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皆様から大変好評をいただいております、野島先生の二松沼南ヒーロー列伝第4弾が到着いたしました♪
二松学舎沼南高等学校サッカー部列伝」第4話
前回は、元井の大学時代のことばかりで、GK勝柴亮一のことを書いておくのを忘れた。平成10年度の3年生で、新人戦の県大会へ出場した選手のひとりだ。ひとことで言って原始人のような選手だった。色浅黒くずどんとした感じの、鈴木寿眞とはまたちょっと違った感じでがっしりした、いつもはにかんで笑っているような彼は、公式戦以外ではキーグロを付けず、素手で捕球していた。危ないから止めなさいと何度いっても聴かない。この3月15日の「ノジライ・フットサルカップ」の夜に久しぶりに会ったが相変わらずだった。今は確か農協に勤めていると思うのだが、やはりどこか土臭さい。
平成11年(1999年)の3年生は、初めはまた極端に少なく小山淳司(GK小山義之の兄)、大久保健志、鈴木寿眞、南雲将志、矢仲智朗、山谷義生の6人だった。初めはと書いたのは、一度は部を辞めた吉村浩一が、新人戦を前にして突然職員室の僕の目の前に現れ、サッカー部へ再入部させてくれと言ってきたからだ。この時僕は即座にふざけろ、と大声で怒鳴った。彼のぼさぼさで染めた跡のある髪を見て驚いたからだ。仮にも僕は生活指導部のひとりで、学校のみんなに元気を与え精神的に引っ張ってゆくべき立場にあるサッカー部の顧問だ。一度辞めた者が再入部するというだけでも考えなければならないのに、その頭で来るとはどういう了見だ、来るなら頭を丸めて来い、と追い返した。いけないものはいけない。と、と、ところがどっこい、舟山言うところのあの「浩一さん」はちょっと違っていた。翌日姿を現した彼は、丸坊主だった(みんなには、ヘディングが上手く見えるからとか何とか言い訳をしたようだ)。今時こんな可愛い奴はないと思った。男だなとも思った。ついでに、その潔さが彼をキャプテンにした。憑き物が落ちたように、と言うのはこのことだろう。彼は、まるで180度違った人間になってしまったように部活動に打ち込みだした。彼らの下には宮地康仁以下7名の2年生と舟山以下18名の1年生がいて、3年生と合わせておよそ30名はいた。これをまとめてゆくのも大変なことだったろうが、吉村は元気だった。けれど、決してサッカーが上手いとは言えなかったし、負けの続く試合ばかりで、彼にとってこの冬はきっと長かったに違いない。
よくある話で、吉村は入試に失敗し、意に反してうちの高校へ入学してきた。荒れた時期もあってずいぶん遊びまわっていたようだが、同期のサッカー部へ戻って来いよ、吉村!という声にはっとした。そして、ギリギリの成績で2年生にあがったときに、僕のところへやってきた。そういうことだ。彼がキャプテンとなってから、ハードな練習をすると休む部員が続出するようになった。吉村も試合に勝つことより次の代のためのチームワーク作りに徹しようと思ったようだ。そのために、基礎体力を強化することや、上下関係をなくすために部員みんなで部室やグラウンドの整備をするようなことも考えた。下級生の面倒もよく看た。実は、吉村のお父さんはラグビーのコーチをしていて、吉村自身も子供時分はラグビー少年だった。後日談だが、お父さんは二松沼南とサッカー部を大層良く思ってくれて、インターネットで紹介してくれたほどだった。こんなこともあったことを卒業生のみんなには知ってほしいし、誇りに思ってほしい。
しかし、そんな冬も去り、関東大会の県ブロック予選も終わった後の4月29日(みどりの日)、僕たちは我孫子高校で練習試合をしていた。するとその時、突然に思いもよらない人間がベンチへ現れた。元井だった。用事があって手賀大橋の上を車で通りかかった彼は、たまたま赤赤々のユニフォームを着てサッカーをする高校生たちを目にした。もしやと思い橋を下って校内へ入ってくると、僕の車があり僕がいて、あの赤いユニフォームは高校時代に自分で選んだ懐かしいディアドラの赤だったいうわけだ。これはもう神様の引き合わせ、運命と言うほかなかった。卒業はしたけれど、教員の資格を得るために大学に残ることになっていた彼は、次の年の教育実習に向けて挨拶をしに、一月ほど経って今度はニ松沼南へやってきた。