St.Augustinusのように語りたくて・・・・ -2ページ目

St.Augustinusのように語りたくて・・・・

インターネットに持っているのは、様々な形で、これで7個目になってしまいました。時々、逸脱します!そんな時、「告白」を読み返したいと思います。余りに重いタイトル。少しでも、何かを語れればと思いました。

1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。OCNさん後継ブログでは成功したので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。

2 詩の変更のみ。写真は、11/2(日)の東京。夢の島公園。赤旗祭り。翌3日は飯田でコスプレ祭り。両日の模様から。
一週間を隔て東京へ。雨が心配されたが、曇り。志位さんの話を聞き、四谷の聖イグナチオ教会に寄り、6時からのミサに与り、“グアタルペの聖マリア様”の祈りの本を買って、終バスで帰る。翌日、祭りの様子を撮影したが、リン庁で勉強もして帰ってくる。火は短歌会、午後はリン庁で読書。水は本を倉庫に運ぶ。午後は料理。纏めて4品作る。カレー・シチュー・シューマイ・ブリ。木は午前から夕にマック、夜ミスドで勉強。金は上郷図書館で昼から夕にかけ勉強。“何だかなあ”の一週間になってしまう。図書館で7冊借りる。
「芸術の思想」(矢内原伊作)「グアバの香り」(マルケス)「歌合集」(萩谷朴他)「連歌論集俳論集」(木藤才蔵他)「本居宣長全集第3・6巻」(筑摩書房)「日本の名著本居宣長」(中央公論)。

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それらを早速読み始めるとともに、「コーチング」(落合博道)「教育の論点」(文藝春秋)「萩原朔太郎雑志」(富士川英郎)「新基礎化学」(小塩弦也)「現代物理学小事典」(小野周)「トポバイオロジー」(エーデルマン)「ヴァージニアウルフある作家の日記」「労働経済学」(中馬宏之他)“The Geometry and Physics of Knots”“K-Theory”“Geometry of Yang-Mills Fields”(3冊Atiyah)“Mathematics:Frontiers and Perspectives”「百首異見」(香川景樹)、「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉)「百年の孤独を歩く」(田村さと子)「戦後代表詩選続」(鮎川信夫他)「詩と思想10月号」“Nixon and Kissinger”(Dallek)“T.S.Eliot Complete”(faber&faber)「にっぽん脚本家クロニクル」(桂千穂)「My Bestよくわかる地理」(中村和郎)「万葉集(上)」「萩原朔太郎詩集」「サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇」(ワイルド)を読み散らかす。

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エンジニアだった頃の想い出。その6。アーキテクチャ。ハードからOS、アプリケーションまで、コンピュータの設計に関わる各層の中で、一番面白いのがアーキテクチャだとは良く聞く。矢張り面白いんだろうなと思いながら、未だ実感出来ないでいる。結局、本物の専門家にはなれなかったのだと思う。「アセンブラプログラミング詳説IBMシステム/360・370(上下)」(ストラブル)「コンピュータ・アーキテクチャの設計」(マイヤーズ)「コンピュータの構成と設計(ⅠⅡ)」(ヒル/ピーターソン)「第5世代コンピュータの計画・文化」(広瀬・渕)「TRONを創る」(坂村健)「コンピュータ・アーキテクチャ」(坂村健)「コンピュータ・アーキテクチャ」(へネシー&パターソン)“IBM Personal XT・AT・System/2 Technical References”(IBM)“Introduction to Computer Architecture”(Stone)、周辺含めてリストしたが、一応一通り読んではいる。その中、例えば、坂村健氏の本では、第2章でアラン・ケイのアーキテクチャ、第3章はLispマシン、第4・5章非ノイマン型、第6章スーパーコンピュータ、第7・8章VLSIなどとなっており、「はじめに」には、(p.ⅳから)

“現在(‘84)重要と思われるトピックの多くは、80年代初頭までさかのぼって勉強すれば十分なものが多い。つまり、80年代初期から中期を根気よく勉強すれば、おのずと現代コンピュータの基礎を勉強したことになり、ひいては90年代のシステムを見通せるようになる。本書はそのような意味で80年代初期のコンピュータ・テクノロジーの整理を行ったものとも言える。”

