田尻さんの弟から、藤田、という名前を聞いて、信一は、背中を押されたことの、お返しをしなければならない!と決めた。

   田尻さん姉弟と分かれて、信一は、善光寺の本堂に向かった。
   入り口の階段は、一段一段の段差が大きい。ヨイショ、ヨイショ、と、無言の掛け声を掛けながら上がる。
   本堂の床は、磨り減っていて、節だけがイヤに高くなっている感じ。ハイヒールを履いている人は、足元をよく見て歩かないといけない。 
     おびんずるさん、が、入って直ぐの所に鎮座坐す。拝観する人達 が、体のそれぞれの処に触れるので、賓頭廬尊者の顔面などは、お労しい御姿に。でも、それが、尊者の願いということなら、有難いことである。
   其処から前に進むと、大きな賽銭箱がある。その前に立って、その前方を見ると、広大な畳の間の北側に、善光寺如来の瑠璃壇。本田御三卿の木像。
   いつも、引っ切り無しに、信徒の姿がある。西側出入り口近くには、閻魔大王の大きな御姿がある。赤い顔面は、内心の怒りのせいか。信一は、この閻魔大王を見ると、いつも、心の内で、ごめんなさい、と言うのであった。
   東側の出入り口から、下へ降りると、右手の柱の下側が、捩れているのが目に入る。善光寺地震の時に捩れたものという。
   一旦降りた信一は、慌ててまた本堂の中へ入った。額に雨粒が当たったのである。
   一時、夕立のような雨。信一は、田尻さんを思った。どうか、この雨に会いませんように。
   信一は本堂から一歩外へ出た。見ると、東の空が青い。雲の切れ間が、見る間に広がっていく。やがて、その空に虹が、クッキリと現れた。信一は、その虹の鮮やかさに、我を忘れて見入っていた。ふと、我に返ると、田尻さんと一緒に、この虹を見たかったなぁと思うのだった。

   学校での朝。信一が教室に入ると、七、八人が固まって、教壇の前の席で、何やら話していた。
オスッ!信一の挨拶。皆一斉に信一を見た。「オ!石川!。あれ、どうなった?」
一人が聞くと、皆が、興味津々の面持ちで返事を待つ。
信一は、一同の顔を見回して、軽く咳払い。
「俺の背中を押したのは、藤田っていうヤツだということが分かった。誰か、ソイツを知っているか?」
「藤田なら知っている。あの組では、ハバをきかせているヤツだ」
一人が言う。又、他の一人が口を開く。
「アイツと喧嘩になりそうになったことがあるんだ。俺がガン付けた、と、モンクを言ったから、ナニオ!とニラミかえしたら、何も言わねぇで行ってしまった。後で聞いたら、藤田だった。そうか!アイツか!」
信一は、藤田がどんなヤツか、おおよそのことが分かった。
「俺は藤田と喧嘩しようとは思わねぇが、何
故俺の背中を押したのか、そいつを聞きてぇ」

   女子生徒が何人も固まって入って来た。教壇の前の席から、男子生徒は離れて廊下へ出た。なんとなく、皆が下駄箱の近くに固まった。
「オッ!アイツが藤田だ!」
一人が指さす。信一が見ると、アァ、アイツか!見たことがある!
履物を置いて藤田が信一の方へ来た。
信一は、藤田の前を塞ぐように前に出た。
「オイッ!藤田!この前、なんで俺の背中を押したんだ!」
藤田は顔を赤くして
「ワリィ、ワリィ、俺、人違いしたんだ!悪かった」
「人違いだァ!誰と見間違えたんだ!言ってみろ!」
信一は、コイツ嘘をついている!と思ったから聞いてみた。
「ウン、えーと、えーと」
「フザケルナ!俺はあれから腰が痛くなって、調子狂ったんだ!またあんなことしたら、タダじゃおかねぇぞ!」
信一のトーンは高くなった。後ろに居たクラスメート達も一歩前に出た。慌てて藤田は
「ワルかった!スマネェ」
ますます赤くなった顔で言うと、顔を伏せたまま、小走りに去って行った。
その姿を見て、喧嘩にならなくてよかった!信一は、殴り合った後味の悪さが思い出されて、アーァ、これで一件落着か!
                                                             つづく