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毎年のように手袋をなくす。と、去年の今頃も、そんなことを書いた。


ふだんは手袋をなくすたび、百均でまた同じやつを買うから、片手ずつ2度なくした段階で、きっちり一揃い分100円のコストがかかる計算だ。


今シーズンは、今日までに2度手袋を買った。まずシーズン最初に一揃い買い、それを丸ごと両方なくしたと思って新しいのを買ったら、クローゼットの隙間から出てきたもんだから、現実にはまだ一度も手袋をなくしていないのに、すでに200円も使ってしまった。


おまけに今シーズンは、ほかにもバイク用グローブをうっかりなくして新しいのを買うハメになった。乗車用グローブも手袋の一種には違いないので、会計的には手袋費に含めているのだが、コレがふつーの手袋と違うところは、なによりその値段だ。なんと6000円もした。


といっても、バイク用グローブはただの防寒用ではない。いわば転倒時のプロテクターなので、革や合成樹脂で頑丈に作られていて、そのぶん高価なのはやむを得ない。多くのバイク用グローブには1万円とか2万円とかの超アコギな値段がついているのがごく普通だから、6000円だったらむしろ良心的なくらいだが、それでも高いには違いない。


つまり僕は、今シーズンに入って、手袋費として計6200円の巨額の費用を支払ったことになる。


そして春がくるまでに、もしかしたらまた何度か手袋をなくし、あと100円くらい追徴される可能性だって捨てきれない。


ふだんなら、手袋をなくせばいちいち100円払わされると憤慨するところだが、すでに6000円の大痛手をこうむっている今年は、なんとなく鷹揚な気分になって、多少の出費にはあまり腹が立たないから不思議なものだ。


最初にガツンとグローブをなくしておいたおかげで、めずらしく分不相応な金持ち気分が味わえる冬だった。考えようによっては、これもありがたい神の采配だったといえなくもない。

ちょうど去年の今ごろ、故郷で知人と会ったとたん、いきなり「テレビに出てたね」と言われて驚いた。


たしかにその頃、ごく短い映像が放送されたが、まさかそんなものを見てる知人がいるとは思わなかった。東京のテレビ局でリサーチャーをしている友人に頼まれて、情報番組のために収録したVTRをたまたま見たらしい。


僕はある製品の関係者としてテレビ局に呼ばれた。制作側としては、僕のような製品関係者と一般の人たちとの感覚の温度差をおもしろおかしく見せたいと思っているようだった。

ところが収録に集まっていた「一般の人たち」は、やたらとテレビ慣れしていて、芸人じみた頓狂な声をあげ、ことあるごとに「リアクションをとっ」たりしていた。彼らは、少額のギャラで集められたエキストラ、つまり「ニセ一般人」だということだった。


テレビ番組では、よく一般人風の人たちが映ったVTRが流されるが、あれは意外とエキストラや無名のタレントが演じているものが多い。

リアルな一般人に真剣にコメントを求めたりすると、空振りが多くて手間がかかるうえ、あとあと権利関係が面倒くさかったりする。それなら最初から納得ずくでニセモノを仕込み、それらしく作ったほうが手っ取り早いからだろう。


虚構を楽しむフィクションならいいが、事実の報道を装った情報番組や、視聴者参加をうたった番組でも、エキストラたちがしきりに使われる。盗聴事件の追跡報道、いがみあう親子が感動の和解を果たすドキュメント、顔や声を加工した犯罪者や娼婦たちのインタビュー……それらの多くが、こうして作られたニセモノだ。

民放が冗談でやるならともかく、ときには公共放送が流すガチのニュース映像でも、こんな仕込みで作られるものがある。


そういえば、以前あるテレビ番組で「サイバー犯罪撲滅に活躍する腕利きエージェント」として、昔なじみの知人が1時間たっぷりかけて紹介されたことがあった。

彼がいつそんなスキルを身につけたのかと、うっかり本気にして後で当人に確かめたら、「知り合いのテレビ屋に頼まれたから、それっぽく演じただけだ」とかいって澄ましていた。

考えてみれば、もともとパソコンを器用に使いこなせるほど頭の回る男でもないし、そんな仕事ができるはずもない。ちょっとテレビに映ったからって、つい真に受けてしまったのがバカらしい。


エキストラたちのけたたましい笑い声は、リアルに聞けばいかにも芝居がかってウソくさいのに、テレビ画面を通すと、なぜかわりかしリアルに聞こえる。あからさまなニセモノも、テレビに映れば、それだけで本物らしく見えるのかもしれない。