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とあるように‘80年代の雰囲気といったものを感じさせる。一方、へネシー&パターソンは、1990年刊。「序」には、(p.ⅰより)

“各クラス別の最も代表的なコンピュータを利用し、分析と比較のための基準を確立した。そのコンピュータとは、メインフレームのIBM360,ミニコンピュータのDEC VAX、マイクロコンピュータのIntel80x86である。この基準に従い、より単純なパイプライン・プロセッサ、あよび、並列プロセッサの将来を提示している。これらの新技術は、教育上有用でかつ実現性も高い、著者らが設計したプロセッサDLXタイプのマシンとして示されている。”

とあるが、“今後の方向”の章では、SIMD型・MIMD型コンピュータ、Sequent社のSymmetryマイクロプロセッサなどの紹介がある。付録には、彼らがその“生みの親”であるRISCアーキテクチャに関するサーベイも載っている。アラン・ケイ、Lispマシン、非ノイマン型、VLSI、VAX,80x86,RISCといった言葉が懐かしい。それらの全盛時代にごく些細ではあるが、関われたことは技術者冥利に尽きる。当時、ハード・ハードで、“出来る限りハードに置き換えて”という流れだった気がする。“OSの一定部分も何れハード化されるのでは?”と思っていたわたくしにとって、RICSは将に大きな驚きだった。Workstation。また、出版社の共立で思い出すのが、「bit」というコンピュータ専門誌。小日向にも行ったことがあり、一入思い入れが強い。「インターフェース」とともに2冊、毎月定期購読し勉強したものだ。今、へネシー&パターソンも、書棚にSinger/Bergの2冊本「遺伝子とゲノム(上下)」とともに並んでいる。久しく紐解いてない。機会を見つけて両方読みたいと思ってはいるのだが。上に挙げた言葉一つ一つに、“当時ああだった、こうだった”と語りたいが、コメントを省いてしまって申し訳ない。

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マグダラのマリアについて。教会では7月22日を“マグダラのマリア”の記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。なお、マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。「マグダラのマリア様、・・・」と祈るか、叙唱の“聖人”「聖なる父、全能永遠の神、聖人を通して示されたあなたの栄光をたたえ、・・・」に従って祈ればいいと思います。

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”


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4 去年3月に「詩と思想」新人投稿欄に投稿するも採られなかった詩のシリーズがあります。第2回を何回かに分けて掲載します。選考に落ちてますから一定のレベルには達してません。

“<冬の期待> あっ、あそこのビルは?雨も降り出した。このまま走り続けようかしら。それとも引き返す?どっちも同じって気づいた時にはもう天辺来てた。/(この稿未完)”

天辺とは実は江ノ島。カトリックの教会があります。そこから街を抜け丘へ登ると公園があります。何となく飯田天竜峡を彷彿とさせるので、そこに舞台を設えました。語り口は女性です。日夏先生すみません!

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5 “Hamiltonの四次元数”に関し、同じ名前の章が、「数(下)」(エビングハウス他、シュプリンガー)のKoecherとRemmertによる第7章にある。そこからの紹介。名著。読む読まないに関係なく買って一家に一冊備えておくべき書。是非!p.219から。第1回。

