二日ほど前、ふと思いました

ほぼ例外なく、たべものはつくる人のエネルギーとイコールだと


こんなこと今頃気づくなというかんじですけど、改めて実感したです


料理となると端的にそれが出ますよね


美味しいとかまずいとか、舌が感じる以上のことを体は受け取っている

その場では塩や砂糖、いろんな味付けにだまされてしまうこともあるけど
食事のあとに深いしあわせが押し寄せてくる

気が付けばそこにいるみんなが幸せなきぶんに包まれている、という食事があります

その食事をつくったひとのエネルギーの質がその空気を左右する
店のインテリアとか集う人の親密感とかでも変わりそうですが
いいエネルギーのせた食事は、そういう要素をとても小さくしてしまうくらい巨大で絶対的


うちのイチゴとか桃とか、子供うけがすごくいいんです
舌のトレーニングを受ける前のほんとに小さい子がどこに入るんだこの小さい体の、と
驚くくらいばくばく食べまくったり

これは、左脳で感じる「うまい」なんかではなく
エネルギーに感応しているんじゃなかろうかと思いますのです


以前、某有名レストラン評論家と取材旅行をご一緒したときに聞いたことですが
かれは生まれたばかりのお子さんに夢中の時期で、
飲ませるミルクにフランスから持ち帰ったトリュフをいれて飲ませているというのでした
なにゆえ?と聞きましたら
「舌は小さいときから鍛えるしかないというレベルがある」ということでした

ある意味では「そうですね」ですけれど、
そういうことよりもっと原始的なレベルで
親が与える教育以上のものを、乳幼児は食物からちゃんと受け取っている
のじゃないか


なぜ急に、たべものとエネルギーの相関に思いをはせたかといいますと

毎日しつこく、錦自然農園フルーツストア のサイトを微調整しているうちに

うちのフルーツのことを、ことばで書いたり、

写真にとって美しく見せたりすることは
無意味

と、わたしは信じていることに気づいたのです
(無意味と知りつつやるのをやめられませんが)


結局は、実際に食べて、そのエネルギーと自分があうかどうかがすべて。
あうのなら、満足感があるし

そうでないなら、そうでない
これはもう、問答無用。そうなのです


わたしはうちのおっとのことを好きになる前に、太秋柿のエネルギーとピッタリマッチングし
この果物のエネルギーの元を知りたく会いにいきました
鹿児島空港へ


会ってすぐに、食べ物で得たエネルギーの質と本人が一緒だったと思いました


うちのフルーツを食べている人がときどき遠くから会いにこられますが
フルーツの印象とふたりが同じだ
と必ず言われます

じぶんのことはわからないけど、かれは全くそうだと思います


サイトにのせたフルーツの、小さな写真の美しさで注文するかしないかが決まるなら
写真はできうる限り美しく撮ったほうがいいのかもしれないけれど

その努力は誰かをしあわせにするのかなと、二日ほどまえふと思ったのです


今日おさななじみの友人から

「エミのエネルギーとあうひとが買うんだから、そこに届けばいいんだから」

と言われました

何について言われたかというと、加工品のパッケージをプロに頼むかどうか迷っているという私の言葉に対して


「だからプロに頼る必要ない。自分で作った方が絶対いい。エミが届けたいひとに届く」


すごい大きな声で熱弁されてしまいました。


お客さんのほとんどは一度も会ったことのない、お声さえ聞いたことのない人たちですが
私はモノとお金を交換している気がじつはしていない


うちの畑でゆっくり育ったフルーツのエネルギーと、
お客さんのフトコロで温められたお金のエネルギーを交換して、
それが循環しているだけという気がしています