さて、いよいよ今年も、うんざりするほどたくさんのアホ特番で、薄気味わるいエキストラの笑い声が演出するニセモノの幸せムードがたっぷり味わえる年越しの季節がやってきた。


せっかくだから、朝から晩までテレビをつけっぱなしにして、すばらしい年末と、幸せいっぱいの新年を☆

まだ地方に住んでいたころ、東京から、ある情報誌の編集者が遊びにきた。コーヒーのうまい店に連れていけというから、心当たりの店へクルマを向けたとたん、彼が言い出した。


「ねえ、そこの店ってさ、ドリップ? サイフォン? 僕サイフォンだめなんだよねー」


ドリップ式とサイフォン式で好みが分かれるとは思いもしなかったし、どの店がどの方法で淹れてるかなんて知るワケがない。あわてて何軒かの店に電話し、わざわざドリップ式を探すはめになった。


人によっては、やたらとこだわるのがコーヒーという飲み物だ。でも僕にはいまひとつ味がよくわからない。舌がニブいせいかもしれないが、もともと豆のダシ汁的な味のするコーヒーを、あまりうまいとは思わないせいでもある。


子供の頃は、家の習慣で、いちいち豆からミルで挽くコーヒーしか飲んだことがなかった。

初めてインスタントコーヒーを飲んだのは、大学に入って友達の下宿に遊びにいったときだ。インスタント独特の泥くさい味に驚いて、最初はとても飲めないと思ったが、友達の手前、まさか吐き出すわけにもいかず、我慢してガバガバ飲んでいたら、何杯目かですっかり味にも慣れた。


以来、ず~っとインスタントコーヒーを愛用している。いくつかの銘柄を試してみたこともあるが、多少の違いはあっても、まあどれもだいたい似たようなコーヒーの味だから、わざわざ高いものを買う必要はない。「コーヒーは安ければ安いほどよい」を信条として、いつもいちばん安いやつを選んで買うことに決めている。


ところが、さいきん異常なほど安い海外のインスタントコーヒーが出回りはじめた。このあいだ買ったのは、200グラムで298円という驚愕の激安コーヒーだ。

飲むと、悶絶するほど超マズい。さすがにちょっと気分が悪くなり、あきらめて捨てようかとも思ったが、もうしばらく我慢すればだんだん慣れてくるかもしれないので、今のところまだかろうじて飲み続けている。


もしこのコーヒーにネをあげてしまったら、これまで信条としてきた「コーヒーは安ければ安いほどよい」という結論を、「コーヒーは安ければ安いほどよいのだが、それにも一定の限度がある」に変更しなくてはならない。


せっかく苦労して築き上げた信条に変更をくわえるのがイヤなもんだから、ここ数週間、ひたすら我慢と苦闘の悲しいティータイムが続いている。

晩飯の惣菜を買いに近所のスーパーに行ったら、エスカレーターホールにイーゼルを立て、何十点もの絵を並べて売っていた。

なにもスーパーで絵の販売イベントなんてやんなくていいんじゃないかとも思うが、こういうものに出くわしたときは、(買わないけど)ちょっと見せてもらうようにしている。

 

世界的に有名な物故作家の作品から、いまひとつ出所不明な存命作家の作品まで、洋の東西も問わずやみくもに並べてあった。驚異的にバラエティ豊かなラインナップともいえるし、おそろしく支離滅裂な展示だともいえる。

 

 

見せ玉的な超高額の絵が何点か混ざっている以外、価格はだいたい30万円から60万円程度。裕福な人なら、手が出ないほどの値段ではないのだろう。

 

有名無名にかかわらず、どの作家の作品もだいたいこの価格帯に収まっているのは、ちょっとした仕掛けのおかげだ。有名作家は安価なリトグラフなどの版画、無名作家なら原画をならべることで、売値を一定の範囲に整えてあるらしい。

 

面白半分に眺めていると、黒いスーツを着た女性販売員に話しかけられた。熱心に売り込んでくれる彼女には悪かったが、なにしろ絵を買う金もなければ飾る場所もないから、何も買わずに退散した。

 

 

信頼のおける画廊で絵を買うなら別だが、スーパーでやっている販売イベントなんかには、どこかに薄暗い不透明感がつきまとう。むろんたいていは違法とか不正とまではいえないが、そーとー強引な売り方をする画商がいるのもたしかだ。

 

 