“1.複素数x+iyの計算を、順序つき実数対(x,y)に関する操作として正当化した。これは、複素数の和、とりわけR^2上の積の幾何学的な解明が-超複素数(=多元数)の創造か何かによって-われわれの直観の空間R^3においても類似物をもてるのではないか、という問いに対するHamiltonの出発点だった。Hamiltonは、長年の間実数の3つの組に対して良い性質をもった乗法を発見しようと望んでいた。・・・自分の息子にあてて次のように書いている「毎朝朝食に下りてくるとき、お前はよく尋ねたものだった。”ねえ、お父さん、3つ組は掛けられるの?“それにはいつも、悲しく首を横にふりながら、”いや、足したり引いたりできるだけなんだよ“と答えねばならないのだった。」今日では、C=R^2⊂R^3の対(α、β)の乗法を拡張する3つ組(α、β、γ)の空間R^3での乗法が存在しないことを明確にすることはやさしい。すなはち、R^3での標準基底をe=(1,0,0)、i=(0,1,0)、j=(0、0、1)と記すと、ij=ρe+σi+τjと書かねばならない。このことから、i^2=-e,i(ij)=(ij)j=-jとしてみると、-j=ρi-σe+τij=ρi-σe+τ(e+i+j)=(τρ-σ)e+(τσ+ρ)i+τ^2jが出てくるが(e,i,jの一次独立性から)、τ^2=-1、すなはちτはRに属さない。”

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6 “午後過ごす西日の部屋に影満ちて”
これも「何だかなあ」という句。自作だが。

7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: The exercise of solidarity within each society is valid when its members recognize one another as persons.Those who are more influential,because they have a greater share of goods and common services,should feel responsible for the weaker and be ready to share with them all they possess.Those who are weaker,for their part,in the same spirit of solidarity,should not adopt a purely passive attitude or one that is destructive of the social fablic,but,while claiming their legitimate rihts,should do what they can for the good of all.The intermediate groups,in their turn,should do selfishly insist on their particular interests,but respect the interests of otehrs.
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
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9 年間第32土曜福音朗読より。ルカによる第16章から。

“「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたを本当に価値あるものを任せるだろうか。」「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」”
-(人の評価は移ろいやすいものであると知っているのに。常に、心を上に、神に向けていよう。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年11月8日
                       乗倉寿明記す
1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。OCNさん後継ブログでは成功したので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。

2 詩の変更のみ。写真は、10/25(土)の東京。東京に行く。1月以来の神楽坂。「詩と思想」の月一研究会だ。あれからもう一年になる。そう思いつつ参加する。今、一年の総括準備を始めてもいい時期。が、年初「納得のいく詩を作る」の課題は何処へやら、漫然と今年も終わりつつある。「神よ、我をして善き詩句の一編を作らせ給え」との願いも無駄。取り組みが粗いから。勉強の絶対量が足りない。先週は先週で俳句を作る。30作り、うち5句を角川に投稿。駄句でしかない。金曜は午前マックへ。東京でも一番に新宿のマックにだったが。日曜は集会祭儀の後、リン庁で勉強。昨日は、ココスで夜勉強。そんな訳で、先週水曜から昨日にかけて、仕事関連の他、 “Introduction to Quantum Fields on a Lattice”(Smit)“Noncommutative Geometry and Number Theory”(Consani et.al)「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉)「百年の孤独を歩く」(田村さと子)「西洋哲学史Ⅰ」(ラッセル)「チューホフ全集10・11」「戯曲作法」(小山内薫)「遠野物語」(柳田国男)「現代詩の鑑賞4」(明治書院)「ロビンの生活」(ラック)「戦後代表詩選」(鮎川信夫他)「素粒子物理」(戸塚洋二)「無機化学」(齊藤太郎)「代数函数論」(岩澤健吉)「ハイレベル理系数学」(河合出版)「現代文」(数研出版)「古文」(数研出版)「詩と思想10月号」「医学部への物理」(駿台文庫)などを読む。“Quantum Fields”と小山内、チューホフの11巻は読み終える。朝起きぬけと夜寝る際に読むマルケスについての論評が愉しみ。火曜から次の詩を書き始める。壁テニスと散歩で体調を整え、散歩しながら文学書を読む。一昨日は夜、再びマックへ。10時から2時近く迄粘る。「万葉集(上)」「萩原朔太郎詩集」「サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇」(ワイルド)“Introduction to  on a Lattice”Smit)を読む。2時から4時まで詩の推敲。未だ熟さず。昨日、連荘。今度は、「戦後現代詩選」(鮎川信夫他)。読みきる。他に「高校物理の道標」(河合出版)「作業療法士の世界」。これから2時間詩を推敲する予定。昨日やっと書き上げ、漸く「詩と思想」に送る。次の詩に取り掛かる。リン庁に行き、午後勉強する。「戦後現代詩選続」(谷川俊太郎他)「鮎川信夫」(芹沢俊介)「詳説政治・経済研究」(藤井剛)「高校物理の道標」(河合出版)「作業療法士の世界」などを読む。

