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CDジャケット

ひろこにあげるCDのジャケットを作る。

ひとつ気に入ってないのは、

SIBAのに、pa~o de acucarのモチーフをつかっちゃったこと。

あまりの眠気で失敗。

でも久しぶりの貼り絵で楽しかったので記録しておこう。

CDRのケースって、見た目がつまんなくって、誰かにあげるとなると、どうもそのまんまじゃ気に食わない。今回はケースごとプレゼントするつもりなので、紙切って、貼って、ぶさいくな既成のデザインを隠したってわけでした。

上から、

Seu Jorge 'carolina'

Retana Rosa  'zunido da mata'

As Mu'sicas da Rabequeiros

Siba & Barachinha  'no baque solto somente'

Junio Barreto 'Junio Barreto'

Tine' 'segura o corda~o'

エントリーシート。

昨日の23:45分。人生で3度目の、エントリーシートを郵便局へ持っていった。

一度目は、普通のエントリーシートとちょっと違うけど、金沢のミニシアター。

二度目は、今の職場。

三度目は、高校生のころから憧れてやまない出版社。

ほかにもいくつか書いたことはあるんだけど、結局間に合わなくって出さなかったので、この三度でおしまい。

絶対にここに就職したい、って思ってがんばってたんだけど時間配分をまたもや間違えた。結局、4枚中2枚は走り書き。24:00までやっている郵便局近くのスタバでねばって書いて、23:45、ゆうゆう窓口に走った。

窓口のお兄さんにホッチキスとのりを借り、無事投函終了。

でも、あのバランスの悪い内容と汚い字じゃあ、無理だろうな。

がんばった方の内容を買ってくれないかな。

あーあ。

果報は寝て待てがモットーのあたしなのに、そうもいかない落ち込みようです。

自分のせいだからしょうがないけどね。

かっこわりーなー。

音楽と私(ヴァイオリンを習うということ)

(つづき)

■ヴァイオリン(ヴァイオリンを習うということ)
そんなわけで秘密の習い事は続いた。火曜の放課後になると、「プール今日もだから」とか「英語習ってるから」「そろばんはじめたから」なんつってうそついて、遊ばずに早く帰らないといけなかった。
水泳、そろばん、バトン、習字、英会話、ピアノ、サッカー・・・ほかの習い事はどれもかっこいいのに、ヴァイオリンだけはなんでこんなにかっこ悪いんだろう。 何度、行かないで済ませようとしただろう。

本当に行きたくなかった。レッスンの時間になっても家に帰らずに、そのまま友達と教室や校庭で遊んでいると、毎度母がヴァイオリンを背負って、すごい剣幕で私を迎えに来た。友達にバイバイを言う間もなく自転車のうしろに載せられ、E先生の家まで搬送された。

毎晩の練習もいやだった。毎日20時から21時までが練習の時間だった。20時からのテレビが見たくてしょうがなかったのに。その憂鬱や母に八つ当たりする気持が毎日あった。あてつけの為のでっかいため息(隣の部屋まで聞こえるででっかさ)は毎度だったし、楽器の出し入れや、楽譜をめくるのを、すごく乱暴にしていた(その物音は隣の部屋まで聞こえるでっかさ)。
練習もろくにやらずに適当に雑に弾いて終わり。

そんななかで私は、何度か弓を折ってしまった。いすにどすん、と座った拍子や楽譜を弓でばちんとめくった折に。ざまあみろ、と思った。こんちくしょう、と思った。あーあ、折れたからもう弾かないよ、と言った。
でも、2度目、いや、3度目だったかに、母が泣いた。泣かない母が、声を上げて泣いた。だから、ひどく驚いた。謝らない私は謝って、自分がとんでもないことをやってしまったのだとやっと気がついた。

うちはちっともお金持ちじゃない。でも、ヴァイオリンのレッスンを受けるのはお金持ちの特権じゃないと、母は知っていた。うちの両親はヴァイオリンが本当に好きだったんだ。
毎回のレッスン代や楽器代、楽器の維持費、楽譜代、発表会(アットホームなやつ)への参加費、それらはぜーんぶ、父と母が生活費を節約して、あるいはお小遣いをためて、捻出されたものだったろう。
貧乏ではないにしろ、レッスンにも楽器にも何十万だの百万だ二百万だとかかる世界だから、その苦労と熱意は相当だったと思う。でも両親はそのころ子供の私に、そういうお金の話を一切しなかった。私が「やめたい」と訴えると、「だめ、もうちょっと続けてみなさい」と、必ず言ったのだ。「じょうずね、もうすこししたらおかあさんに教えてね」と、言ったのだ。

