新年。
始まりの年だ。
さきほど、論文を提出して、3年間の、ここでの課程はおよそ修了しました。
最近感じるのは、
「書かなくても平気になった」
ということ。
中学生の時からずっとずっと、文字にするということに執着してた。
依存していたと言ってしまってもいい。
書くことへの意欲は、
《現在を固定したい》という、変わっていくことへの恐怖
と結びついたものだったのではないかと思う。
いま浮かんだ想いが、消えてしまう、恐怖。
その一言、語の連なりを、留めておかないと、今の自分が一瞬先にはいなくなる、恐怖。
ようやくわかってきたのは、「大丈夫だ」ということ。
色んな波を経て、自分は変わっていく。
それでも、変わらないことはある。
そして、繰り返し繰り返し考え続けるテーマがある。
揺らぎ、自分との会話。
常に、過渡期にある自分に、点を打って記録することよりかは、
明日の自分にまた聞いてみよう。と思うことが増えたのだ。
「結論は出ない」ということを認める。
そういうテーマこそ、ずっと考えていきたいもの。
簡単に「終わり」にしてはいけない。
固まったら、それこそ終わりだと思う。
そんなのはつまらない。
「もしかしたら明日、死んでしまうかもしれない」という仮定が、
年齢を重ねるごとに、「きっとそんなことは起こらない」という方に寄っていく。
続きはまた明日、という止まらない思考をずっと引いて行きたい。
締切の直前まで、創り続けてしまうというのも、そういう前向きさの表れかな、なんて思っているんだけど。
善悪や正誤についてずっとずっと考えていこうと思う。
誠実に。生真面目に。そして、穏やかに。
2014年。
テン年代はほんと、SF感。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
生きることの3分の1ぐらいはご飯を食べることに費やしていると思う。
ここ最近は、炭水化物中毒のフェイズ。
美味しいお粥が食べたい。パン屋さんの食パンが食べたい。パンケーキが食べたい。などなど。
「ほんとは、炭水化物は食べなくていいんだよ」なんて言説も目にするし、減らせばいいのかななんて不安にもなる。
でも、頭を使えば大丈夫なんだよ、という根拠の薄い反論。
食事の核が、お米であった幼いころからの習慣に纏わる感情の問題。
一食の終わりは、一膳のご飯を食べ終わること。
だったのだ。我が家の食卓では。(少なくともわたしの認識ではそうだった。)
その前に席を立つことはできなかった。
大皿に盛られたおかずをどれだけ食べるでもなく、
お味噌汁を飲み干すでもなく。
目の前に盛ってもらったご飯をなんとかして食べきること。
そしたら晴れて、茶の間に行って子ども向けのテレビ番組を見てもいいよということになる。
(お勝手のテレビが映すのは、基本的にNHKのニュースだった。メインコンテンツは天気予報。)
だからやっぱり、今でもその感覚は、強く残っていて、主食がない食事はどうしてもすわりが悪い。
アルコールを摂っていても、ちゃんとご飯も食べたい。という感じになる。
*
食べたいものを、食べる。
ということが、自分にとってとても大切なこと。
「食べたいものが分からないとき」
自分は参ってるんだなあ、と軽く分かる。
「○○が食べたい」っていう気持ちは、色々な感情を内包した、凄く自分の内面をした言葉。
自分を捕まえるのに役立つ。
家族と暮らしていると、作る料理が保守的になる。
「またあれ作ってよ」、から嵌まり込むルーティーン。
人に食べてもらうからには、失敗しないことがとても大事。
世代も違う人たちだから、無難であることも大事。
家庭の食卓は、ワンボウル、終わり!では何だか不十分な気がして。合わせ方をもごもご考える。
一汁三菜ぐらいを目指して、お皿をならべてみる。
それでも、まだ、おばあちゃんの料理もお母さんの料理も、手札になっていないから、手数が足りなくてフラストレーション。
ふと、ひとり暮らしに戻りたく感じるのは、そんなとき。
トライアンドエラーで、一品ずつ上手になりたい。
惰性じゃなく、今日のご飯とちゃんと向き合いたい。
そんな気持ちになったとき。
美味しいものを時間をかけて捕まえてみたい。
レシピの本でも買ってみようかしら。
わたしの作るものは、継承によるものではなくて、
おばあちゃんの味は、絶える。そしてそれから、わたしがまた新しくそれらしく始める。
そんな風になる。伝統を軽くあしらって、しまっていいのかしら。
でも、バトンを貰っていいタイミングがわたしには分からない。
おばあちゃんの味は、おばあちゃんが作るから、おばあちゃんの味だ。
魔法みたいに毎年変わらない。お漬物や煮付け、蕗味噌、苺ジャム。
その秘密を、わたしはまだ、知りたくない。
*
料理をする人になって初めて
自分の作ったものを食べてくれる人がいるしあわせも、
自分のために作ってくれる人がいるしあわせも、
ちゃんと分かるようになった。
ひっくり返し損ねたパンケーキも、
どう考えてもしあわせ。
ここ最近は、炭水化物中毒のフェイズ。
美味しいお粥が食べたい。パン屋さんの食パンが食べたい。パンケーキが食べたい。などなど。
「ほんとは、炭水化物は食べなくていいんだよ」なんて言説も目にするし、減らせばいいのかななんて不安にもなる。
でも、頭を使えば大丈夫なんだよ、という根拠の薄い反論。
食事の核が、お米であった幼いころからの習慣に纏わる感情の問題。
一食の終わりは、一膳のご飯を食べ終わること。
だったのだ。我が家の食卓では。(少なくともわたしの認識ではそうだった。)
その前に席を立つことはできなかった。
大皿に盛られたおかずをどれだけ食べるでもなく、
