人口

 

残留欧米人は1937年から1939年まで人口は20万人ほどと記した。また殆どは城内の一画に設けられた避難区域にいたと記した。

1946年の極東軍事裁判ではウィルソンは50万人未満と述べ、マギーは避難区域に20万、城内の区域外に少なくとも30万人と述べた。

 

また、極東軍事裁判における人口についての扱いは、弁護側が人口について20万と述べ、裁判長らがそれに応じず、判決において50万未満と述べられた、というものだった。

 

まず、1946年の検察側の立証のときに弁護側により人口の話がなされたが、それは裁判長に退けられた。

[1946年の検察側立証の際のやり取り]

〔…〕二人のアメリカ人弁護士から、〔…〕当時の南京の人口は二十万人だったのではないか、という点について申し立てを行ったが裁判長は、「〔…〕、南京人口の件は後刻弁護側立証段階で立証すべき事柄であって、今申し立てるべき事柄ではない」とこの申し立ても却下した。

1948年に弁護側は最終弁論の付属書において人口20万ということについて記した。

[1948年の弁護側最終弁論の付属書]

〔…〕当時、南京市内の住民が二十万前後であったことは検察側証拠によっても明らかであり、住民の大部分が生存していたことは検察側証拠が示している。

同年の判決においては事変前の100万人の人口の半数、すなわち50万人以上が避難したと述べられた。

〔…〕百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するため残留した少数の者を除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。

判決におけるこれは、残留人口20万人とは述べられず、かつ50万人とも述べられないなかで、このように述べられていると思う。

 

 

 

ベイツの記述、発信

①1937年12月-1938年1月

②1938年3月以降

③、④1946年-1948年、極東軍事裁判

 

 

ベイツの認識はおそらく、死者は数千人、多くは兵士、というものだった。

①12月-1月には、大台認識から死者を1万人以上と記したり発信したりした。また、兵士は一部だったと記したり、unarmed personsという言葉で兵士と市民を合わせて記したりした。

②3月以降には市民死者1万以上、1万2千と記された。6月完成の冊子では城内と城壁隣接地域の埋葬からの見積もりによれば1万2千人の市民がkilledされたと記され、11月の手紙ではその9割が城内と記された。

③1946年の極東軍事裁判における発言では、安全区(避難区域)とその隣接地域を調べ、1万2千人が城内でkilledされたと結論したと述べられ、また、城内で他にmany others、城外で他にlarge numbersがkilledされたと述べられた。

④1948年の判決では、最初の2、3日に1万2千人の市民死者があったと述べられた。

 

②と③について、1万2千人の市民死者とした調査範囲は、1938年には城内と城壁周辺だったが、1946年の発言では、避難区域とその周辺へと狭まっており、またその外にmany othersとlarge numbersの死者があったと述べられている。