おはようございます。
ワインに合う簡単料理研究家:今田香澄です。
今日、5/18は、「国際親善デー」です。
1899年のこの日、ロシア皇帝ニコライ2世の提唱でオランダのハーグで第1回平和会議が開催された。日本を含む26か国が参加し、「国際紛争平和的処理条約」や「陸戦の法規慣例に関する条約」等が結ばれた。
この行事は第一次世界大戦で中断していたが、1922年にイギリスのウェールズの児童達の呼びかけで復活。
日本では昭和6年(1931)から行われています。
昨今では、気軽に海外に出掛けていく人達、反対に日本にやって来る外国人がとても増えました。
私が子どものころには、日本で外国人を見かけることはとても珍しかった。
私のような田舎育ちだと特に。
中学生のとき大阪で万国博覧会が開かれました。
その会場で、芸能人など特別な人ではない外国人を大量に見た最初でした。
会場の雰囲気とも相まって、←何と言っても万国博覧会ですから・・・
気分が高揚したのを覚えています。
今では考えられないけど。
※万博は時の支配者たちが財宝や戦利品を展示することによって自らの権勢を誇示する手段であった博覧会が、今では平和の象徴として、そして世界各国の人たちの交流の場となっています。
こんな趣旨も理解しつつ、国際親善を意識した始めての経験だったように思います。
今では、意識しなくても普通に外国人をたくさん目にするし、何となく話しかけたり、かけられたり、普通に会話したりしますね。
時が進むと、国際親善も自然に進化していきますね。
では、今日はよい天気のようです。
今日もよい一日を!
おはようございます。
ワインに合う簡単料理研究家:今田香澄です。
今日、5/17は、「生命・きずなの日」
臓器提供したドナーの家族で作る「日本ドナー家族クラブ」が2002(平成14)年に制定。
臓器提供者(ドナー)とその家族への社会的理解を深める。
ドナーとその家族が社会的に深く理解され、生命の大切さ、きずなの大切さについて考える日。
5月は新緑の候で生命の萌え立つ季節であることから、17日は十(とお)七(なな)で「ドナー」の語呂合せ。
以前は、本人が脳死判定に従い臓器を提供する意思を書面により表示しており、さらに家族が脳死判定並びに臓器提供に同意する場合に限り、法的に脳死がヒトの死と認められて脳死移植が可能でした。
しかし移植を希望し登録している患者は増加する一方で移植を受けられずに死亡するケースも多くあります。
また、日本国外へ移植を受けるために渡航する患者が後を絶たない状態であり、特に15歳未満の子供の脳死後の臓器提供については日本では法的に不可能でした。
そのため、提供臓器のサイズなどの問題から移植が必要な子供は日本国外へ渡航していました。
数千万円に及ぶ高額な医療費を工面するための募金活動が行われることが多く、これら日本国外へ渡航しての臓器移植については一部の事例で臓器売買に当たるのではないかという疑いもあります。
また自国の患者は自国で治療するべきという原則の下に国際的な批判が出ました。
こういったことを受けて、2009年に脳死移植を可能とする臓器移植法の改正が行われました。
2010年7月17日以降は脳死移植は本人が提供拒否の意思を示していない限りは家族の同意が得られれば認められるようになります。
これによって日本国内で15歳未満のドナーの臓器移植が可能になり、移植例も出ています。
臓器提供については、本人の意思、そして遺族の思いが尊重されなければならないと思います。
本人が、生前に臓器提供の意思を明示が、本人の想いと同じかどうかは、また別の問題でしょう。
私自身は、それを必要としてくれる人がいるのであれば、臓器提供しても良いと単純に考えますが、それをどうやって生前に意思表示するかが問題ですね。
遺言書に臓器提供の意思があることを書いたとしても、遺産相続以外は法的拘束力はないようです。
やはり臓器提供については、生前に家族でよく話し合って、本人はもちろん、家族全員の理解と同意を取り付けておくことが必要になるのでしょう。
今日は、少し重い問題について朝から考える事となりました。
今朝も、雨模様のお天気ですが、元気出して行ってらっしゃい!
ワインに合う簡単料理研究家:今田香澄です。
今日、5/17は、「生命・きずなの日」
臓器提供したドナーの家族で作る「日本ドナー家族クラブ」が2002(平成14)年に制定。
臓器提供者(ドナー)とその家族への社会的理解を深める。
ドナーとその家族が社会的に深く理解され、生命の大切さ、きずなの大切さについて考える日。
5月は新緑の候で生命の萌え立つ季節であることから、17日は十(とお)七(なな)で「ドナー」の語呂合せ。
以前は、本人が脳死判定に従い臓器を提供する意思を書面により表示しており、さらに家族が脳死判定並びに臓器提供に同意する場合に限り、法的に脳死がヒトの死と認められて脳死移植が可能でした。
しかし移植を希望し登録している患者は増加する一方で移植を受けられずに死亡するケースも多くあります。
また、日本国外へ移植を受けるために渡航する患者が後を絶たない状態であり、特に15歳未満の子供の脳死後の臓器提供については日本では法的に不可能でした。
そのため、提供臓器のサイズなどの問題から移植が必要な子供は日本国外へ渡航していました。
数千万円に及ぶ高額な医療費を工面するための募金活動が行われることが多く、これら日本国外へ渡航しての臓器移植については一部の事例で臓器売買に当たるのではないかという疑いもあります。
また自国の患者は自国で治療するべきという原則の下に国際的な批判が出ました。
こういったことを受けて、2009年に脳死移植を可能とする臓器移植法の改正が行われました。
2010年7月17日以降は脳死移植は本人が提供拒否の意思を示していない限りは家族の同意が得られれば認められるようになります。
これによって日本国内で15歳未満のドナーの臓器移植が可能になり、移植例も出ています。
臓器提供については、本人の意思、そして遺族の思いが尊重されなければならないと思います。
本人が、生前に臓器提供の意思を明示が、本人の想いと同じかどうかは、また別の問題でしょう。
私自身は、それを必要としてくれる人がいるのであれば、臓器提供しても良いと単純に考えますが、それをどうやって生前に意思表示するかが問題ですね。
遺言書に臓器提供の意思があることを書いたとしても、遺産相続以外は法的拘束力はないようです。
やはり臓器提供については、生前に家族でよく話し合って、本人はもちろん、家族全員の理解と同意を取り付けておくことが必要になるのでしょう。
今日は、少し重い問題について朝から考える事となりました。
今朝も、雨模様のお天気ですが、元気出して行ってらっしゃい!