その母が、どんな気持でこの弓を買ったと思うの、と泣きながら言ったのだった。
それから、私は弓の持ち方を変えた。弓の先を足で踏んだり床に当てたりしないように、弓は必ず上を向けて持つ。それに、楽譜は必ず手でめくる。あれ以来、弓を一度も傷つけていない。これからの人生で、弓を壊すことは、二度とないだろう。(つづく)

音楽と私(ピアノ、歌、ヴァイオリンE先生まで)

私はいま、「音楽を演奏する」っていうことをどう位置付けているのか。それを理解したい。
そして、そのためには、今までの人生で自分と音楽はどう関係していたかを順番に思い出して書く必要があると思うので、とりあえずは音楽体験を書こうと思う。
※ここに書いているとはいえ、読んでて面白い内容ではないです。ごめんなさい。(紙に書いてみたもののまとまらなかったのでこちらに書くことにしたのです)

■ピアノ
2歳くらいから。母にピアノを習い始める。といっても、短い指でなんとなく「ありさんとありさんがごっつんこー」的なものを弾いていただけ。
母に指示されるのがなんとなく癇に障り、間違いを指摘されるたびヒステリーを起していたので、指番号なども全無視。ちっとも巧くならない。小学生低学年くらいで母も指導を諦める。
それからピアノは、好きな時だけ好きな風に好きな曲だけ弾くジャイアンの歌級のわが道ピアノ。

■歌
大好き。自分はちょううまいと思っていた。学校の音楽の時間では、お手本に歌わされることが多かったので、自信があった。学校では、人前で歌ったり笛吹いたりするのが大好きだった。
シンガーソングライターになりたかった。父にある日の朝布団の中で「大きくなったら何に成りたいんや」ときかれ、テレながらそううちあけたら激怒された。「おまえになれるわけがないだろ、じゃあ今すぐ弾いて歌ってみろ、ほら、どうした」と布団の中で揺さぶられた。
大勢の人の前、つまり学校の授業や学芸会とかでならできるが、たった二人の親の前ではのびのびと劇や音楽といった表現をできない子供だった(非常に恥ずかしかった)から、父の「やってみろ」は本当に無理な話だった。「おとうさんとおかあさん以外の人たちの前だったらできるもん」と思ったが、そう言うとさらに怒られるとわかっていたので、ぐっと耐えた。
それから、夢とかそういう類の事は黙っておこうと決め、シンガーソングライターへの夢は、大事に胸に秘めておく事にした。親の留守に、エレクトーンで作曲したり歌ったりしたものをテープに収めたりしたが、駄作ぞろいだった。でも、いつか・・・と思い、ひそかに録音のボタンを押す事をやめなかった。

■ヴァイオリン(E先生)
6歳から。バイオリンを始める年齢にしては6歳は遅いほうだから、小学校高学年くらいにはすでに「自分はいくら頑張ってもヴァイオリニストにはなれない」と割り切っていた。
最初、誰に師事するかということでいろいろあって、結局近所の若い女の先生に習い始める。3年間だけその人に教わっていた。レッスン一日目をよく覚えている。3階の薄暗い洋室で、一人じーっと待っていたら(数十分に感じた)、先生が遅れて入ってきて、何がなにやらわからないうちに始まって、終わった。
個人の音楽教室をやっている先生に、「先生のとこでは発表会どうしてますか」と聞けば、大体その先生の性格や音楽への態度が分かる気がする。私のE先生は、会場を借りてドレスを着て、というような派手で大掛かりのいわゆる「発表会」は催さず、クリスマスに生徒や友人の家の一室を借り、ホームパーティタイプの演奏会を行う先生だった。そのポリシーは、私にとって本当にやっかいなものだった。「アットホームに気軽にやりましょう」という意図だったと思うが、気軽どころか非常に息苦しい地獄のような空間だった。
あがり症の私にとっては人前でヴァイオリンを弾く空間として、その会場(だれかしらない人んち)は最低だった。部屋が狭いため観客(親たち)との距離が短く、ステージがないため子供の私と座った客と目の高さが同じで、やたらとじろじろ見られている気がした。
さらに、人の家なのでその部屋を勝手に出入りしたり、トイレを占拠して時間を潰したりすることができない。
息苦しい部屋に閉じこめられて休みなく緊張していたし、人見知りや勝手のわからなさなど(演奏の後、聞いたこともないようなゲームをさせられたりもした)からくるストレスは、すさまじかった。その日の晩吐いた。
そんなふうに、学校では勉強が出来て足も速くていばりんぼうのあたしが、ヴァイオリンの世界では終始、他の誰にも打ち負けるような、だまりんぼうの顔の赤い恥ずかしがりやのもやしっこでしかなかった。

