愚かな少年
みなさんこんにちは。初めまして、ぼくは長嶋優(ながしままさる)
といいます。どうぞよろしく。
2012年の3月12日、ぼくは最愛の母を亡くしました。
みなさんのご想像通り、東日本大震災の2年ともう一日のことです。
日本中の人が3月11日を決して忘れないように、ぼくはその翌日を永久に忘れないでしょう。
人は「なにかをうしなうことは、なにかを得ることだ」
といいます。そんなのウソだと思います。
母を亡くしたぼくはいったい なにを得たのでしょうか。
それが人生なのかもしれません。
それが宿命なのかもしれません。
命、大事ですよね。
愛する人のためにあきらめないで生きましょう。
いつの日かおとずれる、<奇跡>を信じて。
それでは、女性には引かれてしまいそうな、そしてぼくと同じ愚かな少年達には大爆笑が起こりそうな第1話から読んでください。
第一話
1、 心は伝わるもの
2015年を生きるオシャレでかっこいいい少年が、なにをどう考え、どんな精神で、どれほどの才能を持って、そしてどんな夢をいだいていきているのか?
独身で、子どものいないぼくにはまったくわかりませんが、どうかちょこっとだけお話させてください。
ぼくが小学生だった1980年代、ぼくたち男子小学生には
「これだけは絶対やりたくない」
と思うことがひとつだけありました。
それは、学校での「脱糞」です。
もっとわかりやすく言えば、学校でウンコをすることです。
21世紀という時代にそんなことは絶対無いと、願い、祈りますますが、ぼくの通っていた小学校のトイレは、男子と女子が別々になっていなくて、トイレの入口のすぐ左側に男子用の小便器が4つあり、右側に男子用の大便器のドアが2つ、そして小さな木製の板が中途半端な大きさで仕切られていてその奥に女子トイレがありました。なんかへんですよね。
ですので男子用のドアに入ると、誰もいないことを確認してから入っても、なぜがバレてしまうのでした。
なぜばれてしまうか?
それはドアの一番下とトイレの床の間に5~10センチ位の隙間があって、さらに校則で、上履きの甲の部分に(上履きだけではなく、自分の物にはすべて)名前を書かなければならないというルールがあり、そして男子用便器のドアが閉まっているとと必ず誰かがドアと床の隙間から誰が入っているかリサーチしに来るので、とにかくもう、学校で
ウンコしたい!
と思ってしまったら最後。何度も誰もいないことを確かめてドアを閉めてひっそり(当時は、和式のトイレしかなかったので)しゃがんでウンコをしてスッキリしても、自分がウンコをしていたということがバレてしまっているのでトイレから出る時は恐怖さえ感じるのでした。
そして教室に戻り、自分の席にスッキリした気持ちで座ってしばらくすると、どこかから
「うんこうんこうんこうんこまんうんこまん」
とからかわれ、その後数週間はずっと、うんこまん、と呼ばれる運命にさらされるのでした。
少年時代のぼくはお腹が弱く、もしかしたら神様からの試練だったのでしょうか? 授業が終わりそのあとの帰りのホームルームが終わり、さぁ家に帰ろうと席を立つと、突然、
「やばい、うんこしたい」
と窮地さらされることがほぼ毎日のようにありました。
そうしたことは決してぼくだけではなかったと思います。いやぼくだけではなかったはずです。そうでないと、少年時代のぼくがかわいそすぎます。
なぜぼくがそんなことを言うのか?
それは、文章にするにはあまりにも恥ずかしいからです。そしてあの日のぼくが
「書け」
と命令されてるような気がして、こうして文章にしているわけです。
すみません。
まず「うんこ」
この言葉には誰もができることなら言いたくないと思わせるだけの強烈なインパクトが秘められていると感じられます。
もしこれが「うんち」だったなら、まあ、普通に席を立てます。しかし、 もし誰かと一緒にいるときにうんこをしたくなったします。その時に男同士であれば
「おれ、ちょっとうんちしてくる」
と言われてもそれほどのインパクトはありません。
「おーそうか、トイレに行っトイレ」
と、そんな感じで冗談まじりに言えると思います。
しかし、その相手が女性だったらどうですか?
「わたし、ちょっとうんこしてくる」
と言われたら、心の感じ方、頭の働き方,体の動き方、その他もろもろのことがまったくレベルの違う世界へワープするように
引き込まれてしまうからです。
できることなら女の子にうまれたかった。と、思った少なくはなかったでしょう。
「とりあえずここまでかきました。次回、第一章・その2、でまたお会いしましょう」