更新が遅くなりました。

いやはや、時間があると某動画サイトを徘徊してしまうもので。←

いけませんね。


ずいぶん時間がたってしまいましたが、順番に更新していきます。






Go the Distance 第2弾は舞台。




シアター・ナノグラム第27回公演「みんなの詩」





今回この舞台を知ったのは出演者からご連絡をいただいてですが、

本当に楽しく観劇させていただきました!



久しぶりに見る感じのお芝居でした。というほどの舞台数も観ていないと思いますが。笑




日常、だけど非日常。

現代社会の問題と、気付いている気になっているだけで本当は気付いていない問題の本質。

結局人間って、というか日本人って自分たちのことしか考えてないよなぁ。



すごく抽象的ですが、そんな感じです。感じたこと。



あとは、単純に”言語”ってコミュニケーションの道具としてやはり必要かなって、必要な人は特に。

あるに越したことはないのだけど、習得にはそれなりの努力が必要だし、会話レベルまで必要となると。


意思の疎通は言語の壁があるとかなりキツイということは日々感じますね。


それは日本人の中でも同じで、言語表現の豊かじゃない人が”笑っている”のは、果たして本当に喜んでいるのか、楽しんでいるのか、嬉しいのか。




本当は、「こいつには笑っていれば済む」と思われていないか。




そんな疑心暗鬼を思わせるような舞台でありました。





バッドエンド的な終わりでしたが、気持ちがどろっとしてしまうような終わりではありませんでした。


ひたすらにシリアスにメッセージをぶつけてくるのではなく、自然と”何か”を考えさせられる。

全体としてはコメディタッチで素直に楽しめたし、仲間って大事だなって思ったし。



いい舞台でした!もう結構経っちゃったけどお疲れ様でした。

WSAU受けたかったけど、学生なもんで予定が合いそうになく断念。

またいつか挑戦したいです。




*****



演劇人としては、役者さんが日常を”演じている”ことに違和感を感じなかったことに感動しました。


私は初舞台を踏んだ時、日常というほぼ”ナチュラリズム”を表現させていただいたのを思い出しました。

あのころは未熟も未熟。初舞台にして初主演、初独白など。

初めてがあるのは当たり前ですが、右も左もわからず苦労したことをよく覚えています。


今自分は、日常の風景を”リアリズム”で表現できるか。

舞台で自然な様子を見せられても面白くありませんから。


しかし日常で”芝居がかった”ものを見せられても、お客様の心にすっと入り込めるとも思えません。



最近、映像に関わる機会を少しいただいて、”ナチュラリズム”を忘れていることに気づきました。

”ナチュラリズム”を忘れると”リアリズム”もリアルではなくなってしまう、そんな気がしました。


抽象的な言葉ばかり、自己完結なお話ばかりですみません。


自分もまだまだ演劇の「え」の字もわかっていないような人間なので表現が拙くて。



精進していきます。




それでは。


Go the Distance はじめを飾るのは、






Samuel, Johnson・朱牟田夏雄訳『幸福の探求;アビシニアの王子ラセラスの物語』(岩波文庫)岩波書店, 2011.


<原作>Samuel, Johnson, the History of Rasselas, Prince of Abyssinia, 1759.







この本を手にしたきっかけは、目的の本を探す最中にぱっとタイトルが目に入ったというなんともまあ運命的なものです。笑

日本語タイトルがかなり魅力的ですね。『幸福の探求』。




しあわせを探し求めるというのは人類共通の権利、らしいです。


幸福探求権、だったかな。以前学校で習いました。

「しあわせ」をいうものは個人レベルで度合が異なる、ならば求める権利は誰にでもなくてはならないとかなんとか。そんなような権利だった気がします。なんとも曖昧ですが、、、。




ざっくりと感想をいいますと、




面白い!笑





物語は、ラセラスというアビシニア国のしあわせでなに不自由ない暮らしをしている王子が、その日常になんとなく退屈を感じ外の世界に憧れる。そして外の世界に出て、世間というものを知り、真の幸福とは何ぞやと探求していくものです。


私が面白いと感じたのは、おそらく、幸福の探求というのは人類の永遠のテーマだと思うからです。




「しあわせだなあ」って思うのは、ふと過去を振り返ったときに感じるものだと思うんです。

「しあわせになりたい!」って思っているときに気付かなかった当たり前のしあわせに気付く。


でもやっぱり、いっそうのしあわせを求める。



「もっとお金があればかわいい服を買って、おしゃれになれてしあわせなのに」


「あの子は俺のこと、金目的なのかな、不安だ」


「雨が降ってて憂鬱、晴れないかなあ」


「マラソン大会の練習いやだなあ、雨降っちゃえ!」


「彼氏ほしいー」


「彼女がわがまますぎて困る」




しあわせって、「羨む」気持ちと混同されやすいんですよね。



「ある」人は「ない」人が羨ましい。


「ない」人は「ある」人が羨ましい。




『幸福の探求』で言われていることってそういうことで、

ラセラスは、不足がないことに不足を感じます。

つまり不足を求めているんです。


不足があれば、それを満たすために何かが起こる。何か起こさなくてはいけない。



でも結局、他力本願では何も変わらない。

そこで自ら国を出て、環境を変え、不足のなさから脱却しました。(もちろん人の手を借りてですが。笑)



たくさんの人と出会うが、みなしあわせで満たされている、という者はいません。



若者の官能に溢れた幸福は長く続かず、老人は若かりし頃の健康に思いをはせる。

知識長けたものはそれゆえの病を抱え、無知な人間それを罪と感じる。



みんな、まわりを羨んでばかりです。




でもそれは、現状を打破したいという気持ちの表れだと思うんです。


このままではいけない、けれどどうすればよいうのかわからない。



あの人は自分にない能力を持っている、ああなりたいなあ。

昔はよかった、それに比べると今の自分は全く駄目だ。



そんな気持ちが大きくなって、いつの間にか羨むことで満足した気になってしまうのではないでしょうか。

本当は何も満たされていないのに。



作中でこんな科白があります。




「人生というのはつまらないもので、人は誰しも将来の変化を予想して初めて幸福を感ずるのです。変化そのものは何の価値もないので、変化してしまえばまた次の変化を望むのです。世の中はまだ種切れになってはいません。明日は何か今までに見たことのないものを見たいものです。」




私は、≪変化≫に価値があると思います。


自らが変わろうとすること、それが幸福につながるのではないかと。



環境も変わります。しかしそれはごく小さな変化で、それが自分を変えることはほとんどないでしょう。





自分が変わること、自分の力で環境を変えること、

それが幸福へとつながる道。



そして、常に幸福は「近くにある」はず。

親がいること、兄妹がいること、友達がいること、家があること、学校に行くこと、会社に行くこと、

自分がいること。


今一度振り返って、常にある幸福は、常「ではない」と気付いてほしい。気付かなくてはいけない。

自分が変わるように、周りの人も変わる。


だから、その幸福を噛みしめて、変化していきたい。




そんなことを思わせてくれた一冊でした。


ぜひみなさんも読んでみてください。物語としても楽しい作品となっています。







野口ゆり

このブログでは、私が読んだ本や見た映画、舞台などについて語っていこうと思っています。




自分が感じたこと、印象に残ったことなど、基本的に作品のネタバレを含む内容になるのであしからず。


本ブログの目的は私の表現能力の向上、言葉によるアウトプットの練習なので、つたない文章であることもまたあしからず。



本に関しては、その書誌事項をトップに記述し、感想を述べていきます。






野口ゆり