小3くらいのとき、学校のお昼のテレビ放送でヴァイオリンを弾いた(録画放送だった)。週に一度の特技披露のコーナーに出る為に、放送室の前に置かれた箱に、自分で出演希望の紙を入れたのだった。そして数日後の放課後、メヌエットなど二曲がカメラに録画されたのだった。私は学校の中ではもやしじゃなかった。ヴァイオリンを弾いても、学校の中でなら、おどおどせず胸を張れる気がしたんだ。
でも放送当日が近づいてきたら突然はずかしくなって、当日になったら本当に学校に行くのがいやになって、ずる休みした。
翌日友達に「昨日お昼の放送見たよ、すごいね」って言われたけど、「え、そんなのでてないよ、別の人ジャン」的な意味不明の無駄な嘘をつき、友達はそれ以上私に何も言わなかった。いや、言えない雰囲気を私はばしばし出した。「すごいね」って言葉が、「あんたとあたしたちなんか違うね」っていわれている気がしたのだ。仲間外れにされる気がした。それっきり、自分がヴァイオリンを週一回習いに行っている事は口に出さなくなった。高校生になるまで、黙り通した。
(つづく)

時差ぼけ

ひどい時差ぼけです。

でもブラジルのせいで、だめな人間いなったとだけは思われたくないので、だらしない行動はなるべく避けようと思っています。
しかしながら、会社にいくのがほんとうにめんどくさい(というか昼間眠たい)。

がんばろー。

荷造り。

たいへんだ。
金曜から二週間、福岡に出張になった。
マンスリーマンションに泊まる。ホテルに気持よく泊まるわけではないため
それなりの用意をしなくてはいけない。
なんにもしてない。

そして福岡から帰ってきて翌日からブラジルに発つ。
用意・準備をまちがいなくできるだろうか。
あたしのことだからなあ。ぎりぎりまでなんにも動けなくて
慌てて忘れ物いっぱいしそう。

心配だ。心配だー!

とりあえず、できることからしておこう。
やるっす。荷造り。

おばちゃんの誕生日。

今日は神戸のおばちゃんの誕生日。
おめでとう、おばちゃん。
あいにく雨だけど、今から洗濯モノを干してから
おいしいケーキを買って、おばちゃんちにいってくる。
バイオリン弾いたり、冬ソナ見たりして、過ごそう。

大江健三郎

興味がある。大江健三郎の書くもの、思うことについて。

私は、一年に一人や二人の作家に心酔する(作品を通してその人に心酔する)のだが、
今回も「あらま、きたな」とにやりとしている。いつものことなので、こういうときは今まで読んでいた本は全部後回しにして、その人のものに集中し始めることにしている。ことに、大江健三郎は、今まで何度読んでも面白いと思うどころか、腹が立つ事があったほどなので、その自分の変化が面白いということも含め、今回は本当に深くはまっていく予感がする。
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うまく説明できないがなんとかして言葉にしたい事柄というのは、常に頭の壁にこびりついていて、なかなか離れがたいものである。何かあるごとにもやもやと膨らんできて、頭をいっぱいにする。

そんな事々を頭に溜め込んでいる日々に、ある本のページをめくったあるとき、それを書いている人が同じ目標(同じ感情やモノのつながりを言葉にすることなど)を持ち、心地よい言葉で見事にそれを説明しているのに出会うことがある。

私はその一文を読んだ途端その人を尊敬し、その言葉を好きになり、心から信頼をするようである。その人がなにを言うか、その人がどんな言葉を使うか、どんなふうに説明をしてどうやって悩んで、楽しんで、生きているか。気になる気になる、気になる。憧れる。
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おこがましいのを自覚した上で書くが、大江健三郎は、私が文章を書くときの悩みや癖と同じものを持っていた(今も持っている)ようである。しかし彼は、年を重ねた今、それを楽しんでいるようでもある。「ぼくはそういう書き方をするから」といい、「そんな無駄な作業はやめたらいいといわれても、面白いというか、自分で自分に感心することがあるから、これでいいんだ」という。