おはようございます。
ワインに合う簡単料理研究家:今田香澄です。
今日、5/16は、「旅の日」です。
1689年5月16日(元禄2年3月27日)、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ旅立った。
この日が太陽暦5月16日にあたることにちなんで、1988年(昭和63年)に日本旅のペンクラブが制定。
せわしない現代生活の中で「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直す日。
この日、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と言って松尾芭蕉が江戸を出発しました。
四十六歳の松尾芭蕉は門人河合曾良と共に住み慣れた深川の庵を後にします。
奥羽、北陸を経て美濃の大垣に至るまで約2400キロ、150日間にわたる壮大な旅です。
現代とは違い、道は悪く、もちろん乗り物などない。
当時の芭蕉にとっては、命を賭けたたびであったことが容易に想像できます。
まさに、「道路に死なん、これ天の命なり」(たとえ旅路の途中で死んでも天命であり悔いはない)と覚悟を誓っての旅立ちでした。
この旅で、芭蕉は後世に語り告がれる名句の数々を残しています。
まずは江戸から奥州街道を北上、日光、那須、白河、二本松などを通って松島に出ます。
「松島や、ああ松島や、松島や」
それから平泉で、
「夏草や、つわもの共が、夢の跡」
裏日本へ回りますが、その途中寄り道して霊山・立石寺に寄ります。
「閑かさや、岩にしみいる、蝉の声」
越後では、
「荒海や佐渡に横たふ天の川」
越中では、
「一つ家に遊女も寝たり萩と月」
加賀では、
「無惨やな、甲の下の、きりぎりす」
そして福井では永平寺に寄り、敦賀から種の浜まで行き、琵琶湖の東側大垣に到着します。
最後の句は、
「蛤のふたみに分かれ行く秋ぞ」
どれもこれも、一度は目にしたことがある、聞いたことがある俳句かと思います。
どの句も、その場所や、その背景、情景が目に浮かびますね。
この芭蕉の通った行程をたどる旅が企画され、人気を博しているようです。
便利な現代において、旅行ブームの中で忘れがちな旅の心を、そして旅とは何かという問いを、
改めてみる一日にしましょうか。
あまり天気が良くないようですが、今日もよい一日を!
ワインに合う簡単料理研究家:今田香澄です。
今日、5/16は、「旅の日」です。
1689年5月16日(元禄2年3月27日)、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ旅立った。
この日が太陽暦5月16日にあたることにちなんで、1988年(昭和63年)に日本旅のペンクラブが制定。
せわしない現代生活の中で「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直す日。
この日、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と言って松尾芭蕉が江戸を出発しました。
四十六歳の松尾芭蕉は門人河合曾良と共に住み慣れた深川の庵を後にします。
奥羽、北陸を経て美濃の大垣に至るまで約2400キロ、150日間にわたる壮大な旅です。
現代とは違い、道は悪く、もちろん乗り物などない。
当時の芭蕉にとっては、命を賭けたたびであったことが容易に想像できます。
まさに、「道路に死なん、これ天の命なり」(たとえ旅路の途中で死んでも天命であり悔いはない)と覚悟を誓っての旅立ちでした。
この旅で、芭蕉は後世に語り告がれる名句の数々を残しています。
まずは江戸から奥州街道を北上、日光、那須、白河、二本松などを通って松島に出ます。
「松島や、ああ松島や、松島や」
それから平泉で、
「夏草や、つわもの共が、夢の跡」
裏日本へ回りますが、その途中寄り道して霊山・立石寺に寄ります。
「閑かさや、岩にしみいる、蝉の声」
越後では、
「荒海や佐渡に横たふ天の川」
越中では、
「一つ家に遊女も寝たり萩と月」
加賀では、
「無惨やな、甲の下の、きりぎりす」
そして福井では永平寺に寄り、敦賀から種の浜まで行き、琵琶湖の東側大垣に到着します。
最後の句は、
「蛤のふたみに分かれ行く秋ぞ」
どれもこれも、一度は目にしたことがある、聞いたことがある俳句かと思います。
どの句も、その場所や、その背景、情景が目に浮かびますね。
この芭蕉の通った行程をたどる旅が企画され、人気を博しているようです。
便利な現代において、旅行ブームの中で忘れがちな旅の心を、そして旅とは何かという問いを、
改めてみる一日にしましょうか。
あまり天気が良くないようですが、今日もよい一日を!