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エンジニアだった頃の想い出。その5。画像処理/コンピュータグラフィック。何と言ってもブレゼンハムのアルゴリズム。勉強会をしていた。課内で残業時間。フォーレイ・ヴァンダムの「コンピュータグラフィックス」(サイエンス社)などがテキストだったと思う。間違っていたら御免なさい。今手元に本がない。わたしの担当でなかった気がする。ブレゼンハムはコンピュータ・グラフィックの本の中でも最初の方で扱われている。勉強会の2回目か3回目。ブレゼンハムが“多数決”、すなわち、“正方形のピクセルの中で、直線以下の領域が5割以上かどうか毎回判断している”というのはアルゴリズムを一見しただけでは、explicitには分からない。その時、説明を受けていて、一瞬の閃きでそれが分かる。興奮気味に同僚に伝える。その同僚というのは実は凄い人で、ある有名問題の世界的権威。教授。その時の鋭い喜びは今だに忘れられない。“エンジニアをやるというのはそういうこと”それを実感する。また、後に、多角形フィルを如何に高速に行うかが当時のコンピュータ・グラフィックの一テーマ。それを考えた。三角形分割が有効だった。三角形分割してフィルを行うのがハード的に速い。普通の三角形分割は究明されてアルゴリズムになっていた。拘る私は、その三角形分割を速くやる方法を追及し、苦心の末完成する。が、実は後日談があって、飯田に帰って来て、同じ方法が「現代数理科学事典」に掲載されていることを知る。“コンピュータグラフィック”の記事・参考文献[17]長谷川信行先生の「図形ぬりつぶし方式」がそれ。もう少し先まで考えていたが、“ああ、やっていたことは正しかったんだな”と安堵した想い出がある。コンピュータ関係の本は沢山の文学書と一緒にブックオフに売った経緯があって、記憶で書いているが、山口富士男先生の本は勉強させていただいた。他にPavlidisの2冊。これは同僚だった先生に教えて頂いたもの。「デジタル画像処理」(ローゼーゼンフェルド他;近代科学社)「コンピュータ・ビジョン」(バラード他;日本コンピュータ協会)。今、2冊はあるが、フォーレイ・ヴァンダムは売ってしまったらしい。

02

マグダラのマリアについて。教会では7月22日を“マグダラのマリア”の記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。なお、マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。「マグダラのマリア様、・・・」と祈るか、叙唱の“聖人”「聖なる父、全能永遠の神、聖人を通して示されたあなたの栄光をたたえ、・・・」に従って祈ればいいと思います。

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”


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4 去年3月に「詩と思想」新人投稿欄に投稿するも採られなかった詩のシリーズがあります。第2回を何回かに分けて掲載します。選考に落ちてますから一定のレベルには達してません。

“<冬の期待> あっ、あそこのビルは?雨も降り出した。このまま走り続けようかしら。それとも引き返す?どっちも同じって気づいた時にはもう天辺来てた。/(この稿未完)”

天辺とは実は江ノ島。カトリックの教会があります。そこから街を抜け丘へ登ると公園があります。何となく飯田天竜峡を彷彿とさせるので、そこに舞台を設えました。語り口は女性です。日夏先生すみません!

