インドでのこと
随分と昔だけれど
高校を
卒業する頃の私。。
誰かは大学へ進学
誰かは企業に就職
誰もが
そのどちらかを選び
卒業をして行く
そんな
同級生の姿を見て
私は就職も進学もせず
いやそのどちらも出来ず
取り残されていた。。
周りの友達
全てを見送り
一人
取り残されていた。。
何と惨めな姿だろうか
その時
誰にも言わず
いや誰にも言えず
一人思っていたことがあった
それは
「いつか大学に行きたい。。。
でも、それは日本じゃない国。。
日本語で勉強する大学じゃないところ。。。」と
それが叶うことかどうか
不確かだったけど
心の奥で漫然と心にしていた
それから
何年
何年もして
私はインドの
デリー大学に入学した
なんと
晴れ晴れしたことだったか
私の心は
本当に浮き立っていた
なぜなら
初めてデリーを訪れた時から
デリーで生活したいと思っていたのだから
その
デリーでの生活は日々が新鮮で
それでいて
かつてから馴染んだ土地のようで
どこを歩いても
自由で
新鮮で
自然な自分だった
でも、しかし
言葉の壁は常にあった
そんな私が
デリー大学に入ったからと言って
簡単に卒業出来る訳ではなかった
本当は
噂に聞いていた。。。
どんな
噂だったかと言うと
「デリー大学に入学すると外国人はどうやら簡単に卒業出来るらしい。。。」と
実は
それをあてにしていた私だった
入れば外国人として特別枠(噂で)があって
特別枠で卒業出来る。。と
しかし
そんな噂は
実際のところ
単なる噂話だったと
なんと
知ったのは
1年生の卒業試験の時だった
特別枠
外国人の特別枠での
試験合格なんてどこにも無いのだから。。
本当に驚いた 汗汗 笑
驚いて
そして
狼狽した 汗汗汗 笑
ヒンディー語が少し出来る程度の私が
インド人と一緒のクラスに座って
ヒンディー文学を
ヒンディー語で授業を受ける
と、しても
突然
スラスラヒンディー語が書けるわけがなく
笑える。。。と言うより
むしろ
気の毒な姿だ。。。
レベルの高いヒンディー語を勉強したかった私
しかし。。。
どんなに
一番前の席に
座ってみたとしても
分からない単語が急に理解できる訳でも
書ける訳でも勿論無い。。。
私は
前途不覚なる姿を
インド人の前にさらけ出して
2年も留年した。。
そんなダメダメな私を見て
言った人がいた
「日本に帰れ!」と。。。
それを言ったのは
ヒンディー語のインスティテュートで
数年前に出会った男性
そんな言葉を言われるまでになった理由は
私が留年したことだけではなく
私の心が
荒んでいたことにあった。。。
インドの生活は過酷だ
インドに住んでいるだけで
否応無しに
心はかき乱され
自身の静かな心なんか
何処へやら吹き飛ばされてしまう
誰もが
日々を必死に生きている
気候の厳しさと合わせ
生活環境も厳しい中
家族として知人として
皆力を合わせ生きている
インドで
1日を生き延びるエネルギーは
本当にそれだけに
集中しないと生きれないような厳しさだ
自分の命の
エネルギー消費を守る。。
そこに
集中することが大事
そんな中に
外国人が一人ぽっち
で生きると言うことは
すがる術もない自分が
自分を維持することだけで精一杯となる
それを維持する為に
共に力を合わせてくれる人がいれば
維持するの容易い
が、それも無い状況は
日々孤独な生活と作業だ
孤独なだけに留まらず
厳しいインド人の目
隙も見せずとも
ズカズカと心の奥どこ彼処まで
荒らしにやってくるインド人
助けを求めたところで
素直に弱みを見せたところに
まさに
「傷口に塩を塗りつけてくる。。。」
いや
それ以上のことを
遠慮なしにしてくる
そんな生活はまるで
独居房にいるような。。。
とも思えるほどだった
自分自身の
限界が何処か
「どこまで正気でいられるかしら。。」
私は
自分の部屋の
本棚を眺めながらそんなことを思ったことだった
そんな生活の中
知らず知らずに荒む心
それはまるで
カオスのような心の状態だった
周りのインド人は
私がどんなになろうと
当然ながら一切気にすることはない
「インド人は、砂を噛んで生きている。地球が無くなるとして、全人類が滅亡するとして、
最後まで生き残るのはインド人だ」と言われていると、知り合った日本人は言った。。
それを私が身を以て納得したのはインドに住んで5、6年も過ぎた頃だったかもしれない
当初のインド住まいの
初々しい私はもう無くなり
インドの厳しい生活に
心身どっぷりと浸かり
インドの生活から
逃げようにも
逃げられない日々を過ごしていた時だった
「彼らは(インド人)は砂を食事にしてるんじゃ無いかしら。。」と、心底思ったものだった
私の心は
