梅雨が明けて夏本番。

 

あまりの暑さに外を歩くときは日傘をさすことにした。

 

これまでも何度かそうしようと思ったこともあったけれど、「まあいいか」と棚上げにしては「暑い、暑い」とこぼしていた。

 

ところが、日傘を使おうと決めてさしてみると、想像以上に暑さが凌げることを体感し驚いた。

 

私にとって日傘を使うデメリットは、使用時以外は荷物になることと、さしているときには片手が塞がること。

 

メリットは、もちろん直射日光を避け暑さを少し凌げること。

 

両者を天秤にかけた末の選択だった。

 

 

・・・というふうに、あれこれ考え、想像し、検討した上で人は選択するのだけれど、

 

例えば進学先の高校をどちらにするかという場合など、

 

検討材料として学力レベルや卒業後の進路、自宅からの通学の距離・時間・運賃の大小など数値で確認できることもあれば、

 

実際入学した後のクラスの雰囲気など、未来に属する不確定で予測不能のこともあり、

 

むしろ、未来に属する部分、つまりどうなるか分からないという不確定なものが付きものであることの方が圧倒的に多いだろう。

 

それでも何かを選択しないことには先には進めない。

 

そして、どちらも捨てがたく、結論を出せないまま、選択を迫られることもある。

 

そんなとき、コイントスや占いで決めることにしている人もいるかもしれないし、

 

「キミならどっちにする?」と意見を求めて他者に選択を委ねる人もいるかもしれない。

 

どんな形であれ最終的には自分で決めたのだと自覚しているのであれば、それでいい。

 

そもそも未来は不確定で様々な巡り合わせに満ちているものなのだから、

 

選んだ道に一歩踏み出して、何かにぶつかったらまたそこでどうするか選択したらいい。

 

だけど、自分で決めるということをしないまま流されてどちらかの道に進んでしまった場合には、

 

誰かのせいや何かのせいにしたくなり、思いは過去へ過去へと向かってしまうだろう。

 

生きているのは「今、この時」で、過去のあの時ではない。

 

「選ぶ」、「選択する」、「決める」は「今、この時」にしかない。

 

とてもエネルギーを要する作業だけれど、これらは生きることそのものだなと思う。

 

 

西尾心理カウンセリング 西尾

 

 

先々日、アメリカ人のある方が「日本には『空気を読む』文化がある」と言っていたのを耳にした。

 

10年くらい前、確かにこの『空気を読む』というフレーズは流行っていたように思う。

 

私がよく耳にしたのは、どちらかというと「空気を読もうよ」というふうに、他者にそれを求める形での使い方だったように思う。

 

そしてそれは最近流行りの『同調圧力』というフレーズに移り変わったように私の目には映っている。

 

日本という国は、世界に今ある国々の中で最初に成立した国であると最近知った。

 

そして日本の最初の時代とされている縄文時代には、狩猟や採集、農耕により自給自足の平和的な共同体社会が形成されていて、

 

人々は『みんなで一緒に』助け合い支え合って暮らしていたことが、遺跡発掘を通じて推定されているらしい。

 

そういったルーツが日本人の遺伝子に刻み込まれて受け継がれてきたかどうかは分からないけれど、

 

少なくとも、具体的な生活を通して次の世代の人々へと継承されていったということは言えるのだろうと思う。

 

この「『みんなで一緒に』助け合い支え合う暮らし」の継承が、『村八分』や『出る杭は打たれる』、そして『空気を読む』というフレーズが生まれた背景の一番底の方にあるのではないかと思う。

 

『空気を読む』というフレーズに、暗黙のうちに「合わせる」ことや「場にそぐわないことをしない」ように強要するニュアンスを感じる。

 

もっとニュートラルに、「場面や状況を理解する」ということで良く、その先の行動まで強要するのには違和感を強く感じる。

 

そして、この「場面や状況を理解する」ことは『思いやり』に繋がっている。

 

なぜなら、『思いやり』は「思い遣り」であり、「思いを遣ること」はあれこれと「想像を巡らせる」ことだから。

 

サッカーや野球など、スポーツの国際試合や東京オリンピックなどを通して、礼儀正しさや謙虚さとともに、日本人の「人への気遣い」が、海を越え、偏見を越えて知られるようになっているようだ。

 

 

西尾心理カウンセリング 西尾

 

 

カウンセリングの場でこれまで多くの人との出会いと別れを繰り返してきた。

 

カウンセリングの場では、その人が抱える悩みや問題と思っていること、解決したいと願っていることが語られ、そこからやりとりが始まる。

 

そして、そのやりとりを通して数々の不運な巡り合わせや避けようのない理不尽に何度も遭い、多くの傷つきを抱えていることを知る。

 

そして、それにもかかわらず、また現状はどうあれ、ここまで生き抜いてこられたことを知る。

 

 

カウンセリングでは、問題とされていること以外に様々なことについて話し合われる。

 

そんな中で、時折、ワイフワークが見えることがある。

 

「ライフワーク」についての私なりの定義は、

 

ずっと関心を持ち続け主体的に関わっていることだ。

 

そして、そのライフワークは自分の身に起きた様々なことと決して無関係なものではない。

 

だけど、往々にして自分ではそれに気づいていないことが多いように思う。

 

ライフワークは、ある意味でそれ自体が癒しであり、

 

生き抜いてきた自己の証明や自己への強い肯定、

 

そして、同じ苦しみを抱えている人たちへの支えへと繋がっていくのかもしれない。

 

 

西尾心理カウンセリング 西尾