お味噌汁を飲み干すでもなく。
目の前に盛ってもらったご飯をなんとかして食べきること。
そしたら晴れて、茶の間に行って子ども向けのテレビ番組を見てもいいよということになる。
(お勝手のテレビが映すのは、基本的にNHKのニュースだった。メインコンテンツは天気予報。)
だからやっぱり、今でもその感覚は、強く残っていて、主食がない食事はどうしてもすわりが悪い。
アルコールを摂っていても、ちゃんとご飯も食べたい。という感じになる。
*
食べたいものを、食べる。
ということが、自分にとってとても大切なこと。
「食べたいものが分からないとき」
自分は参ってるんだなあ、と軽く分かる。
「○○が食べたい」っていう気持ちは、色々な感情を内包した、凄く自分の内面をした言葉。
自分を捕まえるのに役立つ。
家族と暮らしていると、作る料理が保守的になる。
「またあれ作ってよ」、から嵌まり込むルーティーン。
人に食べてもらうからには、失敗しないことがとても大事。
世代も違う人たちだから、無難であることも大事。
家庭の食卓は、ワンボウル、終わり!では何だか不十分な気がして。合わせ方をもごもご考える。
一汁三菜ぐらいを目指して、お皿をならべてみる。
それでも、まだ、おばあちゃんの料理もお母さんの料理も、手札になっていないから、手数が足りなくてフラストレーション。
ふと、ひとり暮らしに戻りたく感じるのは、そんなとき。
トライアンドエラーで、一品ずつ上手になりたい。
惰性じゃなく、今日のご飯とちゃんと向き合いたい。
そんな気持ちになったとき。
美味しいものを時間をかけて捕まえてみたい。
レシピの本でも買ってみようかしら。
わたしの作るものは、継承によるものではなくて、
おばあちゃんの味は、絶える。そしてそれから、わたしがまた新しくそれらしく始める。
そんな風になる。伝統を軽くあしらって、しまっていいのかしら。
でも、バトンを貰っていいタイミングがわたしには分からない。
おばあちゃんの味は、おばあちゃんが作るから、おばあちゃんの味だ。
魔法みたいに毎年変わらない。お漬物や煮付け、蕗味噌、苺ジャム。
その秘密を、わたしはまだ、知りたくない。
*
料理をする人になって初めて
自分の作ったものを食べてくれる人がいるしあわせも、
自分のために作ってくれる人がいるしあわせも、
ちゃんと分かるようになった。
ひっくり返し損ねたパンケーキも、
どう考えてもしあわせ。
かんがえごと。かんがえごと。

花の写真を見せたとき "like" は女の子の反応が圧倒的。
その好みの差は、sexなのかgenderなのか。どうなんだろうな。
男の子が、花の美しさが分からないとか、そんなことはないと思うんだよ。
でも、だからって私が機械のかっこよさにどこまで心酔できるかというと、ちょっと自信がないんだけど。
振り返ってみて、私は、あんまり女の子になれって育てられなかったような気がする。
台所に立ったり、お茶を出したりは、おばあちゃんから当たり前に引き継がれたけれど、そのスキルは私にプラスだから別に抵抗はない。
男の子だったら奪われてしまう機会だから、逆に弟がかわいそうと言っていいくらい。
姉だからかもしれないけど、男の子を追い越すな、一歩下がれ、とは言われないかった。
弟は祖父母から発破掛けられてたみたいだけど。女に負けるなって。
友だちが、兄妹で、お兄さんからマニキュア禁止!とか、おしとやかに!とか言われたって話を聞いて吃驚する。
兄妹で、妹にそのように言ったという話も聞く。
私は弟の振る舞いに対して「こうしろ!」というような干渉をしたことがない。…たぶんね。
女性性が作られていく過程。
あんまり、これまで経験したことがないので、今になって面食らうことが多いんだよね。
女の子だけに聞く「得意料理は?」って質問とか。裁縫をお願いされるとか。
そういうところ、プログレッシブじゃないと、ちょっと無理だ。
大学の授業で柔道をとりはじめた女の子が、とても楽しい!と言っていた。
そういえば、私は、武道の経験がない。必修になったからこれからの子どもたちは、全員経験するだろう種目。
人を投げたことも、竹刀で打ったこともない大人は絶滅危惧種。
やりたいか、といわれればちょっと微妙なんだけど、「できない」というのはどうにも心許ない。
やっぱり、適切な、戦い方を知っておきたいところではある。人を傷つけないために、だ。
それを、女子から意図的に切り離していたこと、当たり前に男女別が成り立っていたこと。不思議だ。
人の中には、女性性も男性性も両方必要なんだと思う。
というか、女性性・男性性というラベルの中身はもっとニュートラルな人間の一特性。
それを恣意的に、価値づけ意味づけしてまとめあげたものだと思う。
そんなものを人に押し付けたりしない人になりたいなと、これからの子どもと向き合うにあたり、思う訳なのです。
あなたが、美しいと思ったものに、美しいと言っていい社会。
あなたが、愛しいと思ったものに、愛してると伝えられる社会。
あなたが、苦しいと思ったものからは、全力で遠ざかっていい社会。
そういうのが、いい。それを曲げていい力なんて、どこにもない。
私は一緒にいる人に共感性を求めるから、同じものを見て、「綺麗だね」って言えたら、それがやっぱり嬉しい。
ばらばらに育って、寄り添うことを学ぶというのもいいけど、
そんな、双極じゃなくていいんじゃないかな。全ての点が、コンティニュアムだと思うんだよ。
もっと、色々でありたい。多様でありたい。それが、願い。
余計な、色つきの線引きに、消しゴムをごしごしかけて薄めていきたい。
筆圧が強い線ほど、実は、要らないんじゃないの?