私も、自分の考えや文章をエラボレートすれば、こういう老年になれるんだろうかと、憧れている。努力しようと、しずかに思う。

会社員としての自分

以前「変化について」を書いたとき、
「会社のことには、人事のようにまったく関心がない」
と言うような事を言った。

なんてカッコ悪いこと書いてんだろうと思いながら、ここには正直な気持を書きたいのでそう書いた(ここにまでカッコつけて書いてたら、そのうち正直な気持のほうを忘れるに違いないから)。
だけど、ちかごろ、「会社のこと」が面白い。

今、例の組織変更の移行期間で暇だから、
取り扱ってる商品や、その周辺の世界に関する勉強会をたまに行う。
(私の部署みんなで)
上司が先生。先生もものすごく準備して教えてくれるし、
わかりやすい。優しいなあ、私達のために・・・などと思う。えへ

今まで興味がない故にか、曖昧だったことが、全部明らかになったし、
みんなにも分からないことが、私と同じように(私よりはるかに少ないけど)あるんだなあと知った。

そしてなにかしら当り前に使っていたものや、知ったかぶりしながら横目で見ていたものの「仕組み」がわかるってこんなに面白いんだ、って思った。
勉強の醍醐味ですな。

というわけで、少なからず興味が出たし、
自分のいる意味も少しは感じられるようになったような・・

もうちょっとがんばってもいいかな。

朝帰り。

親友と、14時に待ち合わせて、大雪の中ドライブ。

能登高速道路にのって、羽咋市まで行く事に。
途中道の駅に降りて、新雪を踏み踏みぶるぶる震えながら、自分たちのじめっとした性格と、ふるさとの天気と風景の関係について話合い、「しょうがない!」と大笑いする。東京の友達にそれを報告した。電話してる間中、あんまり寒かったから、ばたばた小刻みに足踏みしてたけど、そのせいで雪まみれもなった。

中学以来2度目の気多大社に来た。迷ったので着いたのは16時半だった。
おみくじを二枚ずつ引き、どちらにもけちをつける。木には結び付けずもって帰って来た。普通のおみくじと、恋みくじを引いた。お宮の手前脇に据えられている恋みくじコーナーには、その壁いっぱいに、若い子たちの「願い事」が重なるようにして書かれてあった。必死でかわいくていじらしい言葉が丸くひたむきな字で、あるいは太く乱暴な字で重ねてあった。親友と、私たちもこんな子だったと言い合った。こういう、誰か知らない人が大勢見るだろう木の板や壁には、自分の心内をこんなにも書きたくなって、建前交じりだとしても(※建前・・・例「○○ちゃんもあたしも、素敵な恋が出来ますように」みたいな。「○○ちゃんもあたしも、」が余計だ)願い事としてなら恥ずかしい事だって書けるのに、肝心の恋の相手には全くうまく言えない。いえないが故に、言わなくてもいいような気になってしまう。
真っ黒に願い事が書き重ねられた神社の恋みくじコーナー。すこし不気味なほどである。北陸の子の性質なのか、それとも全国の中高生が皆あんななのか、私にはわからないが、そのときは、その閉塞した気持の発露のさせ方と、ここの気温や天気や灰色の景色や美しく冷たい雪の空との関係を感じずにはいられなかった。

気多大社で恋のはなしを長いことしすぎたので、次の寺を見つけるのが遅くなった。私たちは、すでに拝観時間の過ぎていた妙成寺にこっそり入った。誰もいない真っ白の日蓮宗の寺院にたたずんだ。法華経。五重塔や本堂や像や、色々の造詣がかっこいい寺だが、その風景で一番私の心を打ったのは葉を落とした木木だった。何の小説か忘れたが、「冬の木は、あれは生きているのね、枯れて死んでいるのではなく、あの枝の先まで命がみなぎっているのね」というような台詞を思い出す。本当にそう思う。木を見ていると、自分も生きているのだと思った。眼前の木の根が今まさに水を吸い上げているように、私も決して枯れてはいないのだ。生き生きした自分の心の動きを感じた。目がすっきりとものを見られるようになった気がした。
私の隣でインド旅行帰りの親友は、「まだこの冬のお寺のなかにいて、しっくりいかない、なんだかここに溶け込めなくて気持よくない」と言っていた。
私は、寺に「溶け込んだ」経験がないので(いつも寺に入れば私はストレンジャーである)「ふうん」と言ったが、木の生命を感じた瞬間から、私はお寺というか、そこの場所にありがとう、ありがとうと心で思っていた。自然と山の方(寺の一番上の方)へ向けて手を合わせる気持になった(そんなこと滅多にしない)。

