「奇跡を最初から起こそうなんて人、いないと思う。ただ一生懸命夢中になって何かをしようとしている」

一生懸命になれる、それが難しいのです。が、普通である平凡な毎日を誰もが

懸命に生きているのだと僕は信じています。

 

生きているものがいる、人に鳥に虫、魚に動物もいる、植物も生きている。その生き物たちは大地の上に立つ、

海や川の流れ中を泳ぐ、太陽の光を浴びる。だが、大地も海も川でも太陽が届かない場所がある。そこにも生き物はいる、

例えばもぐら、深海魚などがいる。いきものはどこにでもいる、そして、太陽や海や山、大地は生きてはいないが

生き物を活かす。そのすべてが自然である。風景には自然が広がっている。

春に花が開き、夏に草木が生い茂る、草木は秋に枯れて、やがてきれいな空が冬に

現われる。そして、花が咲く、桜を見る。

自然が誕生して以来、この循環は変わってないだろう。合理的にあり続ける自然が

変わらないように、自分も何一つ変わらなかったと桜をみて後悔する。

奇跡は興らない、懸命に生きている僕たちであるにもかかわらず。

当然である、自然に奇跡はない。僕たちは自然にいるならば奇跡を信じることはできない。

だが、人間だけは自然に生きていない、自然の猛威である嵐も地震に抵抗してきたのは人間だけである。

その努力は成功と失敗を繰り返している。失敗が続いても成功を諦めないのは命があるからである。

失敗しても死に至らない限り人間は何代にもわたり成功の努力をする。何故なら、我々は知っている。

知識と忍耐と努力が実を結び僕たちが成功したとき、こんなに嬉しいことはないことを、仮に僕たちが失敗をしてもこれまでの

誰かの成功が今を支えてくれるだろう。成功は勝利といってもいい。

自然に勝利したのではない、人間が人間自身に勝利したのです。諦めてもよいはずだ、死はいずれやってくる、

早いか遅いかだけである、変えることができない自然の循環に、人間は最後の死ぬ時まで自分の勝利を信じたいのです。

自然の循環が生き物たちを、人間に死を与えている、その死が病気なのか、老衰なのか分からない。

そこに人間社会を含めてもよい、戦争も不景気も自殺も死ぬことには変わらない。

どんな状況であっても死はあるが、同時に勝利はあると思う。

いつの間にか死んでいた、そんなバカなことがあってなるものか。

確かにこの「自身」を信じて生きた。これが勝利なのです。

この勝利を僕は奇跡と呼ぶ。

もし、人間が奇跡を興せるならば、その人は勝利を考え、常に行動を起こして努力している、自分自身に負けないため、

勝つことを信じて走り続ける。

自身の奇跡を信じている。

 

「なんとかしたい、何かを変えたい、それだけのことかもしれない。だから起こせるよ奇跡、私たちにも、、、、

だって虹がかかったもん。」

 

僕たちは、これから奇跡を信じた人たちの後を追う。

 

その人は静岡県沼津市の小さな町、内浦にある高校、浦の星女学院、高校二年生

高海千歌である。