自分がそうでしたから思うのですが、皆さんは日々生きていて「生きづらいなあ」と思ったりしませんか?

 

そう感じない方は本当に羨ましいほどで、自分はこれまで人生を送ってきて何で「こうも生きづらさを感じるか」と。

 

色々分析をしたり学んできたらわかっては来ましたが、これを一辺に吹き飛ばす。又は瞬時に解決するのは中々。

でも、方法が無いわけではないのでそこは安堵しています。

 

自分も経験がありますが、人って苦しいと「すぐに解決したい」とか思うんですよね。嫌だから。

でも、その苦しみをどうにかするのって、自力でやれればいいですが、中には自分でできない方もいます。

そういう方のために自分のような存在が必要ではないか、と思ったんですね。

 

それこそ自分も苦しみながら相談する人がいなくて、エライ苦労し悩みました。ですが、その結果時間は掛かりましたが何とかセルフでできたので、今は大分楽になりました。

 

思うのですが、昔は今程デジタルでもなかったし、面倒くさいルールや手順を踏まないと物事を成せない時代でした。ですが、そういう中「人と人の繋がり」や「関わり」みたいなものもありはしました。それが無ければきっともっと早く社会も混濁していたでしょうね。

 

ですが、そういうものを排除し人と人のつながりを切ることで、個人の自由と言うか枠を設けることが良いではないか、としてきた。いわゆるライフスタイルの変化をしてきたんです。

 

しかし、今度はそういう風にした反面、心や状況が悪化してきた。又は孤独化が進み「どこまでも我」になってしまった。ある意味それを自分は「人間らしさが失われた世界へ入った」のではないか、と思います。

 

いわゆる聞きなれた語ですが「隣の人は何する人ぞ」というように、同じアパートやマンションに住みながら、隣人の様子や状態を知らないのが当たり前になった。

 

これはある種「プライベートの問題」もありますから、知ればいいという事ではないですが、関わりが薄い分「孤立化」してしまう状態になります。そしてそのことに対応できむしろそういう「個がある方が良い」と言う人にしか通用しない社会になったわけです。

 

一方、そう言うことに馴染めない。むしろ昔のように「人との関わりを求める・在る方が良い」と言う人には希薄な関係性な生活は「耐え難いもの」になります。

 

どちらが良いという事ではないですが、もしもヒューマニズム的なものを求めるなら、やはり今の社会で多く成されている「希薄性」は合わないのかもしれません。だから今はそういう時代や時期ではないですが、人と人が関係性を持てる状態の地域やエリアでないと人生上きついかもしれません。

 

またそういう一方「人間関係に疲れた」と言う人は「孤独を感じられる場所」や「ナアナアな関係を絶てる場所」に居る方が安心できるかもしれませんね。ですので、その人に合った世界と言うか環境が望ましいのかもしれません。

 

そしてその中で「人と触れ合いたい」又は「関連性を持ちたい」と言う人はそういう世界を持ち、そこで生きることをできれば良いのですがね。それこそタイムマシンで昔に戻って「人と人の触れ合えた世界」に行ければ、存分にそれを味わえるでしょう。

 

ですが、そういう空想世界は無理ですので、今後日本も人々が望む環境にあった世界が得られるようになる。それを望みたいですが、すぐには無理なのでこうやってどこかで人と人が結びつく。又は触れ合える世界(環境)や状態を得てそこで心身を調整するのが良いのではないか。そのように思いますね。

 

それこそトヨタさんが「ウーブンシティ構想」をされたように、どこかで「ヒューマニティなシティ構想」をするというような世界。そういうのがあっても良いかな?と思ったりします。

 

本当は社会全体がそうであれば、という方もいますが、やはり全てが「ヒューマニティで良い」とは限りませんので、そこは住み分けではないですが、別に「個を持つ」の場所も必要だと自分は思うので、全てがそうなれば、には反対です。

 

生きづらさを感じるのはやはりどこかに問題や原因があるからです。そこを見ないで何かで補おうとするから治らない。自分はそういう経緯を経ていますから、よくわかる。分かりやすい例で言うと物や何かで補おうとするんです。それでは無理です。そして自分も実際それで苦しんだ。抜けてようやくわかった。ああ、それでは生きづらいのは当然だと。

 

これも例えですが歯が痛いとします。それを気合で乗り切ろうとするのと同じです。実際的に虫歯などで痛いのであれば治療しない限り無理です。痛みは続き、やがて耐えられなくなる。

 

耐えるのではなく「根本を治す方が得策」なのです。ここに気がついてない人が多いし、過去の自分もそうだった。ここに気づき改善すれば治るのです。誤魔化しには限界があるのです。

 

そしてそれに気づくには自力でできるはずができない人が多い。気づかない、と言う方が正しいかもしれないですね。その気づきを悩む人と一緒になって考えて知ることや治す方法を得るのが、自分がやろうとしていることです。

 

これはもしかしたらカウンセリングになるし部類に入るんでしょうが、自分は専門家でもないしプロでもない。ですが、先に言ったように昔の人の悩み相談は「村の長老」だったり「人の世話を焼くのが好きな人」や「年配の方」など多様だったわけです。そしてそういう人らは「プロでも専門家でもなかったただの人」ですよね? そういうことです。

 

そして自分がそういう人間であれば良いと思ったんですね。どこまで何ができるかは分かりませんが、話を聞くことはできる。癒しの最初は「話すこと」から入ります。話すだけで癒される?そう思うでしょうが、意外と良いんですよ。

 

良い例が「飲み屋さん」ですよ。飲み屋さんに言って愚痴を言うだけでも気が晴れるんです。だから、毎度通っちゃう。酒も入るし歌も歌うなどで晴れることもありますが、基本愚痴を言う相手がいるだけで晴れるんですよ。実際、それを商売にしている人がいますよね?傾聴することでお金を稼ぐ人。

 

自分はそれをやっても良いのですが、別に稼ぐのが目的じゃないんでやりません。自分はどちらかと言うと「癒しと解放と気づきを得る」のを推奨する・促す人間と思っています。だからやらない。商売にしないんです。

 

まとめとして「生きづらさ」には理由と原因がある。そしてそれをわかった上で自分でどうすればいいかを探す。講じることです。ただ理由と原因が分かっただけでは解決に至りませんからね。そしてその流れで色々と見えてくる事項に対して自分が挑む、という事です。そこでようやく何とか、と言う状態になります。

 

セルフでやる場合はそういうセオリーですね。ただ、これが不得手だったり気づきにくい・疎い方(鈍感な方)はやはり他人の手助けが必要かもしれません。

 

ぜひ、各々が持つ・感じる「生きづらさの正体」を把握し、対処することで解決を得る。そして人生を生きづらいから「生きやすい人生」に変えるようにと願う次第です。

 

それでは。