*
君とうまく合うこと。それで十分だ。:)
バランスはふたりで決めたらいい。
君とだから、
安定した部分もあって
不安定になった部分もあるから
±は0かもしれないけど、今の状態を好ましく思う。
君に割く心なら、使う頭なら惜しくないかなって。◎

花の写真を見せたとき "like" は女の子の反応が圧倒的。
その好みの差は、sexなのかgenderなのか。どうなんだろうな。
男の子が、花の美しさが分からないとか、そんなことはないと思うんだよ。
でも、だからって私が機械のかっこよさにどこまで心酔できるかというと、ちょっと自信がないんだけど。
振り返ってみて、私は、あんまり女の子になれって育てられなかったような気がする。
台所に立ったり、お茶を出したりは、おばあちゃんから当たり前に引き継がれたけれど、そのスキルは私にプラスだから別に抵抗はない。
男の子だったら奪われてしまう機会だから、逆に弟がかわいそうと言っていいくらい。
姉だからかもしれないけど、男の子を追い越すな、一歩下がれ、とは言われないかった。
弟は祖父母から発破掛けられてたみたいだけど。女に負けるなって。
友だちが、兄妹で、お兄さんからマニキュア禁止!とか、おしとやかに!とか言われたって話を聞いて吃驚する。
兄妹で、妹にそのように言ったという話も聞く。
私は弟の振る舞いに対して「こうしろ!」というような干渉をしたことがない。…たぶんね。
女性性が作られていく過程。
あんまり、これまで経験したことがないので、今になって面食らうことが多いんだよね。
女の子だけに聞く「得意料理は?」って質問とか。裁縫をお願いされるとか。
そういうところ、プログレッシブじゃないと、ちょっと無理だ。
大学の授業で柔道をとりはじめた女の子が、とても楽しい!と言っていた。
そういえば、私は、武道の経験がない。必修になったからこれからの子どもたちは、全員経験するだろう種目。
人を投げたことも、竹刀で打ったこともない大人は絶滅危惧種。
やりたいか、といわれればちょっと微妙なんだけど、「できない」というのはどうにも心許ない。
やっぱり、適切な、戦い方を知っておきたいところではある。人を傷つけないために、だ。
それを、女子から意図的に切り離していたこと、当たり前に男女別が成り立っていたこと。不思議だ。
人の中には、女性性も男性性も両方必要なんだと思う。
というか、女性性・男性性というラベルの中身はもっとニュートラルな人間の一特性。
それを恣意的に、価値づけ意味づけしてまとめあげたものだと思う。
そんなものを人に押し付けたりしない人になりたいなと、これからの子どもと向き合うにあたり、思う訳なのです。
あなたが、美しいと思ったものに、美しいと言っていい社会。
あなたが、愛しいと思ったものに、愛してると伝えられる社会。
あなたが、苦しいと思ったものからは、全力で遠ざかっていい社会。
そういうのが、いい。それを曲げていい力なんて、どこにもない。
私は一緒にいる人に共感性を求めるから、同じものを見て、「綺麗だね」って言えたら、それがやっぱり嬉しい。
ばらばらに育って、寄り添うことを学ぶというのもいいけど、
そんな、双極じゃなくていいんじゃないかな。全ての点が、コンティニュアムだと思うんだよ。
もっと、色々でありたい。多様でありたい。それが、願い。
余計な、色つきの線引きに、消しゴムをごしごしかけて薄めていきたい。
筆圧が強い線ほど、実は、要らないんじゃないの?
*
君とうまく合うこと。それで十分だ。:)
バランスはふたりで決めたらいい。
君とだから、
安定した部分もあって
不安定になった部分もあるから
±は0かもしれないけど、今の状態を好ましく思う。
君に割く心なら、使う頭なら惜しくないかなって。◎
「言語とわたし」で完結するオタクな世界から、抜け出そうと決めた。
インタラクションの中に身を置くことに決めた。
それが言語のあるべき形。
ほんとうの意味で、たった一人で、学ぶことのできる言葉なんてない。
伝える、ってことを考え出すと、
日常的に行いながらも、なんて、未知の部分ばっかりの行為なんだろうって思う。
わたしが発したこの言葉を、相手が受け取って意味を意図を剥がし取る。
伝え方は、言葉以外にも沢山ある。
目線も、動作も、そして、沈黙も。
黙るということを練習し始めたのが2年ほど前だ。
最近は、また、話すことに回帰した。
でも、自分が話したいことを話すというときだけではなくて、
相手に伝えたいから話すということが増えた。
教えるという動作を、説明するという行為を、志すことが増えた。
大学院での教育を学んでいる時間が積みあがってきて、
知識も増えてきた。
「あなたに、このことを、知っていてほしい」
そんな願いも、増えてきたのだ。
ちらり、とわたしが言ったことがどこかで役に立つといい。
勝手な独善の種蒔き。萌えるときを待つ。
人に伝えられなければ、わたしの体の中にある思い達は、
何もなさずに、消え去ってしまうだけだ。
これまで抱え込んだ、最高に面白い言葉の秘密も、
最高に腑に落ちた世界の詞書も、わたしが並べ替えたこれまで読んだ言葉たちも。
それをね、使いたいんだ。わたしは。そして磨き続けたいんだ。
自分がずっと、言葉のことを考え続けて生きていたい。
言葉をずっとずっと使い続けて、それを生業にしたい。
その願いが、生産的に叶うのがこの仕事だと思っています。
この判断は、わたしが人生の内に下した判断で何より正しいと思っています。
ほんとうにそうであるように、歩いていけたらいいです。
来週から3週間、中学校に行ってきます。
インタラクションの中に身を置くことに決めた。
それが言語のあるべき形。
ほんとうの意味で、たった一人で、学ぶことのできる言葉なんてない。
伝える、ってことを考え出すと、
日常的に行いながらも、なんて、未知の部分ばっかりの行為なんだろうって思う。
わたしが発したこの言葉を、相手が受け取って意味を意図を剥がし取る。
伝え方は、言葉以外にも沢山ある。
目線も、動作も、そして、沈黙も。
黙るということを練習し始めたのが2年ほど前だ。
最近は、また、話すことに回帰した。
でも、自分が話したいことを話すというときだけではなくて、
相手に伝えたいから話すということが増えた。
教えるという動作を、説明するという行為を、志すことが増えた。
大学院での教育を学んでいる時間が積みあがってきて、
知識も増えてきた。
「あなたに、このことを、知っていてほしい」
そんな願いも、増えてきたのだ。
ちらり、とわたしが言ったことがどこかで役に立つといい。
勝手な独善の種蒔き。萌えるときを待つ。