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5 “Hamiltonの四次元数”に関し、同じ名前の章が、「数(下)」(エビングハウス他、シュプリンガー)のKoecherとRemmertによる第7章にある。そこからの紹介。名著。読む読まないに関係なく買って一家に一冊備えておくべき書。是非!p.219から。第1回。

“1.複素数x+iyの計算を、順序つき実数対(x,y)に関する操作として正当化した。これは、複素数の和、とりわけR^2上の積の幾何学的な解明が-超複素数(=多元数)の創造か何かによって-われわれの直観の空間R^3においても類似物をもてるのではないか、という問いに対するHamiltonの出発点だった。Hamiltonは、長年の間実数の3つの組に対して良い性質をもった乗法を発見しようと望んでいた。・・・自分の息子にあてて次のように書いている「毎朝朝食に下りてくるとき、お前はよく尋ねたものだった。”ねえ、お父さん、3つ組は掛けられるの?“それにはいつも、悲しく首を横にふりながら、”いや、足したり引いたりできるだけなんだよ“と答えねばならないのだった。」今日では、C=R^2⊂R^3の対(α、β)の乗法を拡張する3つ組(α、β、γ)の空間R^3での乗法が存在しないことを明確にすることはやさしい。すなはち、R^3での標準基底をe=(1,0,0)、i=(0,1,0)、j=(0、0、1)と記すと、ij=ρe+σi+τjと書かねばならない。このことから、i^2=-e,i(ij)=(ij)j=-jとしてみると、-j=ρi-σe+τij=ρi-σe+τ(e+i+j)=(τρ-σ)e+(τσ+ρ)i+τ^2jが出てくるが(e,i,jの一次独立性から)、τ^2=-1、すなはちτはRに属さない。”

6 “木立には光鮮やかに満ち溢れ”
3連続で「何だかなあ」という俳句、自作だが。

51

7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: The exercise of solidarity within each society is valid when its members recognize one another as persons.Those who are more influential,because they have a greater share of goods and common services,should feel responsible for the weaker and be ready to share with them all they possess.Those who are weaker,for their part,in the same spirit of solidarity,should not adopt a purely passive attitude or one that is destructive of the social fablic,but,while claiming their legitimate rihts,should do what they can for the good of all.The intermediate groups,in their turn,should do selfishly insist on their particular interests,but respect the interests of otehrs.
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
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9 「諸聖人の祭日」福音朗読より。マタイによる第5章から。

“「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人たちは、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。”
-(聖人たちは、心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人々は、平和を実現する人、義のために迫害される人であった。そして喜びの人であり、何よりも主イエス・キリストを愛した人だった。キリストに倣った人だった。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年11月1日
                       乗倉寿明記す
1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。OCNさん後継ブログでは成功したので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。

2 数学の変更のみ。写真は、10/12(日)松本リアップと10/25(土)の東京。東京に行く。1月以来の神楽坂。「詩と思想」の月一研究会だ。あれからもう一年になる。そう思いつつ参加する。今、一年の総括準備を始めてもいい時期。が、年初「納得のいく詩を作る」の課題は何処へやら、漫然と今年も終わりつつある。「神よ、我をして善き詩句の一編を作らせ給え」との願いも無駄。取り組みが粗いから。勉強の絶対量が足りない。先週は先週で俳句を作る。30作り、うち5句を角川に投稿。駄句でしかない。金曜は午前マックへ。東京でも一番に新宿のマックにだったが。日曜は集会祭儀の後、リン庁で勉強。昨日は、ココスで夜勉強。そんな訳で、先週水曜から昨日にかけて、仕事関連の他、 “Introduction to Quantum Fields on a Lattice”(Smit)“Noncommutative Geometry and Number Theory”(Consani et.al)「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉)「百年の孤独を歩く」(田村さと子)「西洋哲学史Ⅰ」(ラッセル)「チューホフ全集10・11」「戯曲作法」(小山内薫)「遠野物語」(柳田国男)「現代詩の鑑賞4」(明治書院)「ロビンの生活」(ラック)「戦後代表詩選」(鮎川信夫他)「素粒子物理」(戸塚洋二)「無機化学」(齊藤太郎)「代数函数論」(岩澤健吉)「ハイレベル理系数学」(河合出版)「現代文」(数研出版)「古文」(数研出版)「詩と思想10月号」「医学部への物理」(駿台文庫)などを読む。“Quantum Fields”と小山内、チューホフの11巻は読み終える。朝起きぬけと夜寝る際に読むマルケスについての論評が愉しみ。

