離婚【1】 | ノラとハナウタ

ノラとハナウタ

自分の最強の味方は自分じゃない?
色トリドリの自分を楽しんで行こう!

ふた昔前のキロク

友達を亡くした後のココロは焦燥感でいっぱい。
気を抜くと涙が出て来るので、何かしなくちゃ…でも何を…と無意味に焦っていた。

 

あーもう消えてしまいたい、何もかも面倒!

と思ったりしては、

イヤイヤイヤ、周りに自分と同じ想いをさせてどーする!

と自分を戒める。

その繰り返し。

 

夫も娘達も居たし、実家へ仕事の手伝いにも行っていたのでそれなりに行動は出来ていたが、眠れない、食べられない、でも仕事はする…のだからどんどん痩せる。
当時は、(すげー、お陰で痩せたわー)…くらいに思っていたのだけれど、40キロを切ったのだから尋常な痩せ方じゃ無かったはず。

家族の前で泣いている訳にはいかないので夜中に車で近所の桜並木を見に行く。

花びらが舞い散る様を眺めながらただただ涙は出て来る、落ちて行く。
あの時に見た桜は本当にキレイで、よくもまぁこんな時期に死んだもんだと思いながらとため息をつきつつただそこにいた。

始めは自分と良く似た人間を亡くした事で落ち込んでいるのだと思っていた。
なかなか言葉を超えて理解出来るヒトには出会えなかったから、もっと話したかったなぁと。
その内に、私も、彼と同じで孤独だったなぁと思うようになった。
あー私も、もう頑張ったんじゃない?
妹びいきで私に苛立ちを持ち続ける母との不和。

後で書くけれど母は全く別の理由で苛立っていたのだけど、子供の私には分からなかった。

 

早く家を出たくてハタチで結婚を決めるも、結婚て?奥さんて?と思う度に自分の親しかサンプルが無い。

サンプルに忠実に『黙る・譲る・見ない』事に終始してしまって21歳、23歳で娘達が生まれて親になるも夫に自分の気持ちを伝えるという事をしなかった。

 

姑は毎日のように連絡して来るわ、やって来るわで嫌味三昧、やりたい放題で疲れた。
夫は良く言えば優しいが、守ってはくれない。
自分がイヤだと思う事からは逃げてばかり。
矢面に立つのは自分だと、どんどん強くなる。
頑張り過ぎてピリついて子供達を叱り飛ばしてしまって反省したり…。
そんな自分に嫌気がさしていた。

 

世の中の多くの妻や母親がしている事と諦めて受け入れるには苦しく重くなっていたから、はぁ疲れたなぁ…と。

 

夕方、スーパーへ行っても何も選べない。
何も食べたくない、でも作らねばならない。
何を食べさせたらいい?
何も考えられない。
もう消えて無くなりたい…。
死にたいというのではない。
消えたいだけ。
だって死んだりしたら私と同じ様に子供達が苦しむ、悲しむ。
自分達は母親の死のブレーキにはならなかったのかと、きっと思うだろう。

それは極めて衝動的で、突然の瞬発力で起きてしまう死なのだと、書き残したところで無駄だろう。

でも、もう頑張れない。苦しい。助けて。
誰か、誰か…と思っても誰も思い当たらない。

私は、誰かに相談するのは苦手で、しっかり者ぶって長女らしく生きて来た。弱みを見せられず、頼れず、親にすら頼れない、頼りたくない。

そしてため息をつき、私は本当にバカな子供だったなぁと望郷モードに突入。
無神経で無関心、自分の興味がある事にだけ夢中になり、しょっちゅう怒られていた。
「オマエは小憎らしい事を言う」
「妹と違って可愛げが無い」
「性格が悪い」
「考えてから口に出せ」
こうして書くと結構な言葉だし、母親と微笑み合って話した記憶が無いのだからよくもまぁ、平然と育ったものだと思う。
無神経バンザイだ。

未だにハッキリ覚えているエピソードとしては、小学6年生の頃、初めて友達同士で上野へ行こうという話しになった。下町育ちの子供達にとって初めての都会。少ないお小遣いを持って、未だにあるのか分からないけどABAB(アブアブ)というファッションセンターがあり、服や雑貨がキラキラ。
…にも関わらず、私はラズベリーのジャムを買った。
手持ちのお小遣いはほぼ無くなったけど、母が「昔アメリカで食べたラズベリーのジャムは美味しかったの」と、母にしては珍しく楽しげに、懐かしそうに話していたからだ。
ところがどっこい、そのラズベリージャムを食べた母が一言、「こんなんじゃない」と。
その時に、
(うわー、スゲーなこのヒト。子供がお小遣い全額突っ込んで買ったおみやげでも、そういう事言えちゃうんだ!)
と驚きと共に、もう母に気に入られようとするのはスッパリとやめた。