以前、ある画家のジークレー版画(高精度プリンタを使った版画……って、ようはただの印刷だともいえるが)を売るイベントでは、販売員が「これは世界に一点しかない原画です」と説明し続けていた。

 

さすがに奇異に思って「たしかに版画にしては高すぎるけれど、失礼ながら僕には高精度の複製にみえます。作家はこれを手描きしたんですか?」と尋ねてみると、「はい、目を描きました」と答えた。

目? 目ってなんだと思って詳しくきいてみると、正確には画家は目を描いたわけではないらしい。人物や動物の目には、白く光が反射する「キャッチライト」という点がみられるが、刷り上がったプリントに、その点を白い絵具でポチッとつけたんだそうだ。販売員は、その白い点が手描きなんだから、これは版画よりも、もっと価値ある原画なのだ、そう思えば安いものだからぜひ買えと主張していた。

 

たしかに美術品の値段なんて、相場があってないようなものだ。誰が何をいくらで買っても、買い手が満足していればそれでよく、誰からもあれこれいわれる筋合いはない。そのへんはまったく個人の自由だ。

 

ただ、それはあくまで買い手に保証されている自由であって、売り手が好き勝手な売り方をしていいわけじゃない。なのに残念ながら、売り手のなかにはちょっとズルしちゃう人もいるらしいから、スーパーで絵を買うときなんかは、多少は注意したほうがいいだろう。

 

だいいち、スーパーはもともと絵を買う店ではない。野菜や缶詰や惣菜を買う店だ。とりわけ閉店間際には、惣菜パックに赤い半額シールを貼ってサービスしてくれるので、そういう品物を買うには、他に類をみない素晴らしい店だ。

 

半額惣菜なら、買い物に失敗しても絵より遥かに損失が少ないし、なにより絵なんか買うより腹がふくれる。スーパーに行ったら、長々とエスカレーターホールをうろつくのはやめ、惣菜売り場に直行しよう。たいていの場合、そのほうが幸せになれるからである。

窮屈なものを身に着けるのがイヤなもんだから、眼鏡も嫌いだ。視力はあまりよくないが、クルマを運転するときか、絵を見るときくらいにしか要らないから、ふだんはカバンに入れて持ち歩き、必要なときだけかけるようにしている。


ただ、カバンを乱暴に扱うもんだから、中に突っ込んである眼鏡も衝撃でだんだん壊れてくる。何カ月か前から、眼鏡をかけたときに鼻にあたるプラスチックパッドが二つとも取れてなくなり、むきだしの針金になっている。だからこの眼鏡をかけると、どうしてもそこが顔に刺さってめちゃくちゃ痛い。それでもずっと痛みを我慢して使っていた。


先日、たまたま眼鏡をかけないとできない仕事があったので、カバンからその眼鏡を取り出した。鼻あてパッドがとれて痛いのにはもうだいぶ慣れてきていて、すでに覚悟のうえだ。が、それだけでは済まなくなった。


というのは、今度は新たに左側のツルがポッキリ折れ、ぷらんぷらんになってしまっていたからだ。こうなると、いくら痛みをこらえる気力があっても、そんな精神力だけではどうにもならず、もはや物理的に眼鏡を耳にかけることができない。

ちょっと前なら、こんなときでもツルの代わりにパンツのゴムをフレームにゆわえつけてパチンと耳にかけ、当座をしのいでいたものだが、なにしろ急場だけに、手元にパンツのゴムがなくてそれも無理だ。(いや、もしゴムがあってもあまりやりたくはないが……)


しかたなく、残ったツルを片手に持ったまま用を足すことにした。そんなつもりは毛頭ないが、なんだか不必要に気取ってみえるポーズだ。昔、アニメ『アルプスの少女ハイジ』でロッテンマイヤーという怖いおばさんがこんな眼鏡をかけ、やたら高慢ちきな発言を繰り返してハイジをいじめていたのを思い出した。


眼鏡はほんらい単レンズの光学機器なので、外装なんかいくら壊れても、レンズそのものが損傷しなれば、機能面にはまったく支障なく使える。だから見た目を気にしなければ、このくらいの故障ならわざわざ修繕したり買い換えたりする必要はない。


しかし、ここまで構造部の崩壊が進むと、さすがにちょっと使い勝手が悪い。あともうしばらく、誰にもわからない昭和アニメなロッテンマイヤー・コスプレで忍耐を押し通すか、いさぎよく敗北を認めて新しい眼鏡を買うか、まだちょっと迷っているところだ。