2年にはやんちゃ坊主の細川がいて、1年生には舟山や三木、小山がいてその他大勢灰汁が強くそれでいて磨けば光るような生徒ばかりいっぱいいたから、こんなにもったいないことはなく、僕は元井にコーチをやってみないかと声をかけた。元井にとってもニ松沼南サッカー部にとっても初めてのコーチだ。総体を最後に引退した浩一や寿眞たちにとっては、長くふれあうことがなかったが、1・2年生にとっては、驚天動地の大事件となった。特に2年生のキャプテンとなった宮地康仁には酷だったろう。それでも、お前がやらずに誰がやる!に、彼は応えた。今でもそうだが、「注文の多い料理店」の店長元井はスポーツマネジメント学科で、それも「集団スポーツにおけるチーム力向上の研究」なんていう卒論を書いたくらいだから(はっきりいう。高校在学中、講師の先生から出された古典の歴史についてのレポートの宿題に、彼は「サッカーの歴史」についてびっしり書いたものを提出した。担任の僕はそれを聞いて唖然とした。それはおまえファウルだろう!)、思いつくこと何でもやった。8月に初めての波崎での合宿、9月にお父さんやお母さんから理解を得ようと集まりを開き、その一週間後に卒業生を集めてOB会(飲み会)を持ち、12月に第1回目のOB戦を開いた。中でも過酷ながら楽しかったのは、12分間走・クーパーだったろうか。僕もみんなと張って走ったが、2、650m止まりだった。あの頃の1等賞は舟山の3、200mだったろうか(歴代1位は、この春平成18年卒の藤林勇輔の3、400mと記憶している)。宮地の代の榎本紀行ときたら、このときの体験があだになったかあるいは救いだったか、5年後の今に至っても週に一度はクーパーをやらないと気分が悪いらしく、ほとんど癖になってしまっている奇妙な男だ。とりあえず、きっかけは8TV、でなくとも健康的な毎日を送ってくれればいい。ポジション替えとポジション争い。これは部員みんなのモチベイションを上げ、チームの持てる力を底上げするのにはとても良い方法で、当たり前といえばそれまでだけれど、ことあるごとに「元井の野郎」と言っていた細川正司のふくれっ面を今でも思い出す。そんな彼も、今は青木先生のいる三郷市の瑞沼少年サッカーチームへお邪魔して、指導と言いながら偉ぶっているのが失笑(「野島の野郎」という声が聞こえる)。この代には、顔も甘いが性格も甘いお騒がせ、長谷川諭(今は真面目に働いてます、ご迷惑お掛けしました、と「ノジライ・フットサルカップ」で何年かぶりに会って言われ、成長を感じてうれしかった)と緑のトッパーのウィンドブレイカー上下を着てた笑顔のお坊ちゃマン金田優樹(「ノジライ」の夜にも着ていた。良く聞いたら中学の頃から着てきているという、なかなか物持ちな男だ)、それからとりあえず五人兄弟の長男市來直也(この春、弟の正也が僕のクラスを卒業。おめでとう!)もいた。この代も6人きりだった。波崎での合宿もやった。初めてだから、あなた任せの宿探しで、スポーツイヴェント専門の旅行社にとまるところを見つけてもらうしかなかった。宿が決まった後で正司がどこへ泊まるのか聞くものだから答えると、即座にあそこは止めておいたほうがいいと言われた。事実そのとおりだった。運動部の合宿とは思えない粗末な食事、いつ掃除したのか分からないジャリジャリで砂埃だらけの床や畳と気の休まる暇がなかった。正司は少年サッカー時代から波崎へ来ていて、この旅館が最悪だと知っていた。まあ、初めは何でも問題が多いのは仕方がないが、「熱」はあり、力は入った。何と言っても、いまだに続いている練習初めのランニング35分走、ボディーシェイプのための筋トレは地獄だった。顔で笑って心で泣いてる宮地。宿までの7kmマラソンはそれでもまだなかった。コーチの元井が、賞品を用意してサッカーについての問題を出した「サッカーテスト」やミーティングでの話は選手には新鮮そのものだった。
宮地たちが3年生になったこの年は、平成12年(2000年)元井が教育実習来た年だった。この夏の選手権は一次予選を一回戦で県立流山東高校に4-1で勝ち、ニ回戦を市川学園高校と戦って2-6で敗れている。それでも、市川から2点を奪った!