別  名:勝山城、湧金(ゆうきん)城

城地種類:平城

築城年代:慶長7年(1602) 

築城者 :細川忠興

主要城主:細川氏、小笠原氏

遺  構:石垣、堀、再建天守

歴  史:天正15年(1578)、豊臣秀吉による九州平定後、森吉成に小倉があてがわれ、中世城郭を織豊系城郭に改めた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の功により、細川忠興に豊前と豊後の地が与えられ、小倉は中津に入封した忠興の領地となった。
慶長7年(1602)、細川忠興は、小倉に居城を移し、小倉城を改修した。慶長15年(1610)ころに、天守が完成する。
寛永9年(1632)、加藤氏の改易により、細川忠利は、肥後熊本に移封される。代わって、播磨明石より小笠原忠真が、入封する。以後、小笠原氏が明治維新まで在封する。
天保8年(1837)、失火により天守など焼失し、天守は以後再建されなかった。
慶応2年(1866)、二次長州戦争で、長州軍に攻められ、城を自焼して退いた。

天守と続櫓は昭和32年にコンクリート製で再建された。
天守、四層の上に屋根がなく、五層が四層よりも張り出した、南蛮造となっている。大入母屋破風・千鳥破風・唐破風が設けられて華やかな外観になっているが、本来は、破風が一切ない層塔型天守のシンプルな外観であった。

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丁度昼頃に小倉城の近くに到着、桜祭りもあり駐車場の入り口は大渋滞だったので、少し離れたパーキングに止めて歩いて大手門跡から入りました。あまりの人の多さにゆっくりお城を見るゆとりはなかったけど、桜と一緒に綺麗な姿のお城を見ることが出来て良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別  名:丹生島城、亀城

城地種類:平山城(海城)

築城年代:弘治2年(1556) 

築城者 :大友義鎮(宗麟)

主要城主:大友氏、福原氏、太田氏、稲葉氏

遺  構:櫓、石垣

歴  史:大友宗麟は、府内(大分市)を拠点に北九州に勢力を伸ばしていたが、永禄5年(1562)、毛利元就に破れた。このため、堅固な城として、丹生島に臼杵城を築城した。
天正14年(1586)、島津勢の攻撃を受けるが、大砲「国崩し」を用いて、撃退した。
慶長2年(1597)、文禄の役で大友義統が改易されたあと、太田一吉が入る。
慶長5年(1600)、関ヶ原の後、太田一吉は改易され、稲葉貞道が美濃郡上八幡から入封し、城を改修する。慶長13年(1618)に三の丸が完成する。

現在は周囲が埋め立てられているが、もとは臼杵湾に浮かぶ丹生島に築城されていた。臼杵城は、陸地とは橋でつながるだけであり、島全体の周囲が切り立った岸壁で、天然の要塞であった。

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朝早くに観光交流プラザに駐車して、西の古橋口から東の卯寅口まで行き一周しました。桜は満開で公園広場では桜祭りの準備で賑やかでした。復元櫓に石垣など、見所がたくさんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別  名:鶴屋城、鶴ヶ城、塩屋城

城地種類:山城

築城年代:慶長7~11年(1602~1606) 

築城者 :毛利高政

主要城主:毛利氏

遺  構:櫓門 曲輪 石垣 天守台

歴  史:毛利高政の本姓は森であるが、羽柴秀吉に従軍して毛利攻めに参加し、本能寺の変による中国大返しの際に毛利氏へ人質として送られ、毛利輝元に気に入られて毛利姓が与えられた。
毛利高政は慶長5年(1600)の関ヶ原の役では西軍に属したが、東軍に寝返った。翌慶長6年、毛利高政は日田から佐伯に移封され、栂牟礼城に入った。
栂牟礼城は奥深い山城であるため、八幡山に佐伯城を築城し、慶長7年に居城を移した。佐伯城は慶長11年(1606)に完成した。

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立派な三の丸の櫓門をくぐり山道を二の丸と本丸へ向かって登山口で竹の杖を借りて、「登城の道」を登りました。

西出丸から二の丸、廊下橋を渡って本丸へ進み、「独歩碑の道」を通って降りました。

景色も良く、地元民の散歩コースのようで、たくさんの方とすれ違ってあいさつを交わしました。

最後にカッパの像と握手して頭のお皿のお水で癒されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別  名:臥牛城

城地種類:山城

築城年代:文治元年(1185)? 元徳3年(1331)?慶長  

     元年(1596)