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エンジニアだった頃の想い出その4。コンパイラの本はよく読んだ。当時、コンパイラといえばエイホ&ウルマン。いわゆるドラゴン・ブックだ。2代(サイエンス社のと培風館の)に渡って必死な思いで読んだ。クローンだったが、パソコンを設計している部署にいたからだ。その他、島内先生の「コンパイラのうちとそと」「PASCAL」(ヴィルト)なども読む。同僚にヴィルトを敬愛して止まない人がいて、金曜に、仕事の終わった夕刻から深夜までファミレスでヴィルト讃美を語りあった。物性を専門とされている課長さんが人口知能のプロジェクトチームを開発部門に立ち上げる。わたしもキックオフの会議で末席にてその様子を拝させていただく。課長さんの言われることには「早急に人口知能を始め情報処理関連の本を夥しく勉強する必要があるが、すべて原書で読め。最新のものが読めるから。」当時の培風館の“情報処理シリーズ”が13巻。「日本語のものは除くが、そのすべての原書を入手して読め。そこから始まる」と。紀伊国屋に行って平積みされていた原書を買い求めたのが昨日のように思い出される。が、それやこれやも、若き日の懐かしい想い出でしかない。今、それらの本を読んでも理解は容易だが、一線を退いた自分にとって、多分、「黒衣の僧」(チェーホフ・松下裕;ちくま文庫70より)の1シーンの様に苦しいものでしかない。

46

去年の気分を取り戻そうとして、彼は足早に自分の書斎へ行き、強い葉巻に火をつけて、従僕にワインを持ってくるように言いつけた。けれども葉巻のせいで口がえがらっぽくて気もちわるく、ワインも去年のような味でなかった。習慣がなくなるというのはなんということだろう!葉巻と、ワインをふた口飲んだために頭がふらふらして、動悸が激しくなってきたので、臭素カリをのまなければならなかった。

マグダラのマリアについて。教会では7月22日を“マグダラのマリア”の記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。なお、マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。「マグダラのマリア様、・・・」と祈るか、叙唱の“聖人”「聖なる父、全能永遠の神、聖人を通して示されたあなたの栄光をたたえ、・・・」に従って祈ればいいと思います。

56

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”


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4 半年程前に「現代詩手帖」に投稿したけど採られることのなかった詩の紹介。7回目、多分。段々と書き足していきます。一定のレベルに達しない詩ではありますが・・・。

“「昼」 白い小さな指先から 零れ落ちる サラサラした細かい砂 アポロニウスの円筒形 破損した硝子 //振り子細工のように 時を刻んで来た その機械はもう鳴らない //何千もの部品からなる 精密なゼンマイ装置 淀みのない時を刻み 傷みの欠けた歴史を繰り返す 空間の歪み そして 抜けるように広い青空//補正しようにも 補正しようのない 鋭い悔恨 戦禍にも その村は焼け落ちず・・・ 空間が そして 後に時間が後退して 仄かな祈りが・・・//空に白雲が立ち籠め 木々の緑 その影は 日差しを遮り 小さなバルコニーには 混沌が形成されていた 空港に出て 半島を半時計周りに巡って また読み止しの本に戻った// 「ステファニーが フランスに旅をして お菓子屋になる為に パリで勉強する やがて 大人のする恋をした そして 振られ・・・」//お座なりに投げ出された鞄から 星が銀河のように溢れ出て 空間を限りない光で満たした//次第に遠のいて行く テールランプ 棒状に浮かぶ雲たち 庇には もう東の月が出ている 周到に準備された 文月のような それでもう 終末に近いことが分かる//しなければならなかったことを 後悔して 記憶に残る糸を 辿ってみる 階段を駆け上る//そして 過ぎ去った時間の中 人間は人魚であった 住み慣れた街を捨て 逸れた恋人が タクシーで テールランプを追うように 記憶の微かなうねりを そのままに捉える//人間は嘗て海にあった 朝焼けは意外と簡単で 独り下宿の六畳間で 立ち尽くしていたが 調べなき夕暮れに 東風が出てきた 珈琲を飲み 貿易風についいて 若干議論する//「必然」と染められた旗が 風に運ばれ「憮然」と翻る それが自然の真情だったのかと 轍にぬかるんで 夏の午後 身動きが取れなくなった//白い幽霊が 下北に出て 蒼い白鳥が 係累を払いながら 露に噎せ入って 水底に沈められたのは 何の象徴だったのか//水路を流れる 淡い鴇色の風景 結末は未だ知らない 春も未だ来ない 体育館から人が出て 五島の方へ旅立つ ぞろぞろと 黒子のあった辺りを結ぶ 嵌められた絵のような 水晶の球ばかり 一瞬のざわめき//エテルニタスの様に 風船が 瞬間 大空に駆け登って来た 良心のないエゴイズム 緑なす高原を そして谷川を 列車は 二時間遅れて 終点迄向かう むか伏す夢//アウレーニアとフリージアは もう歌わない夢 だから 歌わなくても それはそれでいい もう夏だ
(掲載完了)

