笠原酒造店を興した旭川の功労者。)によって永山村に笠原酒造店を創業。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付し、1斗5升の収穫をあげた。
1892(明治25)年、8月旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸(下東旭川兵村 第三大隊第三中隊200戸。上東旭川兵村 第三大隊第四中隊200戸)入地する。笠原酒造店が曙に酒造場を始める。
1893(明治26)年、旭川神社社殿竣功。
1894(明治27)年、クラロマナイ川から延長1200間の灌漑溝を掘る。
1897(明治30)年、上川郡役所を旭川に移転開庁。字ウシシュベツ(東旭川)を永山村に編入。旭川警察署開庁。
1898(明治31)年、上川線(後の函館本線)空知太(現・滝川)~旭川間鉄道開通。旭川駅開業。9月東旭川村を置く。上ペーパンに福島団体移住する。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。菊田熊之助初めて馬鈴薯澱粉製造に着手する。
1900(明治33)年、旭川村を旭川町と改称。
1901(明治34)年、第七師団司令部を札幌より移転。
1902(明治35)年、東旭川に上灌漑溝完成する。
1903(明治36)年、射的山(現・旭山)に稲荷の祠を祀り稲荷山と呼称した。
1904(明治37)年、屯田兵制度廃止する。5月越中団体10戸、宮城団体数戸移住する。初代旭橋完成。
1906(明治39)年、旭川駅~師団方面の馬車鉄道開通。
1907(明治40)年、4月2級町村制施行。
1908(明治41)年、開村記念碑建立する。旭川電燈(株)(現・北海道電力)が電力供給開始。
1912(明治45)年、レルヒ中佐が、旭川第七師団に訪れスキーを指導し、北海道のスキー発祥となる。
1922(大正11)年、旭川が市制施行。
1929(昭和4)年、第1回慰霊音楽大行進(現・北海道音楽大行進)開催。
1932(昭和7)年、石北線全線開通。現旭橋完成。
1936(昭和11)年、ロータリー完成。
1940(昭和15)年、国策パルプ工業(株)旭川工場操業開始。
1945(昭和20)年、師団通を平和通と改称。
1950(昭和25)年、北海道開発大博覧会開催。
1955(昭和30)年、神居村・江丹別村合併。
1963(昭和38)年、東旭川町合併。
1966(昭和41)年、旭川空港開港、東京便就航。
1967(昭和42)年、旭山動物園開園。小熊秀雄賞創設。
1968(昭和43)年、神楽町合併。第1回小熊秀雄賞授賞式。(毎年実施)
1970(昭和45)年、第1回中原悌二郎賞授賞式。(毎年実施)
1971(昭和46)年、東鷹栖町合併。
1972(昭和47)年、全国初の恒久歩行者天国、平和通買物公園オープン。
1984(昭和59)年、スタルヒン球場オープン。
1993(平成5)年、井上靖記念館開館。大雪クリスタルホール開館。
1994(平成6)年、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館開館。旭川冬まつりのメイン雪像ギネス認定。
1998(平成10)年、三浦綾子記念文学館開館。
1999(平成11)年、雨紛大橋の開通により、旭川環状線全線開通。
2000(平成12)年、4月中核市に指定指定される。道央道の旭川鷹栖IC - 和寒IC開通。旭川北IC供用開始。
2002(平成14)年、永山新川(牛朱別川分水路)供用開始。
2004(平成16)年、7月・8月旭川市旭山動物園の月間入園者数が日本一を記録する。
2005(平成17)年、旭川市科学館を北彩都あさひかわ地区に新築移転。
2006(平成18)年、旭川市旭山動物園の月間入園者数が4ヶ月連続で日本一を記録する。(6~9月)
2010(平成22)年、旭川駅新駅舎完成。部分開業。鉄道高架化。
2011(平成23)年、旭川駅新駅舎完全開業。
東旭川町史・旭川市史参考

住所 旭川市神楽岡6条6-3-1
TEL 0166-65-6522 予約可
営業時間 18時~24時
定休日 月曜(祝日の場合火曜)
駐車場 店舗前と横に数台

ヤキトリ ツヨシ


オープンは、2011(平成23)年8月。本店は秋月にあり、本店で修業した方が独立したという。
席数は、カウンター5、8人掛テーブル1、小上がり4人掛卓7の41席。私は予約をしていったのですが予約がないと満席の可能性あり。
創作鶏料理などメニューは豊富で、お酒もビールからサワー・ウイスキー・本格焼酎・日本酒他。飲み放題のコースもあるが今回は飲み放題にしなかった。
お通しはキャベツにごま油に塩昆布、これなかなか病みつきになるね。
今回注文したのは鳥串・ごぼう揚げ・ザンギ・ヤキツヨ名物!「伝説のとりかわ」パリパリっとして、なんとも絶妙な味わいにスパイスがきいてて旨い。焼鳥もしょっぱすぎずジューシーな仕上がり。ゴボウも食感がいいね。どれも美味しくお酒が進む。
そしてなにより店員さんの接客もとてもよかったです。ただ駐車場がないのでハンドルキーパー居ても車を停めるのに難儀しそうです。



 

hokk