あの大震災から一年が経過しました。
昨日は、一日中震災関連のTV番組を見たり、
新聞記事を読んだりしながら、
一年前を振り返っていました。
未曾有の大災害で
愛する人を失った人たち、
そして、原発のために
故郷をあとに
しなければならなかった人々。
あの大災害の
記憶を風化させることなく
いつまでも、語り続ける事こそ、
復興を
できるだけ早く進めていくために
必要なことではないかと思います。
震災当時は
ドリカムの
「何度でも」
こみ上げてくる涙を 何回拭いたら
伝えたい言葉は 届くだろう?
誰かや何かに怒っても 出口はないなら
何度でも何度でも何度でも 立ち上がり呼ぶよ きみの名前 声が涸れるまで
悔しくて苦しくて がんばってもどうしようもない時も きみを思い出すよ
10000回だめで へとへとになっても
10001回目は 何か 変わるかもしれない
口にする度 本当に伝えたい言葉は
ぽろぽろとこぼれて 逃げていく
悲しみに支配させてただ 潰されるのなら
何度でも何度でも何度でも 立ち上がり呼ぶよ きみの名前 声が涸れるまで
落ち込んでやる気ももう底ついて がんばれない時も きみを思い出すよ
10000回だめで かっこ悪くても
10001回目は 何か 変わるかもしれない
前を向いてしがみついて胸掻きむしってあきらめないで叫べ!
何度でも何度でも何度でも 立ち上がり呼ぶよ きみの名前 声が涸れるまで
悔しくて苦しくて がんばってもどうしようもない時も きみの歌を思い出すよ
この先も躓いて傷ついて傷つけて終わりのないやり場のない怒りさえ
もどかしく抱きながら
どうしてわからないんだ?伝わらないんだ? 喘ぎ嘆きながら
自分と戦ってみるよ
10000回だめで 望みなくなっても
10001回目は 来る
きみを叫ぶ声 力にしていくよ 何度も
明日がその10001回目かもしれない…
を何度も聞いていましたが、
最近は
中島みゆきの
「時代」
今はこんなに悲しくて
涙もかれ果てて
もう二度と笑顔にはなれそうもないけど
そんな時代もあったねと
いつか話せる日がくるわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう
まわるまわるよ時代はまわる
喜び悲しみくり返し
今日は別れた恋人たちも
生まれ変わってめぐりあうよ
旅を続ける人々は
いつか故郷に出会う日を
たとえ今夜は倒れても
きっと信じてドアを出る
たとえ今日は果てしもなく
冷たい雨が降っていても
めぐるめぐるよ時代はめぐる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変って歩き出すよ
まわるまわるよ時代はまわる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変って歩き出すよ
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変って歩き出すよ
や
「上を向いて歩こう」が
上を向いて歩こう
涙が、こぼれなように
想いだす 春の日
ひとりぼっちの夜
上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
想いだす 夏の日
ひとりぼっちの夜
しあわせは 雲の上に
しあわせは 空の上に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら 歩く
ひとりぼっちの夜
やたらと
身にしみます。
上を向いて歩こうの
歌詞って、
こう
日本人にしかわからない
ニュアンスがありますよね。
なんで、
涙がこぼれないように
上を歩かなくちゃなんないのって
アメリカ人とかはいいそうじゃないですか。
泣きたいときはなけばいい
みたいなね。
でも、日本人は
涙を見せないで、
前向きに生きていこうみたいな。
説明しきれないけれど、
日本人にしか
分からない感覚みたいな。
だから、こんなにも
愛され続け、リクエストの多い
曲なんだって思います。
震災当時は
「何度でも」
みたいに、
立ち上がって
休むことなく
がんばり続けなくちゃって
おもう曲が
とても必要でした。
それは、
今でも必要で
あることに変わりはないのですが。
震災当時は、
「何度でも 何度でも 何度でも 立ち上がり
呼ぶよ 君の名前 声がかれるまで」
のところが、
震災で行方不明になった家族を探す
人たちとかさなって
涙が止まりませんでした。
でも、今は
がんばりすぎて
これ以上頑張れないって
おもっているひとも
きっといる。
だから、「時代」
が身にしみます。