一応完成。次から如何しよう?困っている。詩自体は、何処で終わっても何ら変わらないどうでもいい文章。響いてこない。最後息切れしたか、西脇詩のパクリ。寂しい風が吹く。雲が切れる。月が覗く。狐目をした女が通りかかる。旗竿が風に靡き、如何しようもない倦怠を運び来る。奥沢に幽霊が出る。奥多摩に静寂が戻る。何時かきちんと推敲したい。という訳で私はこれで。

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5 “Hamiltonの四次元数”に関し、同じ名前の章が、「数(下)」(エビングハウス他、シュプリンガー)のKoecherとRemmertによる第7章にある。そこからの紹介。名著。読む読まないに関係なく買って一家に一冊備えておくべき書。是非!p.219から。第1回。

“1.複素数x+iyの計算を、順序つき実数対(x,y)に関する操作として正当化した。これは、複素数の和、とりわけR^2上の積の幾何学的な解明が-超複素数(=多元数)の創造か何かによって-われわれの直観の空間R^3においても類似物をもてるのではないか、という問いに対するHamiltonの出発点だった。Hamiltonは、長年の間実数の3つの組に対して良い性質をもった乗法を発見しようと望んでいた。・・・自分の息子にあてて次のように書いている「毎朝朝食に下りてくるとき、お前はよく尋ねたものだった。”ねえ、お父さん、3つ組は掛けられるの?“それにはいつも、悲しく首を横にふりながら、”いや、足したり引いたりできるだけなんだよ“と答えねばならないのだった。」今日では、C=R^2⊂R^3の対(α、β)の乗法を拡張する3つ組(α、β、γ)の空間R^3での乗法が存在しないことを明確にすることはやさしい。すなはち、R^3での標準基底をe=(1,0,0)、i=(0,1,0)、j=(0、0、1)と記すと、ij=ρe+σi+τjと書かねばならない。このことから、i^2=-e,i(ij)=(ij)j=-jとしてみると、-j=ρi-σe+τij=ρi-σe+τ(e+i+j)=(τρ-σ)e+(τσ+ρ)i+τ^2jが出てくるが(e,i,jの一次独立性から)、τ^2=-1、すなはちτはRに属さない。”

6 “驚愕の西に東に遷ろいて”
「何だかなあ」という俳句、自作の。

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7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: The exercise of solidarity within each society is valid when its members recognize one another as persons.Those who are more influential,because they have a greater share of goods and common services,should feel responsible for the weaker and be ready to share with them all they possess.Those who are weaker,for their part,in the same spirit of solidarity,should not adopt a purely passive attitude or one that is destructive of the social fablic,but,while claiming their legitimate rihts,should do what they can for the good of all.The intermediate groups,in their turn,should do selfishly insist on their particular interests,but respect the interests of otehrs.
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
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9 「聖シモン、聖ユダ使徒の祝日」福音朗読より。ルカによる第6章から。

“そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペテロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。”
-(イエスは、徹夜で祈った後、弟子たちの中から十二人を選んで「使徒」と名づける。彼らは宣教活動のために特に選ばれた者たちであった。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年10月28日
                       乗倉寿明記す