平成9年(1997年)には、どういうわけか元気な3年生が集まった。何と言っても黒澤勉だろう。今は新柏近くの県立KM高校で顧問をしているA先生が鎌ヶ谷の県立K高校にいた時分、トレセンの地区責任者をしていて黒澤を見てニ松沼南の名前を覚えてくれた。
体の絞れた、ちょうど舟山のような機敏さを持ったMFだったが強気で豪胆だった。DFには上背が合って優しい顔をした石橋弘行がいた。性格もそれと同じくらい優しい選手だったが、両親ともスポーツを自分から楽しむ家に育って取り組み方が理知的だった。
良く奮闘し、彼を思い出すといつも無口に、言われずとも気が付けばひとりストレッチをする姿を思い浮かべる。しかし、このチームはどうみても「我がまま」が集まったような集団だった。
それで、僕はFWの稲田俊介をキャプテンにした。猫のような目をした鋭い眼差しのやせぎすの選手だが、統率力はあった。たぶん彼でないとこのチームはまとまらなかっただろう。
ひとつ例を挙げるとすれば、伊藤哲也というGKだ。あれはいつの大会だったか、まだ教員になり立てだった講師時代の坂上先生が応援に来てくれたのを覚えているが、確か敬愛学園での試合だったように思う。
集合時間に来ないのだ。やっと現れた彼は、親に車で送ってきてもらい平気な顔をしていて、謝る様子もない。当時の僕は、この集団の力を知っていたがために駄目にしたくなかった。しかも、他の選手もどういう訳だろうか、規律というものを是認する、そんな僕からすれば逞しくも今は失われて懐かしい清すがしさを持っていたように思う。
僕は彼を先発からはずしたが、そのことについて誰一人として不満を言う者はないどころか、その場でぶち切れて僕に食って掛かる伊藤をあきれた顔で見るだけだった。みな冷静だった。
実のところ、彼らの我がままというのは、中心になって活躍した生徒たちの場合、利己的自己中心的なものではなかったように思う。彼らは一人ひとりがみなサッカーに対する自分の考え方や意見を持ち、本当に練習に打ち込んでいた。
不真面目な者を嫌っていた。そんな自分を、ピッチの上で本気で表現したかっただけなのだろうと思う。こんな奴らだから、例えば元井がこの代にいればと何度考えたことか。選手権でも、ニ次へ進めたことを僕は疑わない。「たられば」ですけれどね。何も手を加えないチームとしては、たぶん二松沼南サッカー部の中でも歴代NO1だったであろう。しかしながら、このチームの一番の功労者の名を挙げなければ話は終わらない。
DF梨本謙介だ。他の代ならば当然キャプテンだっただろう。言わば、舟山に対する西尾的な存在の選手だった。笑った顔がすこぶるいい、裏表のない根っから陽気な性格で、力量のある者と技術的には今ひとつだけれどサッカーが好きで最後まで部活動を続けてくれた生徒たちとの間に立って、調整役として良く働いてくれた。
頭も良く切れた。この代は中心にいた選手がみな良く勉強をした。いわゆる一組に集中していた。稲田も石橋も、この梨本もそうだった。人間に生まれついて学力や身体能力に多少の差こそあれ、努力や我慢という力には限界がない。
彼らがすばらしいと思ったのは、後者を目にしたからだ。最後まで部を続けてくれた選手の中に、佐伯雄一郎という小柄であまり目立なかった可愛らしい選手(失礼。高校生に可愛いは許せないことばだ)がいたが、一年浪人はしたものの早稲田大学へ進学していった。みなよく勉強もした、良き時代の二松沼南高校だった(ぐすん!)。
平山昌之や杵淵賢治の名も忘れないが、DFの関谷健一朗はこれも心優しくおっとりしているようで考え深い選手だったので忘れられない。フランス料理を勉強したいと一時期ディズニーランド近くのホテルで働いていたが、その後にフランスへ渡った。今も語学学校へ通いながら不法労働ではあるがレストランでアルバイトをして腕を磨いているはずだ。
このチームは一戦いっせんが楽しみだったことを思い出す。ここで言っていいことか分からないのだけれど、ひとつ推測でものを言う。「担任」のことだ。長く教員をしていて思うのだが、担任であるだけで何かが違うと言うことだ。あるいは担任でなくとも、その生徒の学年に所属しているかどうかということだけでも違うように思う。
目の届き方が違うのか同じ釜の飯を食う時間が長いのか、それは僕にも分からないけれど、影響力という点で確かに何かが違っているように思う。
僕は、稲田や石橋、梨本を担任した。元井もそうだった。彼の場合はそうしなければ、どんな人間になっていたか分かったものではない。兎に角、稲田をキャプテンにしたこのチームは、笑いもし、ぶつかりあいもし、躍動感に溢れていた。