人に伝えられなければ、わたしの体の中にある思い達は、
何もなさずに、消え去ってしまうだけだ。
これまで抱え込んだ、最高に面白い言葉の秘密も、
最高に腑に落ちた世界の詞書も、わたしが並べ替えたこれまで読んだ言葉たちも。
それをね、使いたいんだ。わたしは。そして磨き続けたいんだ。
自分がずっと、言葉のことを考え続けて生きていたい。
言葉をずっとずっと使い続けて、それを生業にしたい。
その願いが、生産的に叶うのがこの仕事だと思っています。
この判断は、わたしが人生の内に下した判断で何より正しいと思っています。
ほんとうにそうであるように、歩いていけたらいいです。
来週から3週間、中学校に行ってきます。
とりあえず、考えていることを書いてみよう。
黒く、文字にして、刻んでおくことが、有用。
英語を学ぶのは、決して英語が「優れた言語」であるからではないのだ。
というメッセージを発信したいのよ、わたし。
言語は全て、等価で、貴重で、大切なものだって思う。
その平等性を、話者数や経済力でゆがめるのは、違う。
世界の人みんなと分かり合える言葉は、そりゃー凄いもんだ。
みんなが同じ言語を話し、手と手を取り合って、平和に暮らす。
海を越えて山を越えてどこまでも自由に移動できて、同じように暮らせる。
そんな世界には夢がある。
でも、日常を送るのはこの土地で、
日常、伝え合って暮らさなければならない人は、ほんの限られた人。
その人との間の言葉を大切にするのが先。
その伝え合いを端折って、遠くの人と関係を作るなんてできるとは思えない。
この土地の花の名も、日ごろ口にする食べ物の名もカバーしていない言語が、「優れている」というメッセージを飛ばすことの誤謬。
でも、「優れている」というメッセージなしで、学ぶ意欲をドライブできないパラドックス。
言語を学ぶっていうのは何のためなのか、改めて考える。
絶対に、その言語のネイティブと話すためだけじゃない。
もっと、豊かな、学びがある。変容がある。はず。
だから、「職業訓練」じゃなくて、気軽な言葉遊びでいいと思うの。
楽しいこととして、言語学習を位置付けたい。できれば。
わたしは、英語が話せる人より、外国語が面白い!と思える人を育てたい。
知識の量じゃなくって、その好奇心を育てたい。
中学卒業までに身に着く英語力には限度があるし、お仕着せの教科としての英語は、その本質を数%しか表していない。
一口かじっただけで、「不味い!」と吐き出して終わりにするのはあまりにも勿体ない。
吐き出してしまわなければ、きっと何かを得られるから、その持続する興味を支えることが一番の仕事だと思う。
「正しい」と「間違い」の二分は、言語使用については不適切。
本当はずっと自由で、「そうは言わないよ」という程度の事。
マスターにはなれないのなら、せめて言語の使い手にならなくては。
使役されては駄目。
でも、きっと英語が、内にも外にも扉を開いてくれる、引き出して呼び覚ましてくれることが、きっとあって、そのくらい是非仲良くなってほしいと思う。
願いは、それだけのこと。
あとは、take it easy. の呪文をずっと発信していきたい。
「死ぬ気になってしなきゃいけないことなんて、生きることだけだよ。」
ただただ、そう言い続けたいから、わたしは教師になる。
黒く、文字にして、刻んでおくことが、有用。
英語を学ぶのは、決して英語が「優れた言語」であるからではないのだ。
というメッセージを発信したいのよ、わたし。
言語は全て、等価で、貴重で、大切なものだって思う。
その平等性を、話者数や経済力でゆがめるのは、違う。
世界の人みんなと分かり合える言葉は、そりゃー凄いもんだ。
みんなが同じ言語を話し、手と手を取り合って、平和に暮らす。
海を越えて山を越えてどこまでも自由に移動できて、同じように暮らせる。
そんな世界には夢がある。
でも、日常を送るのはこの土地で、
日常、伝え合って暮らさなければならない人は、ほんの限られた人。
その人との間の言葉を大切にするのが先。
その伝え合いを端折って、遠くの人と関係を作るなんてできるとは思えない。
この土地の花の名も、日ごろ口にする食べ物の名もカバーしていない言語が、「優れている」というメッセージを飛ばすことの誤謬。
でも、「優れている」というメッセージなしで、学ぶ意欲をドライブできないパラドックス。
言語を学ぶっていうのは何のためなのか、改めて考える。
絶対に、その言語のネイティブと話すためだけじゃない。
もっと、豊かな、学びがある。変容がある。はず。
だから、「職業訓練」じゃなくて、気軽な言葉遊びでいいと思うの。
楽しいこととして、言語学習を位置付けたい。できれば。
わたしは、英語が話せる人より、外国語が面白い!と思える人を育てたい。
知識の量じゃなくって、その好奇心を育てたい。
中学卒業までに身に着く英語力には限度があるし、お仕着せの教科としての英語は、その本質を数%しか表していない。
一口かじっただけで、「不味い!」と吐き出して終わりにするのはあまりにも勿体ない。
吐き出してしまわなければ、きっと何かを得られるから、その持続する興味を支えることが一番の仕事だと思う。
「正しい」と「間違い」の二分は、言語使用については不適切。
本当はずっと自由で、「そうは言わないよ」という程度の事。
マスターにはなれないのなら、せめて言語の使い手にならなくては。
使役されては駄目。
でも、きっと英語が、内にも外にも扉を開いてくれる、引き出して呼び覚ましてくれることが、きっとあって、そのくらい是非仲良くなってほしいと思う。
願いは、それだけのこと。
あとは、take it easy. の呪文をずっと発信していきたい。
「死ぬ気になってしなきゃいけないことなんて、生きることだけだよ。」
ただただ、そう言い続けたいから、わたしは教師になる。
ああ、違うんだなあ、って思って。
私は、自分の、不器用で馬鹿真面目なところが好きなのだ。
ただただ、そうありたいのだ。
だから、何事も器用に上手にできるように見え始めたら要注意。
そこで私は守りに入っている。そんなのは違うんだわ。
ずっと挑戦していなくては。出切るようになったことは次々捨てて、回り続けなくては、螺旋を。
また、どこかで、会おうね。
思い続けていたら、愛していたということだ。
残念ながら、検証は、過去になってしまってから為されるのだけど。
あなたが、好きだといってくれることを、現在のこの時点で信じられても。
一瞬で嘘になるし、変わらずにいられる気が私の方にないのよ。