荒っぱなしだった
荒々しい気持ちで常に生活していた」
それはインドで
生活したばかりの
初々しい清々しい心の私ではなかった
毎日
笑顔で目を輝かせて
ヒンディー語を勉強していた頃の
私ではなかった
刺々しく
ヒンディー語もろくに話せず
無為なことに時間を費やしている
馬鹿な日本人だった
数年前の
活き活きした私を知り
そして荒み果てた
私を見て
彼は言った
「日本に帰れ!こんなとこにいて何があるんだ!」と
しかし
私がデリー大を卒業せずして
帰国する選択肢はどこにもなかった
スリランカからやっと帰国した私をホッとして迎えた家族
その家族に有無も言わさず
留学するとして
家族の思いも言葉も押しのけて
インドに渡った私だった
更に私は実は
奨学金も頂いていた
JICA関連の団体から
お世話になった方からの推薦まで頂いていた
なので
やるしかなかった
デリー大学を卒業せずして
帰国するは有り得なかった
苦しかった
日々どうしようか
何か
誰か助けの手を
差し伸べてくれるのでは無いかと探していた
まるで地球から離れた
自分が一人ポツンと宙に浮いてる感じだった
ほんの一本の糸が
私と地球とを繋げているような感覚だった
然し乍ら
誰もそんな
奇跡を起こしてくれる人なんかいなかった
自分で出来ないことを
出来るようになるしかなかった。。。
私は決めた
出来るまでやるしかないと。。。!
それからの私は
毎日カレッジの図書館で
ヒンディー語を書きまくった
何冊ものノートに
ヒンディー語を書いた
腱鞘炎になっても
腕が痺れをきたしても
湿布をしながら
右腕をさすりながら
毎日毎日レポート用紙を増やしていった
腕に負担が少なくなるように
ノートの紙の質も優しく
鉛筆もソフトなものを選び
来る日も来る日も
図書館が閉館するまでノートと向き合っていた
そして
次第に私のヒンディー(デウナーガリー)文字は綺麗に美しくなって行った
そんな私の
ヒンディー文字を見たインド人は言った
「あんたはヒンディー文字を書く仕事に就いた方が良い」と 笑
そして
私はヒンディー語を
書くことが楽しくなって来た。。。
授業でも先生の読み上げに
一語一句取りこぼしなく書き取りして行った
そして
次第に同級生のインド人が
「Nobuko 昨日の授業の書き取り(デクテーション)を教えてくれない?」と、言うまでになった
私の周りにインド人の女の子が5、6人も集まり
私の読み上げるヒンディー語を自分達のノートに書き写していた
そして
私は
一年生を無事卒業した
初めの
カレッジを2年留年し
そして
カレッジを代わって見たらどうか、と
大学の外国人アドバイザーから言われ
一から
新しいカレッジでスタートし
ヒンディー語のレベルを
中級レベルに下げ
一年目の卒業試験で
落とした2課目を
2年の卒業試験で
再挑戦して
1年、2年の
全て
6課目の合格点を取り
3年目は
そこそこの合格点で
そして
デリー大学を卒業した
だからと言って
誰もが
外国人なら
全員卒業出来ると言う訳じゃなく
やはり
続けた人が
出来ると、言うこと
何故なら
途中で姿を消した人もいるのだから。。
私の中での困難を乗り越えたことは
ヒンディー語のスキルアップは勿論だけど
それだけではなかった
どんな環境であれ
負の環境の中で
維持した
自分のスピリット
環境に巻き込まれず
失わず
維持した
自分のスピリット
環境が
自分の心が
カオスであろうと
乗り越えようと思うこと
一つの方向に向かおうとすること
それは魂・スピリットのみの力だと思う
それが
今でも
私自身の
励みとなっている
☆☆
そして
こんな生活の中で
私が
スリランカにいた時に感じた
私の中の巨大な姿の
エゴは
いつの間にか
姿を消したようだった。。
感謝☆
☆〜☆
ここにインド人の生活として記したけど
とても私的な私個人の学生としての生活の一部です。
こんな風に記したとしても
未だ私はインドへの愛着をもっている。
インドの過酷さがある意味好きでしょうがない 笑
そして、ある意味インドの地で過酷なまでの気候の中で人間が、いや生き物が
生き抜こうとすると「砂をも噛んでも生きる。。」と、言う表現になるのだろうと思われる。
そして、実際インドの野菜とかには砂が混じってることが多々あるし。。
そんな意味合いもあるのだろうと思われる。
その言葉を批判と受け取られたくは無いことだけはここに記しておきたい。
私は心からインドの大地と
インドに敬意を払い
インド人の逞しい生き方と生活に
途絶えることのない愛を感じている
そして
インドでの生活を私に与えてくれたことに
深く感謝している
☆☆☆☆☆
スピリチュアルライフコーチ
エリー のぶこ