築城者 :緒方惟栄、志賀貞朝、中川秀成

主要城主:緒方氏、志賀氏、中川氏

遺  構:曲輪 石垣 

歴  史:岡城の起源は、文治元年(1185)、緒方惟栄が源頼朝と対立した義経を迎えるために、城を構えたことによると伝えられる。また南北朝の頃、大友氏の一族の志賀貞朝が岡城を修築して北朝方と戦ったとされる。
文禄3年(1594)、文禄の役での失態により大友氏が改易されると同時に志賀親次は城を去り、中川秀成が入城する。
以来、中川氏は関ヶ原合戦を乗り切って、明治に至るまで在封する。
明和8年(1771)に、城下の出火からの飛び火により、城内の建物の大半が焼失する。
享和3年(1803)、この頃までに、城の再建が完成する。

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明治になって建物が解体され、その荒廃したイメージから滝廉太郎の「荒城の月」が生まれたと言われていて、城跡には滝廉太郎の像が建っています。以前来た時は「荒城の月」が流れていたような気がしましたが、記憶違いか?

本丸を中心に二の丸跡は広い敷地に菜の花と桜の花が植えられてとても綺麗でした。三の丸北面の高石垣は、勾配が急で見どころのひとつとして有名です。

丁度、桜祭りで鉄砲隊や武者行列の見物客が大勢いいて賑やかでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別  名:角埋城

城地種類:山城

築城年代:弘安年間(1278~88)? 

築城者 :森氏(玖珠群衆)

主要城主:森氏、毛利氏

遺  構:曲輪 石垣 竪掘 土塁 井戸

歴  史:平安時代に源為朝が築城したのに始まるという伝承があるが、弘安年間に在地領主の森朝道により築かれたとされる。
天正15年(1587)、九州制覇を目指す島津の軍勢により、大友方の森五郎在衛門の立て籠もる角牟礼(つのむれ)城が攻められたが、撃退に成功する。
文禄2年(1593)、朝鮮出兵での失態により大友義統(よしむね)は改易となり、玖珠・日田に毛利高政が入って、角牟礼城を玖珠の拠点とした。角牟礼城はこのとき石垣を多用した近世の城郭として整備された。
慶長6年(1601)、関ヶ原の戦功により毛利高政が豊後佐伯に移った後に、来島康通が入封したが、城を持てない無城格の来島氏は角牟礼城のある角埋(つのむれ)山の麓に陣屋を築き、角牟礼城を放棄した。

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豊後森藩資料館でスタンプを押して、係の方からお城山について簡単に説明を受けてから出発しました。
三の丸跡の駐車地に着くと、登山口辺りで寛いでいた鹿の親子が驚いて竪堀のある急な斜面に逃げていきました。
しばらく登ると、高い石垣が連なり、案内されたとおりに先に山頂右側の展望所を目指して行きました。途中には角埋神社の祠や山中の所々に5~60cm程の大きさの石仏もありました。
展望所からは景色が良く見えましたが、本丸跡からの眺望はありませんでした。
下りは二の丸跡に向かって急な砂利道で足を取られそうで危なかったです。
以前に登った方の写真に比べて城跡も綺麗になっているようなので、これから先も修復されてお城らしくなるんだろうなと思いました。

三の丸跡 登山口

三の丸跡石垣

 

二の丸跡石垣

100m続く二の丸跡石垣

角埋神社

展望所からの景色

久住の山々

本丸跡

山中に点在する石仏

 

別  名:丸山城、人家城、扇城、小犬丸城

城地種類:平城(海城)

築城年代:天正16年(1588) 

築城者 :黒田孝高氏

主要城主:黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏

遺  構:櫓、石垣

歴  史:天正15年(1587)、九州平定を終えた豊臣秀吉により、黒田孝高(如水)が中津に封じられ、築城を開始する。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦後、黒田長政は筑前福岡へ移封され、代わりに丹波宮津より、細川忠興が入る。細川忠興は、中津城を居城とし、弟の興元を小倉城に置く。
慶長7年(1602)、細川忠興は、本拠を小倉に移し、中津に嫡男忠利を入れる。
元和6年(1620)、細川忠興(三斎)は、家督を忠利に譲り、中津に戻って、中津城と城下の整備を本格的に行なう。
寛永9年(1632)、細川氏は肥後熊本に移封され、播磨龍野より、小笠原長次が入封する。
享保2年(1717)、小笠原長興は、播磨安志へ1万石で転封され、奥平昌成が、丹後宮津より入封する。以後、奥平氏が明治維新にまで至る。

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もともと中津城には天守はなくて、天守がそびえる位置には本丸二重櫓が建っていた。昭和39年に天守復興ブームの一つとして、二重櫓とともに鉄筋コンクリートで新築されたもので、初層が石垣からはみ出し、二層目の大入母屋に三層以上が乗り、最上層に廻り縁を設けた望楼型天守で、これは萩城天守を模したものといわれているが、下見板張に変更している点が違っている。

残念ながら、改修中でお城の中へは入れなかったけど、桜が満開で綺麗なお城の姿を外からぐるりと一周見物することが出来た。

 