そして、私のために、君が曲がるのも厭なんだよ。責任持てないものなんにも。
からからの心で、焦がすように愛する人と
ひたひたの心が溢れて初めて愛せる人と
色々なんだと思うんだ。今の私には、まだ。
泉を掘る。
私は、自分の、不器用で馬鹿真面目なところが好きなのだ。
ただただ、そうありたいのだ。
だから、何事も器用に上手にできるように見え始めたら要注意。
そこで私は守りに入っている。そんなのは違うんだわ。
ずっと挑戦していなくては。出切るようになったことは次々捨てて、回り続けなくては、螺旋を。
また、どこかで、会おうね。
思い続けていたら、愛していたということだ。
残念ながら、検証は、過去になってしまってから為されるのだけど。
あなたが、好きだといってくれることを、現在のこの時点で信じられても。
一瞬で嘘になるし、変わらずにいられる気が私の方にないのよ。
そして、私のために、君が曲がるのも厭なんだよ。責任持てないものなんにも。
からからの心で、焦がすように愛する人と
ひたひたの心が溢れて初めて愛せる人と
色々なんだと思うんだ。今の私には、まだ。
泉を掘る。
ニュートラルに世界を見ることの、何と難しいことか。
とらわれる。とらわれるよ。
自分で法を整備することのできないままに、大人になってしまっていて。
考える前に、自由になってしまっていて。判断をさしはさむ余地さえないままに。
転がってきてしまうんだ。
その、転がってきた道筋が、正しくなかったのだと、否定することはわたしにとって簡単じゃない。
どんな道でも、何かを学ぶもの。何か綺麗なものを見つけるもの。
その、きらきらしたことばかり覚えて、人には何が見えるか考えない。
だから、人の言葉が聞けなくなる。
例えば。わたしは学校という場所が好きだった。
そうでない人もきっと沢山いるだろう。そういう見解を拒絶しないためにも、わたしは冷静に、考え直す必要がある。
欠点を探すことは、冒涜じゃない。
穿った見方をしてみることがあっても、見放されない。
分不相応じゃない。
大丈夫。
耐えなくていいんだよ。
自分にそう言ってあげることがこれまでどんなに難しかったか。
二十歳やそこらで、人に成ることはできない。
世界は見えてこない。
二十五にして、ようやく、人に近づいてこれたように思う。
自分が立ち現れてきたように思う。
自分の欲を改めて見つめなおそう。赤ちゃんみたいに。
何が欲しいのか、何が心地いいのか。
欲を、欲しいときにだけ正しく感じるのは、不可能に近いように思われる。。
周囲はそれを喚起するものに溢れて、手に入れることが奨励される。
「ほんとは、要らないのにな」「ほんとに欲しいものは、これじゃないのにな」
そういう感覚をに敏感になっていたい。
「ない」を常に「苦しい」とdecodeするのは間違いだと思うの。
「ある」「ある」「ある」「ある」を重ねて満足するのは、あまりに物質的だ。
*
「うそつきのほうがすき」
そう思うのは、なんでもかんでも口にしてしまう正直さが、危ういと感じるから。
はぐらかしや、沈黙をうまく使えないことは、未熟だと思うから。
心や思想は自由だけれど、人を傷つける言葉を平気で吐き出す口は理性で抑えなくては。
内面が、聖人君主ほど徳が高くない限り、正直は美徳でも何でもないように思う。
わたしは、言葉をきちんと伝えることに心を割きたくて、
聞いてもらえる口で在りたくて、メッセージは選びたくて、
だからね、何でもかんでも大声で広くアナウンスする口は嫌いなんだ。
耳元で囁く意図を、わかってよ。
訣別。ぱきり。
不確かな要素を抱き込むことを忌避している。
「待つ」という動作を、いかにしないか。偶然の出会い、で全てのタイミングを肯定的に処理する、焦れないお作法。
舞台から、降りたいのよ。
*
大人になったらまた、大学入りたいなあー。
今度は政治か法に関わる研究をするんだ。
とらわれる。とらわれるよ。
自分で法を整備することのできないままに、大人になってしまっていて。
考える前に、自由になってしまっていて。判断をさしはさむ余地さえないままに。
転がってきてしまうんだ。
その、転がってきた道筋が、正しくなかったのだと、否定することはわたしにとって簡単じゃない。
どんな道でも、何かを学ぶもの。何か綺麗なものを見つけるもの。
その、きらきらしたことばかり覚えて、人には何が見えるか考えない。
だから、人の言葉が聞けなくなる。
例えば。わたしは学校という場所が好きだった。
そうでない人もきっと沢山いるだろう。そういう見解を拒絶しないためにも、わたしは冷静に、考え直す必要がある。
欠点を探すことは、冒涜じゃない。
穿った見方をしてみることがあっても、見放されない。
分不相応じゃない。
大丈夫。
耐えなくていいんだよ。
自分にそう言ってあげることがこれまでどんなに難しかったか。
二十歳やそこらで、人に成ることはできない。
世界は見えてこない。
二十五にして、ようやく、人に近づいてこれたように思う。
自分が立ち現れてきたように思う。
自分の欲を改めて見つめなおそう。赤ちゃんみたいに。
何が欲しいのか、何が心地いいのか。
欲を、欲しいときにだけ正しく感じるのは、不可能に近いように思われる。。
周囲はそれを喚起するものに溢れて、手に入れることが奨励される。
「ほんとは、要らないのにな」「ほんとに欲しいものは、これじゃないのにな」
そういう感覚をに敏感になっていたい。
「ない」を常に「苦しい」とdecodeするのは間違いだと思うの。
「ある」「ある」「ある」「ある」を重ねて満足するのは、あまりに物質的だ。
*
「うそつきのほうがすき」
そう思うのは、なんでもかんでも口にしてしまう正直さが、危ういと感じるから。
はぐらかしや、沈黙をうまく使えないことは、未熟だと思うから。
心や思想は自由だけれど、人を傷つける言葉を平気で吐き出す口は理性で抑えなくては。
内面が、聖人君主ほど徳が高くない限り、正直は美徳でも何でもないように思う。
わたしは、言葉をきちんと伝えることに心を割きたくて、
聞いてもらえる口で在りたくて、メッセージは選びたくて、
だからね、何でもかんでも大声で広くアナウンスする口は嫌いなんだ。
耳元で囁く意図を、わかってよ。
訣別。ぱきり。
不確かな要素を抱き込むことを忌避している。
「待つ」という動作を、いかにしないか。偶然の出会い、で全てのタイミングを肯定的に処理する、焦れないお作法。
舞台から、降りたいのよ。
*
大人になったらまた、大学入りたいなあー。
今度は政治か法に関わる研究をするんだ。
自分の居場所、の作り方には2通りある。
隙間や入るべき場所に、自分の形を合わせていく方法と
