私たちが小中学生のころ、テストが返却されると、どの先生も必ず「間違えたところを見直して、なぜ間違えたのかを確認すること」とおっしゃっていました。

その頃は「面倒くさい」とよく思ったものでしたが、大人になってから、その重要さが身に染みて理解できるようになりました。

「なぜ失敗したのか」、「なぜ自分はこの選択をしたのか」など、次の一歩を踏み出すための足場を固める作業は、仕事においても、人生においても、欠かすことはできないものです。

それは「反省」「内観」など、そのシチュエーションにおいて言い分けられているようですが、結局のところ「なぜ」を追究する作業にほかなりません。

ただこの「なぜ」を追究する作業、簡単なようで案外難しいものです。

よく「あんなことをしちゃったから失敗した。二度としないようにしよう」と反省した気になっている人をよく見ます。

これは、「なぜ失敗したかというと、『あんなことをした』から」と、「なぜ」の答えを出したように見えるので、言った本人も周りもなんとなく納得してしまいがちですが、誰から見てもわかることをただ言葉に出しただけで、ちっとも「なぜ」の追求にはなっていません。

前述の小中学校のテストでいうと「3問間違えちゃったから、70点だった、次から3問間違えないようにしよう」と言っているのと同じことなのです。

「なぜ失敗の原因となった『あんなこと』をしてしまったのか」を自分に問いかけてみると、案外、自分の一番痛い部分に行きついてしまうことになることも多いので、人はなかなかその先を考えようとはしません。

その結果、「なぜ」を追求できない人が出来上がってしまうのです。

私は人生の達人でも何でもないので、壮大な話はできませんが、人生でも、仕事でも、はたまた趣味の世界においても、「なぜ」を追究する力は共通して重要なことだと思っています。

私が専門とするバレエのお稽古では、次のようなやり取りがよく起こります。

私:      今のところ、音に合ってないですよ。気が付いた?
生徒:   はい。
私:      なぜ合わなかったのかな?
生徒:   足を出すのが遅れたから。
私:       じゃあ、なぜ足を出すのが遅れたのかな?
生徒:    ・・・・・。

目で見てすぐにわかる現象については答えられても、その現象に至った原因を説明できる人はあまりいません。

このような会話を頻繁にすると、「先生ウザい」と嫌われてしまうことになるのですが、この「なぜ」をしっかりと考えられるようになった生徒は、確実に上達していきます。

物事は、「面倒くさいこと」「考えたくないこと」ほど、重要な「核」をより良いものであることが多いものです。

何かに躓いているのなら、ちょっと立ち止まって「なぜ」を考えてみるのも、いいのかもしれません。