京都での痛ましい事故



やはり気になるのは、車を運転していた人の病歴です



病気が事故の原因だったかどうかはまだはっきりしていないようですが、以前にも同じような事故があったことからどうしても病気と事故との関係に注意が向いてしまいます



病気と全く無縁の人は、世の中いないと思います

自分は100%健康体という方でも、家族は友人に病気を抱えながら日々暮らしていらっしゃる方など、病は意外に身近なものなのではないかと・・・



病気といってもいろいろですね

以前急に眠くなってしまう病気もあるとか聞いたことがあります

眠くなるというより、意識を失うような形で寝てしまうとか


知り合いの中には、今回の運転者と同じ病気をもった人もいるし、

ちょっと違いますが、社会生活をするうえで障害となるケースも指摘される発達障害と診断されたお子さんをもった方もいらっしゃいます



記憶するのが苦手、感情をコントロールするのが苦手、人と話をするのが苦手、一か所にとどまっていることが苦手、急に発作をおこし意識を失ってしまう・・・など



病気を原因とする、生活上の「困難」もたくさんあります



他にも疲れやすいとか、体力が著しく低下しているとか、食事で食べられないものがあるとか、感染させることもある病気であるとかも



挙げたらきりがない



難しいのは、それらのさまざまな事実を周りの人が気が付いてあげるのが難しいこと

それはその人が自分で告げてくれないと、周りではわからないこと



日本は特にそういうことを公にすることを嫌うところもあると思うのでなおさら難しいと思う



ヒントになるかどうかわからないけど、アメリカ留学中の出来事で今でも記憶に残っているエピソードがあります


1、クラスメートに全盲で盲導犬を連れて授業に出ている人がいました

彼女は、専用のタイプライターで授業中のノートはすべて記録、犬はもちろんおとなしく授業を聞いています

何より驚いたのは、彼女が授業をエントリーすると次の授業までに点字の資料がすべて準備されるということ

学ぶ権利は平等、なにがあっても学びにハンディがあってはいけないという配慮を感じました


2、同じくクラスメートで電動車いすに乗った体にねじれが残る男子学生がいました

授業初日、その隣に座ったいかにもアメリカの男のこといった男子学生がガムをくちゃくちゃ言わせながら

「それ、どうしたの?」と彼に障害について「とっても自然に」聞いていたこと

興味深く聞き耳を立てていると、「何ができて、何ができないのか」を率直に聞き、また聞かれた学生も「これはできるけど、ここは人の手を借りたい」と言っていました

最後は、「わかった、それなら僕でもできそうだ。必要なときは言ってくれ」と本当に自然に言い、あとは特に気を使うわけでもなく、ずっと付き添うこともなくそれぞれフツーに授業を受けていました


3、留学生のパーティーに参加したとき、自己紹介の時に自分はHIV感染者だと言っている人がいました

そして彼は、こういうことは感染にならないけどこういう時は気を付けてくれと、フツーにアナウンスしていました

周りも、「オッケー」みたいな雰囲気で、握手したり

私が見た限り、HIVという言葉に過剰に反応する人は誰一人としていませんでした、むしろ熱心に質問しその病気を知ろうという感じでした


4、学校の清掃係

彼は何事も清潔にしないといけないという強迫観念があるそう

精神のハンディキャップを背負っています

でも、「だからこそこの仕事があってるのさ!」と・・・確かにはたからみると、ちょっと異常なほど磨いたり、何度もなんども同じところに水をかけたりしていましたが、なるほどという働きぶりでした

面白いのは、彼は会う人会う人にそういうことを「楽しげに」言っていること

彼のことを知らない人はいないというくらい、よく知られていました



つまり、自分の困難な点を回りにはっきりと告げること、そして周りもそれを正しく理解して問題の解決を一緒に考える、あるいは問題とならないように対策を考えること、


そういうことがもっともっとオープンになっていくことが大切なのではないかと



日本ではひとつできないことがあると、すべてできないというような判断がされることないでしょうか?

その根底には「常にみんなと一緒」という横並び意識



例えば今回の運転者のような病気、この病気があるといつ発作がおこるかわからない・・・

そういうことを周りに告げると、仕事を失ってしまうかもしれない

だったら内緒にしておこう、人に知られないようにしよう


そんな空気ないだろうか?



がんの療養中の人は、疲れやすいとかいろいろあって、仕事を続けられなくなることが多いとか

辞めさせられるということは表向きはまあないと思うけど、理解されない・いずらいということはあるんじゃないかな


でもそれでほんとにいいんだろうか?

病気なんていつ誰の身に起こっても不思議じゃないこと

社会から封印してしまうような世の中じゃいけないじゃないかな



なんだろう、それぞれの状況を正しく理解して、補いあうことって、もっとできるんじゃないだろうか?



早く走れる人ばかりじゃなくても、社会は成り立つ

数字に弱くても、芸術的なセンスが光る人もいる



お互いの良さとお互いのハンディを補う社会ってできないものなのだろうか?


日本って結構思いやりがある国だと思うけど、相手を尊敬する文化って意外に少ないのではないだろうか?

相手を尊敬していれば、たとえその方に何かしらのハンディがあったとしても、なにかを学ぼうと思うもの


思いやりだけでは足りないなにか

同情だけでは回らないなにか

そんなことを感じてしまいました



いずれにしろ、悲しい事故です