掘削機で自分が入れる場所をじりじりと穿つ方法。
気づかず、前者の方法で居場所をあてがわれていることの何と多いことだろう。
自分は自分のスタイルでいいのだ、と思っていたらドレスも着れない。
特定の場で、必要だと要請されるものに応えている間に、形作られ、
自分が仕上がっていってしまう。
どちらの方法でもいいのだけど、自分が望む形で、いたい場所にいられるかが重要だよ。
*
「朝起きて、歌うことで頭がいっぱいだったら、あなたはもう歌手だ。」
という考え方は素敵だと思う。
そういうものがわたしには無いなあって、Sister Act 2を観るたび、小さい頃から思っていた。
歌うこと、好きだったけれど。失ったら悲しいけれど、それではないのは感じていた。
「大きくなったら、お琴の先生になりたい」
そう言った、小学校の先生がいた。
職業人となった先に夢があるのが素敵だと思った。
今日、ようやく近いものが見つかった気がする。
「神融筆暢」心が融ければ筆が暢る、という言葉。
臨しながら、文字と自分がひとつになってる感じがして、愛でひたひたになる感じがした。
一体感、相思相愛、交わり。




ただただ、楽しいんだ。書くこと。
小さい頃、先生が言っていたことが、今になってようやく分かる。
「よく見なさい」
「ゆっくり書きなさい」
「姿勢よく」
「静かに」
その時間が、わたしと文字とを仲良しにしてくれた。
紙も、筆も、墨も、愛しいから、ずっと、触れてたい。
こういう、原始的な想いを大切にしたい。
背いたら、わたしが、崩れるに違いない。
慈しむだけで、エネルギーになるよ。
隙間や入るべき場所に、自分の形を合わせていく方法と
掘削機で自分が入れる場所をじりじりと穿つ方法。
気づかず、前者の方法で居場所をあてがわれていることの何と多いことだろう。
自分は自分のスタイルでいいのだ、と思っていたらドレスも着れない。
特定の場で、必要だと要請されるものに応えている間に、形作られ、
自分が仕上がっていってしまう。
どちらの方法でもいいのだけど、自分が望む形で、いたい場所にいられるかが重要だよ。
*
「朝起きて、歌うことで頭がいっぱいだったら、あなたはもう歌手だ。」
という考え方は素敵だと思う。
そういうものがわたしには無いなあって、Sister Act 2を観るたび、小さい頃から思っていた。
歌うこと、好きだったけれど。失ったら悲しいけれど、それではないのは感じていた。
「大きくなったら、お琴の先生になりたい」
そう言った、小学校の先生がいた。
職業人となった先に夢があるのが素敵だと思った。
今日、ようやく近いものが見つかった気がする。
「神融筆暢」心が融ければ筆が暢る、という言葉。
臨しながら、文字と自分がひとつになってる感じがして、愛でひたひたになる感じがした。
一体感、相思相愛、交わり。
愛せるものが、こんなに身近にあって、失いそうにないことが、嬉しい。:)
「風景画は同じ風景を前にして模すことができるけれど、
書は臨することしかできない」
この書を生んだ心には、実体がない。表された文字だけを頼りに。
そうして手繰り寄せていることが、わたしの心を磨いてくれる。
この営みは手放さない。そんな風に思った。
書道史を追っていて、歴史を知ると、その対象から愛されるように感じる。
正しい、アプローチだなと思う。
他にもきっと、愛し方はあるのだろうけど。
この体験を、忘れないようにしたいな。




ただただ、楽しいんだ。書くこと。
小さい頃、先生が言っていたことが、今になってようやく分かる。
「よく見なさい」
「ゆっくり書きなさい」
「姿勢よく」
「静かに」
その時間が、わたしと文字とを仲良しにしてくれた。
紙も、筆も、墨も、愛しいから、ずっと、触れてたい。
こういう、原始的な想いを大切にしたい。
背いたら、わたしが、崩れるに違いない。
慈しむだけで、エネルギーになるよ。
七草粥を初めて作りました。
別に伝統の風習でも何でもないけれど、ね。
だって、こちらでは春の七草は雪の下です。
愛媛からわざわざ野草を流通させる可笑しさ。
お作法も分からず、見よう見まね。
「せりなずなごぎょうはこべらほとけのざ」までしか言えないくせに。
験をかつげることは、かついでおきたいっていう、ちゃっかりかな。
「これ蕪?」「これ大根?」正解だけど、それはすずなとすずしろだっていうね。
蕪と大根が入ったお粥が七草粥の味がするって感じたのも正解だったのだ。
節分の恵方巻きもそうだけどさ、日本全国同じである風習なんてありっこなくて、
昔の縮尺では、各地方が「国」であったんだよなって改めて思うよ。
わたしは自分の思想を「保守」だと考えているけれど、それは「国家転覆を狙うなんてしません」程度の意味でしかなくて、全部全部昔の儘になんて思っちゃいない。
たとえば、郷土料理の中に、「昔からのものだから」と言って食べているけれど、実のところあんまりおいしくない、というものがあったりする。
そういうのは、無理しなくていい。
手間がかかりすぎて無理なことも、仕方ない。もう止めよう。
昔の人は、贅沢だった、羨ましい。それでいい。
時間の使い方が違うのだ。
折角、情報技術が発達したのだから、アーカイブにしておくくらいでいいんじゃないかしら。
思い出したようにふと、やってみるくらいの、今はそのくらいの距離で。
ずっとずっと同じではありえないというのは当然のことだと思う。
ただ、ずっとずっと、より良く変わろうとし続けることが大切で、その積み重ねをわたしは「保守」と呼びたいのだ。
悪くなる可能性の方を重く考えて、道を踏み外すな、というその慎重さを「保守」と呼びたいのだ。
理想論の中でごろごろしているけれど、それが普遍的な考え方じゃないのかしらと不思議になる。
*
ジェンダー論やフェミニズムを考え始めると途端に世界が生きづらくなる。
気付かないようにしているだけで、ほんとは考えなくても、同じ世界なんだけど。
性差にかこつけた諸々は許してはいけなくて、もっと安全な世界になるべきだと思う。もっと愛せる世界になるはずだよ。
「いやだ」と言っても止まらない恐怖を想定して回避したりだとか。
施される側になって初めて安定する関係を築けるだとか。
数え上げればきりのない非対称。
同じであれ、なんて言わない。
もっと多様であれ。分化せよ。 わたしが思うのはそういうことだ。
当然、誰一人同じではありえない。
ただ、同じになるように、造形されていくこと、圧力や既成概念に捕えられるなということ。
思想・良心の自由を、ほんとうに、実現すること。
夢があると、思わない?
