青銅器時代のライバル対決

 ある意味では、『イリアス』は二つの都市国家の物語である。それはトロヤ、もしくは、“ウィンディ・イリオン(風の吹くトロイ)”と“多くの黄金が輝くミケーネ”の話である。

 トロヤ戦争はダーダネルス海峡の地の利を占めた富めるアジアの都市トロヤと、エーゲ海の交易権を握るミケーネが黒海までの交易権をめぐって、トロヤへの出入り口を侵略する戦いでもあったのである。

 250マイルも離れたトロヤとミケーネは互いに繫栄するライバルだった。ミケーネはペロポネソス半島からエーゲ海まで交易権を伸ばしていたし、トロヤはヘレスポント海峡(ダーダネルス海峡)を黒海への重要な交通路として支配してきた。歴史家たちはヘレンの美貌よりむしろ交易ルートの衝突がトロヤ戦争の主因と推測する。

 トロヤはヘレスポント海峡の門番として、アジア人たちの商戦から通行料を取り立ててきたのかもしれない。このようにして、富を得て、激しい敵意を持つ都市を作り上げてきた。しかし、それは防御のためにうまく準備された。1990年代の初めに、考古学者たちはいくつかの木造の柵を発見した。また、下町にめぐらされている広範囲にわたる10フィートの幅を持つ溝もあった。この溝は急襲してくる二輪馬車を止めるために、使用されたのだろう。トロヤは人口がほぼ6000人を数えるときもあり、10回も改造されている。初期の頃は丘の頂上の城のみが知られ、そこで、トロヤ王プリアモスが統治してきた。

 一方、ミケーネは非常に影響力のある富める都市で、堅固に建造された城を持っていた。巨大建築の20フィートの厚さの壁の中に、君主と従者たちが住んでいた。城への訪問者たちは堂々たる獅子門を通り、そして、初期の頃の統治者の墓や大昔からある円形の墓を見たかもしれない。祭儀場の中の祭壇には、ゼウス、ヘラ、その他の神々に捧げられた黒い焦げにされた骨が動物のいけにえがあった。

 ホメロスはギリシア人たちの船を、“丸太をえぐりぬいた船”と書いているが、トロヤ付近は強い潮流と北東からの風がたびたびヘレスポント(ダーダネルス)海峡の航行を妨げていたことを考えると、ギリシア人たちはトロヤの南西52マイルの所にあるビシック湾で、停泊し、順風を待っていたと推測できる。

 さらに、ギリシア人たちは包囲攻撃を終わらせるために、聳え立つ木馬の建造を思い立ち、ビシック湾のビーチに木馬を置き、そこから離れて航行するふりをして、沖合の島テネドスの裏側に彼らの船を隠したという。

 トロヤは木馬を信じ、受け取ったが、それがトロヤの略奪を招いた致命的な失敗となったのである。トロヤの英雄アイネイアースは、“町の至る所で、胸を引き裂くような死の苦しみ、パニック、そして、すべての死の様子を見た”と物語る・・・。