そして、薄暗い中、停めた車のなかで体が温まるまで二人でクリスタルケイを歌いまくり、暗くなってから出発し、海へ。千里浜を走る。暗い冬の海の音はすさまじく、砂の上を走るタイヤのはずみがおしりに伝わる。

そして、そのまま高速にのって金沢にもどり、夜のライトアップがされた金沢城へ。敷地内から白い城を眺めた。なんて無駄のないデザインなんだろう。私は、日本一ここの城が好きだし、誇りに思うし、憧れる。自分がこういう存在、たたずまいのものになりたいと思っていると気が付く。
ベンチに座り、また恋の話。

寒さに震えつつ、今度は湯湧温泉へ。しかしタッチの差でのれんをしまわれていたので断念し、家の近所まで20分ほどかけて帰ってきて小学生の頃からちょくちょく通っている銭湯みたいな温泉に行った。着くと、もう11時半になっていた。私達が女風呂で最後の客だった。頭からゆげをあげながら彼女はミルミルを飲み、私はジョワを飲んだ。

再び車に乗り込み、ふろあがりのさっぱりした気持で、家の裏の山を上がったところにある大乗寺へ。修行僧がいる禅寺だから中には入らないが、車の中から大乗寺の空気を味わう。ここなしに私と私の家族の毎日は語れない。20年前から我が家の(正しくは父の)散歩コースであり、子どもの頃この山で気持も体も鍛えられた。

風呂と大乗寺の空気で気分もすっきりし、私はそろそろ帰りたくなってはいたが、話たりないという彼女と、ファミレスへ行く事にした。
サラダとスープを頼む。たまにメロンソーダを飲んだりもした。
音楽家の彼女と、音楽家になることを諦めた私は、二人で、音楽の話をした。
整理はされなかったが、ひとつひとつ、なにか今までちっとも答えが出せなかった事々に、原因や考え方の提案を貰った。整理ができなくなるほど、面白い経験だった。早く帰って、考えをまとめたかったし、文章に書き留めたかった。
でも、彼女の話は止まらず、私はどんどん眠たくなって考えがどんどん狭くなっていった。一生懸命考えていた事を、次の瞬間にすっぽり忘れたり、しはじめた。
もったいない、もったいない。もうだめだ。だから、帰るね。。ねぶたい(眠たい)
と白状し、家の近くまで送ってもらう。午前4時。雪は深く積もってやんでいた。

明日夕方、湯湧温泉にいこう、とゆるく約束をし車を降りた。家まで走って帰り、そーっと鍵をあけ、家に入る。パジャマに着替えふとんの中へ。夢を見ても見ても、夢の中で私は引き続き彼女と話していて、正直ちょっと疲れた。彼女とは私は一生懸命考えて、話すから。柳美里の言い方に倣うが、彼女という親友は、私にとってのスフィンクスのような人。とても難しい問いかけをする。
私へストレートに、「どう思う?」「そうでしょう?」と聞く事もあるが、そんな疑問符を使わずに、会話しているなかで会話の相手である私に「私の考えとは一体どんなものなのか」と必死で考えさせるような威圧を持っている人である。まだ人間になってない、動物のような人で、しかもここ数年で、どんどん人間になっている。まさに芸術家なんだろう。

そうやって、寝ながらもそうやって私は緊張していた。

朝(昼)起きて台所に行くと、父が微妙に怒っていた。
どうも、○ちゃんと遊んでくる、と言ったにも関わらず、父も知っている仲良しの男友達と私が朝まで遊びまわっていたと勘違いして「あいつ(男友達)は七(私)のなんや」と母に怒りまくってたらしい。やきもちだ。かわいい父だ。
誤解は解けたが、親友と湯湧に行くのはやめ、父母と一緒に、もっと山の上の方の別の温泉へいった。
のんびり。親と温泉のおかげでスフィンクスにかけられた石の緊張はとけた。でも、夜中のファミレスで頭がフル回転しながら考えてたことの半分は、あまりの眠気のせいで忘れてしまっていた。

音楽と私。この題で、そのうち書くつもり。ゆっくり考えをまとめ、テーマを分けて、少しずつ書いておこうと思う。自分のことが、自分のやるべきことがもっと、わかる気がする。