なんであれ自分に対して「間違ってないよ」と言い続けることは、なかなか骨が折れる。
それでも、世界をそのまま受容して望まれるがまま形成されるよりは、健全だと思う。
「ほんとに、そうでなきゃいけないの」って問うのを、止めない。
自分の感じ方の方をまず自分が疑うというのは悲しい。
許されて在る、と見えるものも、それが正しいかは自分の判断だ。
自己判断を怠って、あるがままを善にしてきたツケが、今の未熟な自分。
受容しながら、且つ批判的に考える。バランスだ。
*
自分と同じことを考えている(と少なくともそう読み取れる文章を書いている)人がいることが、救いになる。
自分を肯定して解す足がかりになる。
永らく、自分を否定し続けてきた感じがする。これでもね。笑
別に伝統の風習でも何でもないけれど、ね。
だって、こちらでは春の七草は雪の下です。
愛媛からわざわざ野草を流通させる可笑しさ。
お作法も分からず、見よう見まね。
「せりなずなごぎょうはこべらほとけのざ」までしか言えないくせに。
験をかつげることは、かついでおきたいっていう、ちゃっかりかな。
「これ蕪?」「これ大根?」正解だけど、それはすずなとすずしろだっていうね。
蕪と大根が入ったお粥が七草粥の味がするって感じたのも正解だったのだ。
節分の恵方巻きもそうだけどさ、日本全国同じである風習なんてありっこなくて、
昔の縮尺では、各地方が「国」であったんだよなって改めて思うよ。
わたしは自分の思想を「保守」だと考えているけれど、それは「国家転覆を狙うなんてしません」程度の意味でしかなくて、全部全部昔の儘になんて思っちゃいない。
たとえば、郷土料理の中に、「昔からのものだから」と言って食べているけれど、実のところあんまりおいしくない、というものがあったりする。
そういうのは、無理しなくていい。
手間がかかりすぎて無理なことも、仕方ない。もう止めよう。
昔の人は、贅沢だった、羨ましい。それでいい。
時間の使い方が違うのだ。
折角、情報技術が発達したのだから、アーカイブにしておくくらいでいいんじゃないかしら。
思い出したようにふと、やってみるくらいの、今はそのくらいの距離で。
ずっとずっと同じではありえないというのは当然のことだと思う。
ただ、ずっとずっと、より良く変わろうとし続けることが大切で、その積み重ねをわたしは「保守」と呼びたいのだ。
悪くなる可能性の方を重く考えて、道を踏み外すな、というその慎重さを「保守」と呼びたいのだ。
理想論の中でごろごろしているけれど、それが普遍的な考え方じゃないのかしらと不思議になる。
*
ジェンダー論やフェミニズムを考え始めると途端に世界が生きづらくなる。
気付かないようにしているだけで、ほんとは考えなくても、同じ世界なんだけど。
性差にかこつけた諸々は許してはいけなくて、もっと安全な世界になるべきだと思う。もっと愛せる世界になるはずだよ。
「いやだ」と言っても止まらない恐怖を想定して回避したりだとか。
施される側になって初めて安定する関係を築けるだとか。
数え上げればきりのない非対称。
同じであれ、なんて言わない。
もっと多様であれ。分化せよ。 わたしが思うのはそういうことだ。
当然、誰一人同じではありえない。
ただ、同じになるように、造形されていくこと、圧力や既成概念に捕えられるなということ。
思想・良心の自由を、ほんとうに、実現すること。
夢があると、思わない?
