第二次上海事変勃発後、1937年12月13日の日本軍の南京入城後について、同城内に残留していた米国人宣教師(南京大学教授)マイナー・シール・ベイツは、多くが兵士の、数千人が連行され撃たれた、という認識を持っていたが、兵士を少なくしようとしたり、死者数を1万人以上に引き上げようとしたりし、1938年1月10日付の手紙に「1万人以上の非武装の人々(More than ten thousand unarmed persons)」と記し、同年3月以降は、1万人以上の市民の死者があったと記述、発信した。
また、極東軍事裁判においては、日本軍入城後の南京における死者は20万人から30数人万とされたが、ベイツは、複数の他の当時南京に残留した米国人宣教師らとともに、これに付き合い、そのための文書やそれにおける発言において、以前の記述の内容を省略したり、それと異なる内容の発言をするなどした。
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第二次上海事変勃発後、1937年12月13日の日本軍の南京入城後について、同城内に残留していた米国人宣教師(南京大学教授)マイナー・シール・ベイツは、本質において異質、程度において過大な記述や報告を試み、また行った。
南京は四方を10メートルを超えるような壁に囲まれた城壁都市であり、1927年に国民党により国民政府の首都とされ、事変前には100万人を超える人口があると言われた。日本軍の入城時には、電気、水道、郵便などは止まっており、市長などもいず、多くの場所でひと気はなく、20万人と伝えられた市民の殆どと、28人の欧米人が、城内西方に設けられた非戦闘員のための避難区域に集まっていた。
城壁周辺における戦闘は12月10日昼ごろに開始されたが、12日夜、司令官が脱出し、民国軍は撤退した。その後、脱出しなかったかできなかった、少なくとも数千人の兵士が城内に残留し、その殆どは、軍服を脱ぎ、市民服に着替え、非戦闘員のための避難区域に入り込んだとされる。
ベイツは、多くが兵士の、数千人が連行され撃たれた、という認識を持っていたが、兵士を少なくしようとしたり、死者数を1万人以上に引き上げようとしたりし、1938年1月10日付の手紙に「1万人以上の非武装の人々(More than ten thousand unarmed persons)」と記し、同年3月以降は、1万人以上の市民の死者があったと記述、発信した。
また、極東軍事裁判においては、日本軍入城後の南京における死者は20万人から30数人万とされたが、ベイツは、複数の他の当時南京に残留した米国人宣教師らとともに、これに付き合い、そのための文書やそれにおける発言において、以前の記述の内容を省略したり、それと異なる内容の発言をするなどした。
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