やむにやまれぬ大和魂 | ワクワククリエイター久保田友和の2周目の話。

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ゆるいネタばかりですが、あくまでも経て経て経た2周目のゆるさです。お気軽にコメント下さい。

以前、大好きな高杉晋作について書きましたが

今日は、その師「吉田松陰」について書きたい


彼の辞世の句

「かくすれば、かくなるものと知りながら

やむにやまれぬ大和魂」


いやー響きますね

響かない人も5分後には響きますので

ご安心ください




1853年6月3日幕末、鎖国をしていた日本に黒船来襲。







日本震撼!だって当時の日本の船と言えば・・・






手漕ぎ!!!


当時の規模で日本の大型船の20倍のサイズ

そのころの書物には・・


「城がやってくる!」


時はヨーロッパ各国が

アジアを侵略しほとんど植民地に

アジア1の先進国だった中国も

あえなく大敗、

黒船を見た日本人の心境は

「日本がボッコボッコにされる」

と思ったとか



しかしその黒船を見てこう思った日本人がいました。

「俺は乗り込むぜ!」

そう、その男こそ

吉田松陰25歳の春でした


松陰の目的は日本の近代化のため

黒船に忍び込み

アメリカの文明を学んでこようという魂胆

しかし密出国は

見つかれば死刑も十分にありうる重罪!

だけどそれも覚悟の上

さらに日本は鎖国していましたから

外国人なんか見たことないという状況


更に相手は横文字ペリー!



松陰はこの時の心境を兄、梅太郎に

こう手紙で告げています

「海外渡航の禁は

徳川一世のことにすぎない

今回のことは、

三千年の日本の運命に関係する以上、

この禁に思い従うことなんてできなかった」


松陰は一時代の価値観を超え

千年単位の歴史的価値観に基づき

動いたのです


未来の日本人、

そう僕らのために

江戸から長崎まで40日かけて歩き、走り、足の皮がむけてでも・・・


黒船に乗り込むと決意した松陰に

弟子の金子重之輔は行動を共にすることを決意します


そして1854年3月27日2人は

手漕ぎの小舟で荒波の中黒船へ向かうのです


何度か転覆し、

2人ともふんどしを流されてしまいます

そして命からがら黒船にたどり着き

ノーパンで頼み込みます


でも・・・江戸幕府との関係を考えたペリーはそれを断ります


その時のアメリカ側の航海日誌にはこう書かれていました

「二人ともひどく疲れていた」

「その衣服はほとんどはだけていた」

「物腰は至って丁寧で非常に洗練されていた」

「厳しい方を犯し命がけで学びたいという姿勢に感銘を受けた」


「こんな若者がいる日本の将来は、

なんと可能性にあふれ、有望であることか」



そして2人は逮捕され、

江戸の伝馬町の刑務所に送られます。

そしてその後、萩の刑務所に移されます。

その時の警備員の数実に21人!超極悪人扱いです。

そして連行中

吉田松陰が読んだ辞世の句が痺れます。

今一度、心して聞いてください



「かくすれば

かくなるものと知りながら

やむにやまれぬ大和魂」


こんなことをすれば、

僕は捕らわれ、

命を落としてしまう事になるだろう。

でも「日本をよくしたい」という

この気持ちは、やむにやまれないんだ!


この「やむにやまれぬ」が痺れますね


松陰が送られた先は

生きて出た者はいないという牢獄“野山獄”

ここのほとんどの受刑者が

終身刑という夢も希望もない所


多分に漏れず松陰も終身刑、

さすがの松陰も落ち込んぢるはず・・・・・


松陰が入ったのは

1854年10月24日、

しかし松陰はそこから2か月の間に

なんと106冊の本を読んでいました。

そして1月36冊、2月44冊、3月48冊、4月49冊、5月55冊・・・

増えてるw

以後4年間で1460冊の本を読み、

45篇もの著述を書いています。


更に松陰はなんと、

牢獄で極悪人集めて授業を開いてしまいました。

その授業の中で極悪人Aが聞きます

「松陰さんよ、おれたちは牢屋にいるんですぜ。


ここで死ぬんだぜぇ。

それなのに読書したり、

学ぶっていったいアンタ何考えているんだい?」


そして松陰さんがこう答えます


「私たちは囚人故に再び、世に出て、

太陽を拝することができないかもしれない。

例え、学んで、その学が大いに進んだとしても、

世間的には何の効き目もないかもしれない。

しかし人間として必ず持っているものは、

人として、人の道を知らず、

士として士の道を知らないということを

恥ずかしく思う心である。

この気持ちが誰にでもあるならば学ぶ以外ない

そしてそれを知ることが

どんなにわが心に喜びを生じるものか・・・・・・」


つまり、

「確かに僕たちはここから出れないだろう

でも、死のうが死ぬまいが、学ぶしかない

そこに人としての大きな喜びがあるんだから」

と言っています。

それを聞いた極悪人Aと仲間たちも

正座して松陰の授業を受けたといいます。

そして松陰はこんな手紙を牢の中から書いています


「このまま10年や20年牢獄に

つながれていたとしても

それでもまだ僕は50歳だ。

逆襲はそこからいくらでもできる。

だから、獄の中では

獄の中でできることを精一杯する」


かっこいいですね!!!


で、その姿勢が実り

終身刑が解かれ

あの有名な松下村塾を開いていくのです


松下村塾とは?

今の山口県の「萩」という場所で

塾を開きたった1年で79人の若者に

色々なことを教えた塾のこと

門下生には 高杉晋作、木戸孝義、伊藤博文etc・・・

その中で

明治維新後の総理大臣が2人

10数名の大臣、

大学創業者2名を排出

この79人の若者は優秀な人を集めたわけじゃなく

片田舎の若者の集まりであり

歩いて行ける範囲の若者たちだった

その中からこのエリート!!


奇跡の学校松下村塾で

松陰先生は何を教えたのか??

「お前は何のために生まれてきたのか」

「お前の生まれてきた役割は何か」

この2つを

教えてあげたというより

気づかせてあげた


役割に気付いた人は

すごいパワーを発揮する

そんな中こんなことをいう門下生もいました


「松陰先生そんな役割なんてわかりませーん」

松陰先生は何と言ったのか?



「至誠を貫きなさい」



至誠とは・・・

当たり前のことを本気で真剣に誠意をもってやること。

つまり「レッツガムシャラ」

要は仕事でガムシャラになったとき役割が見えてくる



あなたは何のために働いてますか?