なんであれ自分に対して「間違ってないよ」と言い続けることは、なかなか骨が折れる。
それでも、世界をそのまま受容して望まれるがまま形成されるよりは、健全だと思う。
「ほんとに、そうでなきゃいけないの」って問うのを、止めない。
自分の感じ方の方をまず自分が疑うというのは悲しい。
許されて在る、と見えるものも、それが正しいかは自分の判断だ。
自己判断を怠って、あるがままを善にしてきたツケが、今の未熟な自分。
受容しながら、且つ批判的に考える。バランスだ。
*
自分と同じことを考えている(と少なくともそう読み取れる文章を書いている)人がいることが、救いになる。
自分を肯定して解す足がかりになる。
永らく、自分を否定し続けてきた感じがする。これでもね。笑
あけましておめでとうございます。
2013年、ひびきが近未来だ。
セルフイメージについてぐるぐる考えてた年末年始。
ブログデザインをぽちぽち変更してみました。
わたしね、人に似合う色って、その人の性質を補う色なんだと思う。
似合う色の性質は、その人に欠けているものと思う。
赤い人には青が似合うとか、そんな感じで。補強。なんじゃないかな、と。
わたしが身につけるのが好きな色は、
茶系と青とゴールド、それから黒。
でもそれはきっとわたしがそう見せたい色なんだろうなって思う。
でも、その着色で、満足してちゃいけないんだと思う、自己認識としては。
ほんとの色を見つめてみないとわかってこないことがあるんだ、みにくい部分も含めて。
「人の目を欺くのなんて容易い」
どこかでそう思ってる。
それは、人の目を軽んじているからでもあるし、自己の調整にいつも必死だからでもある。
どう見えるか分かりながら、そうしている、
けれど、そうじゃないだろって、気づいてしまったや。
*
ずっとわたしのモデルは、「心の鏡」の中のMaroだった。
人を感じ取って、その人の望む姿を差し出すという鏡のような存在。
そう在りたいと憧れた、10代のわたしのメンタリティのまま、
環境に馴染んでいくことは、誰でもなくなっていくことだと、じわじわと感じ始めた。
勿論わたしがそんなに透明な存在になりきれてはないことは、分かっている。
でもこのままじゃ、人を引き出せないことも、分かっている。
だって、わたしの在り様は、相手の形を変えず、自分を沿わせるものだからだ。
発することを、遮ることを、怖がらずにできるように、もっと頑なに、わたしがならなきゃいけないなって思う。
あたらしいモデル探しをしなくてはいけない。
もしくは、デニスさんを探さなくてはいけない。
「わたしはわたしだから、好きにすすむ」
と言えるほど自分の造形には自信がない。
指針を得られるようにもっと憧れを沢山いだく必要がある。
飲み込んだ沢山の言葉をあらためて取り出してあげないと、
喉がつまって息ができなくなってしまう。
「言うべきでない言葉」も、「言えない言葉」ではないのだ。
ハードルを少しずつ下げないと、
わたしの言葉がどこにもなくなってしまう。
感じたことを、ちいさくても、恐れないで、言葉にする。
*
なんだかんだ容姿というものには優劣がつくのだけれど、
身体の造形は、もう、余りにも人の手を超えた多様性でもって表されるから
きっと、わたしたちは、物凄く雑な認識でしか評価していないと思うの。
だから、記号化すべきは、間違いなく内面の方だと思う。
まだ、わたしは、名前と身体以上に、自分を指し示すものを持たないけれど、
それ以外のものを、結び付けられるように探っていきたいんだ。
*
新年早々、ぼんやり思い浮かべた像は沼の中のナマズだった。
今は、そんな自己認識でいいんじゃないかな、と思う。
今年の目標は、うん、「質問上手」になりたいな。これだな。
張った糸はすぐに切れてしまうから、ゆるゆると、
でも、こんがらがらないように、ふわふわの毛糸を垂らして行くような感じで、
過ごす年にしようと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたしますね。
grace upon you all.
2013年、ひびきが近未来だ。
セルフイメージについてぐるぐる考えてた年末年始。
ブログデザインをぽちぽち変更してみました。
わたしね、人に似合う色って、その人の性質を補う色なんだと思う。
似合う色の性質は、その人に欠けているものと思う。
赤い人には青が似合うとか、そんな感じで。補強。なんじゃないかな、と。
わたしが身につけるのが好きな色は、
茶系と青とゴールド、それから黒。
でもそれはきっとわたしがそう見せたい色なんだろうなって思う。
でも、その着色で、満足してちゃいけないんだと思う、自己認識としては。
ほんとの色を見つめてみないとわかってこないことがあるんだ、みにくい部分も含めて。
「人の目を欺くのなんて容易い」
どこかでそう思ってる。
それは、人の目を軽んじているからでもあるし、自己の調整にいつも必死だからでもある。
どう見えるか分かりながら、そうしている、
けれど、そうじゃないだろって、気づいてしまったや。
*
ずっとわたしのモデルは、「心の鏡」の中のMaroだった。
人を感じ取って、その人の望む姿を差し出すという鏡のような存在。
そう在りたいと憧れた、10代のわたしのメンタリティのまま、
環境に馴染んでいくことは、誰でもなくなっていくことだと、じわじわと感じ始めた。
勿論わたしがそんなに透明な存在になりきれてはないことは、分かっている。
でもこのままじゃ、人を引き出せないことも、分かっている。
だって、わたしの在り様は、相手の形を変えず、自分を沿わせるものだからだ。
発することを、遮ることを、怖がらずにできるように、もっと頑なに、わたしがならなきゃいけないなって思う。
あたらしいモデル探しをしなくてはいけない。
もしくは、デニスさんを探さなくてはいけない。
「わたしはわたしだから、好きにすすむ」
と言えるほど自分の造形には自信がない。
指針を得られるようにもっと憧れを沢山いだく必要がある。
飲み込んだ沢山の言葉をあらためて取り出してあげないと、
喉がつまって息ができなくなってしまう。
「言うべきでない言葉」も、「言えない言葉」ではないのだ。
ハードルを少しずつ下げないと、
わたしの言葉がどこにもなくなってしまう。
感じたことを、ちいさくても、恐れないで、言葉にする。
*
なんだかんだ容姿というものには優劣がつくのだけれど、
身体の造形は、もう、余りにも人の手を超えた多様性でもって表されるから
きっと、わたしたちは、物凄く雑な認識でしか評価していないと思うの。
だから、記号化すべきは、間違いなく内面の方だと思う。
まだ、わたしは、名前と身体以上に、自分を指し示すものを持たないけれど、
それ以外のものを、結び付けられるように探っていきたいんだ。
*
新年早々、ぼんやり思い浮かべた像は沼の中のナマズだった。
今は、そんな自己認識でいいんじゃないかな、と思う。
今年の目標は、うん、「質問上手」になりたいな。これだな。
張った糸はすぐに切れてしまうから、ゆるゆると、
でも、こんがらがらないように、ふわふわの毛糸を垂らして行くような感じで、
過ごす年にしようと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたしますね。
grace upon you all.
かしこ。







