私の育った環境を書き止めておきます。

両親、自営業。
大家族の末っ子、父親。
大家族の真ん中、母親。

お金のことで親戚に迷惑をかけて、疎遠になっていた。
昔だから、お金が無くても、その日暮らしでも生きてこれた。
それでも、一際貧乏で、欲しいものは手に入らなかった。
父親は、競艇にのめり込み、いつも借金をしていた。
田舎に居辛くなったのか、姉が居る神奈川へ。
姉=叔母には、幼い頃は保育園まで迎えに来てもらったり、夏休みなどはほぼ遊びに行っていた。
塗装屋(資格も何もない)だったので、雨が降れば休み、仕事が無ければ休み。
何をやるかと言えば、叔母に借金して競艇。
私は、親が休みの時は、競艇場に居ることが多かった。
四歳上の兄貴と、帰りの遅い両親を待ち、食べるものも無いときは、ラーメン屋に付け(借金して)届けてもらった。
それもダメなら、家にある、鰹節ご飯、シーチキン、有るものを探して食べていた。
叔母は、そんな私たちを不憫に思い、大きくなっても良くしてくれた。

そんな叔母には、旦那も息子二人居るが、愛人契約をしている男がいた。
4才の私からみては、とても不思議だった。
どこかへ行くにも、一緒に連れていってくれたり、病院にも行ってくれた。
でも、優しい叔父さんとは、認めたくない自分も居た。

もう随分昔の話にもなるけれど、辛く寂しかった。
友達のお父さんは、会社員でそれとなく不自由なく育ち、お金に苦労してなかった。
虫歯であっても歯医者に行けなかったり、靴や学校で必要なものも、なかなか買えず。
みんなは、こうなのに、なぜ私はこんな??
選択肢もなく、なぜ?
と思うことが多かった。

母の日に、手紙を書くことが有った。
嘘のことを書いた覚えがある。
お母さんへ
いつもありがとう。
いつも遊んでくれて、いろいろと作ってくれたり、嬉しい。などなど。

母親がもらって、どう思っただろうか。
母親には罪はない。
自分一人で仕事ができなく、競艇と酒に溺れて、母親に文句ばかり言っていた、父親が悪い。
毎日、毎日、父親と一緒に出ていき、塗装工として働いて、家の事をやって。
感謝していた。。寂しかったのだと思う。

夫婦喧嘩をして、怒鳴りあいは、ほぼ毎日。
ちょっとのことで、文句。
出されて料理でいちゃもん。
好きな物を食わせなかったら、激怒。
ビールが無いから、買いに行けと、激怒。
こんな父親から逃げた事もあった。

まだ小学生で、母親が手を引っ張り、裸足で叔母の所へ行ったり。
荷物をまとめて、群馬の親戚のところへ電車で行ったり。。

いつしか、父親に反抗、反発心が出てきた。
なんで、離婚しないのだろう。
離婚して、三人で頑張って暮らして行けば良いのにって。
でも、母親は離婚しなかった。。

高校生でバイトをして月に三から五万円位のお金をあてにして、貸してくれといってくる。
借金を頼むのも母親。
毎月、毎月、返しては借りるの繰り返し。
それなのに、父親は、努力しない、飲んだくれ。大嫌いだった。

高校卒業して、就職しろと言われた。
これ以上に、進学するお金は出せないと。
家を出たかったから、夜間の専門学校にいき資格を取り、良いところに就職したかった。
遠くて寮のある会社で、働きたかった。
ダメだと大反対され、その通りにした。
束縛だったんだ。

高校三年生の1月頃に、父親が屋根から落ちた。
骨折だけかと思ったら、大怪我&病気の発覚。
父親が20代の頃に複雑骨折して、ボルトを埋めたが外してない。
そして、暴飲暴食、酒乱で、糖尿病になっていた。
そして、その糖尿病がそのボルトを腐らせ、足が腐り始めてた。
高熱とうめきで、毎日が大変だった。
お金もなく、車の免許証もない母親は、毎日自転車で、父親の病院へ行っていた。
私は、会社に、入社したばかりで、時々しか行けなかった。
家賃や生活費、本当に大変だった。
入院費は、病院に相談して、待ってもらった。。
父親は、そんなときでも、母親に文句を言い続けていた。
お前が、俺の身体をこんなにしてしまった‼️
情けなかった、こんな父親の娘だなんて。

早くこの家を出たかった。