 

模擬天守

黒田官兵衛と正室光姫の像

 

 

鉄門跡

 

 

別  名:

城地種類:山城

築城年代:天文21年(1552) 

築城者 :小早川隆景氏

主要城主:小早川氏

遺  構:曲輪 石垣 土塁

歴  史:小早川隆景は天文2年81533)に毛利元就の三男として生まれたが、竹原小早川氏の養子となり、次いで沼田小早川氏の家督も継いだ。
両小早川氏を統合した隆景は、天文20年(1551)、沼田小早川氏の居城であった高山城に入城した。
翌天文21年、小早川隆景は高山城と沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築き、本拠を移した。
永禄10年(1567)、小早川隆景は三原城の築城を開始し、天正10年(1582)に本拠を三原城に移した。
文禄4年(1595)、小早川隆景は養子の秀秋(豊臣秀吉の甥)に家督を譲った。翌慶長元年(1596)、小早川隆景は三原城に隠居し、新高山城は廃城になった。

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沼田川を挟んだ向かい側の高山に築かれた城の副塁として築かれたが、三原城が造られた後、廃城になったそうで、石垣も三原城に随分運ばれて行ったそうです。
197mの城山は地元のハイキングコースになって居て、駐車場や案内板も整備されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別  名:浮城 玉壺城

城地種類:平城(海城)

築城年代:永禄10年(1567) 

築城者 :小早川隆景氏

主要城主:小早川氏、毛利氏、福島氏、浅野氏

遺  構:石垣、堀、、天主(天守)台は歴史公園

歴  史:三原城は、小早川隆景が永禄10年(1567)に、三原湾の大島・小島をつないで築城され、さらに天正10年(1582)と慶長元年(1595)に改修することにより、威容を整えた。
関ヶ原の戦いの後、慶長5年(1600)に広島城に入城した福島正則は、三原城を支城として大改修した。
元和5年(1619)に福島氏が改易され、代わって広島城に入った浅野長晟は、家老の浅野忠吉を城主として三原城に入れる。以後も、一国一城令の例外として三原城の存続が認められ、家老の浅野家が三原城の城主として、明治維新まで在城する。

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三原駅構内を通って天守台ヘ新幹線開通時に石垣が大きく破壊されたらしい、本丸中門跡と船入跡の石垣も一部残っています。
駅前には毛利元就の三男、小早川隆景の像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別  名:久松城、葦陽城

城地種類:平山城

築城年代:元和8年(1622) 

築城者 :水野勝成氏

主要城主:水野氏、松平(奥平)氏、阿部氏

遺  構:伏見櫓、筋鉄御門、天守(再建)

歴  史:元和5年(1619)、福島正成の改易を受け、水野勝成が、大和郡山より、福山に入封する。
元和6年(1620)、福山城の築城を始める。元和8年(1622)に福山城が完成する。五重天守もあがる。
元禄11年(1698)、五代目の水野代勝岑が2歳で没し、無嗣改易となる。
元禄13年(1701)、松平(奥平)忠雅が、出羽山形より、入封する。
永保7年(1710)、松平忠雅は、伊勢桑名へ移封される。阿部正邦が、下野宇都宮より、入封する。以後、阿部氏が明治維新まで在封する。
昭和20年(1945)、米軍の空襲により、天守が焼失する。

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新幹線駅の直ぐ側、お城の敷地に駅があるそうです。東西南は塗り籠めで堀がない北側だけ、攻撃を警戒して鉄板張が施されて居ました。中は博物館になっていて、歴史を知ることが出来、ちょっとしたゲームもあり楽しめました。とても綺麗なお城でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  

   

別  名:高嶺城・鴻ノ峰城

城地種類:山城(麓に大内氏館)

築城年代:弘治2年(1556) 

築城者 :大内義長氏

主要城主:大内氏

遺  構:曲輪、石垣

歴  史:弘治2年大内氏最後の当主義長は詰城である高嶺城の築城を開始。だが翌年、毛利氏が山口に侵攻すると、義長は未完成の城を捨てて逃亡し、自害。代わって毛利氏が城を完成させた。

高嶺城は標高338mの鴻ノ峰に築かれた山城で、頂上部に主郭、尾根に曲輪を配し、一部に石垣が築かれた。

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県庁裏の山口大神宮から鴻ノ峰登山口より山道を30分程登ったところにあります。

今回は、木戸神社の側の公園を通って、NHK鉄塔の管理道を車で登り終点に2台ほど止める場所があったので利用させてもらいました。郭跡としてはあまり整備されていませんが、案内の標識は建てられています。

 

中腹にある郭跡

 

 

車で登るとここから天守閣へ

 

郭から城下の景色

 

 

頂部主郭跡

 

天守の石垣