何しろ気分次第で八つ当たりするので、やれ家事を手伝えと言ったり、見ててイライラするからやめろと言ったりで、今にして思えば、父の愛が自分にあるのかないのかと日々イライラしながら家業に家事育児と少ない生活費での切り盛りだったのだから誰かに当たらずに居られなかったのだろうが、余りにも『女』過ぎてゲンナリする。
子供だった私が理解出来るはずもない。

母は地方の裕福な家庭で育った末っ子お嬢様で、
「私は末っ子だから親にも愛されたと思うわ」
と言えちゃうくらいだから、相当なものだったんだろうなと思う。
現在80歳近いがアメリカ留学の経験があるのだからたいしたものだ。
とはいえ私としても意地はあるのでそうなると親と話しをしなくなる。

陰気だったかと言えば、妄想して楽しんでいたのでさほど暗くはなかったように思う。
「もしも西部警察の大門刑事(渡 哲也さん)が兄だったら…」
とかいうしょーもない妄想をしてみたりして。

(中学生時代、『雑誌の切り抜きを挟める透明下敷き』が流行り、周りは金八先生のたのきんトリオ一色だったのにも関わらず、私だけ西部警察の大門刑事がレミントンを構えた切り抜きを入れていた。1ミリたりとも恥ずかしいと思ったことは無い。)

母に小言を言われたくないから黙っていれば
「アンタは何も話さないから何考えてるか分からない!」
と逆ギレされるんだから迷惑千万。
どないせーっちゅんじゃーとココロで叫びつつ、言ってまた被害者ぶられたり(母はすぐ父に告げ口して泣いて見せたり、何しろ父に構って欲しいヒトなので面倒だった)しても更に面倒なので黙っていた。

…という感じでつらつら〜っと過去を振り返ってみては、
私は親子のみならず、結婚とか夫婦とか、人間同士の結びつきが希薄なのかもしれないなと自覚した。

両親を見ていてそのぎこちない関係しか知らない。
ただ生き急ぐ様にどこかへ、どこかへと焦っていた。
どこからがワガママか分からないからいつも遠慮していた。
ふと正直に口走ってしまえばまた「そんな事、よく平気で言えるね」とか非難されるので、これもダメなのか…と素直に引っ込めてしまう。

口から出ている事が無神経で、ちょっと注意されると海より深く反省してしまうからバランスの悪い人間なんだろうか…と悩んだ事もある。
どうやら口から出る言葉は切れ味抜群過ぎるようだぞと。

それでも結婚してからは楽しく暮らせたらなぁとは思ったし、自分の思いつく限りの事は試したし夫を立てるとか、落ち着いて話すとか、頼ってみるとか、その時々で試してはみたが、この「試してみる」というところからして不自然でどんどん自分を見失う。

当時の夫に関してはもう別れた人間なので詳細は控えるが、仕事で遅くまで帰らないヒトだったので子育てに関して言えば口出しされないので良かったのかも…とは思う。

親に全く逆らえず優しいのかと思えば、わざと傷つける様な事を言って顔色を見て楽しむ様なところもあり、なんだろう…やっぱり、そういうの嫌いなんだよなぁアタシ…って。

なんだかなぁと思いながらも15年も一緒に暮らせるんだから悪人てワケじゃないんだけど…苦しいな、今更〜、気づくの遅いのかもな〜何事も。

はぁ、娘2人の責任なら喜んで取るんだけどなぁ…。
娘2人となら…。
あら?そうか!
と、突如としてやる気がむくむくとわいた。

自分の中で何かのスイッチがぱちんと入った瞬間だった。

そうか義理の関係や夫との関係に辟易していたけど子供となら生きたいんだ!と気づいた。
が、待て待て落ち着け。
ちゃんと考えよう。

友達が亡くなって自分の人生を振り返ってみたらこんなのイヤだな、続けたい程の人生じゃないなと思っちゃったけど、結婚も何もかも自分が決めてココまで来たはず。
そう仕向けられた事でも結局は自分が選んで今があるはずだから、簡単に投げちゃいけないよな…と思い直す。

友達が亡くなってからもう1年になろうとしていたある日。
本当にちょっとしたタイミングだった。

娘2人と食事をしていた時、私はふと
「パパと離婚しようかなぁ…なんちゃって!」
と、口走った。
重苦しくではなく、さらっと冗談みたいに言った。
その方が娘達も軽く本音が言えるかなぁ〜なんて思って。

ちなみに私と夫は子供の前で喧嘩らしい喧嘩をした事は無かった。
雰囲気が悪いコトはあっただろうが激しく言い合ったり、お互いに当たり散らす様な事は一切していない。

…にも関わらず、娘達の答えはすごく意外なものだった。

子供、恐るべし。

 

<続く>

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親しい人の死は

こたえるね。

 

 

 

 

 

 

 

 


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