釈迦への合掌は、心の鏡。
「釈迦の前で拝んだら、それは謝った(反省した)ことになるのか?その姿を見れないのになにそれ?テレパシーでも送りたいわけ?」って言ったような気がする「テレパシーが送りたいわけではない」と言われて「赦してくれない君が悪い」と言われたはぁぁは~ん?メールなのに?遠方なのに?どう伝えたいわけ?と、思うのは自然だろうと思うだから「赦してくれない君が悪い」と言い張っていたようにも思う・・・その後、その言葉にキレてお坊さんなのに、そういうこと言うのかい?って思った気がする。釈迦の前でおかむだけが修行じゃなくて反省でもなくて相手に伝わるのが「謝り」だし伝わってなければだたの「そういう風に言えばいいだろう」的な扱いだしそういうのをなって書いてあったっけかな?文字法師じゃなくて・・(言葉を忘れてしまった)つまり「釈迦に拝む」っていうのはそれだけの行為を指すのではなくて拝んだから、自分の心はどう思って拝んだから、自分は何に回帰して拝んだから、自分はこういうことをした・・というのが分かった。というきっかけ作りなんだよね。釈迦の前の合掌は、自分の心を写す「鏡」なんだよ。映し出された「心」が何を思うかで全てが決まる・・・『なにそれ?テレパシーでも送りたいわけ?』と思ったわたしは、正しくてそれに対して『赦してく れない君が悪い』と人のせいにするのはその釈迦の鏡は、あなたの心に、何を伝えていたんだろうね??ただ釈迦に拝む・・・ では、仏教は何も伝えてはくれない。。。昼寝の坐禅では、何も伝えてはくれない・・・それは、修行って言わない・・・