最近、(特に)教育現場で従事する方の悲痛なお声を直接耳にすることが増えました。
これは保育園から高等学校に至るまで、大変幅広く、わたしがご相談を受けていた方々の多くはすでに退職、または退職希望者です
内容は詳らかにはできませんが、中には「それ本当のお話なのですか?」と耳を疑うような劣悪な労働環境に置かれた方も散見されます・・・。
総じて、「言うは易し 行うは尚難し」の如く、正義を自らにではなく、お茶の間にぶつけて世論を誘導し、言っただけで、あとは現場でなんとかしなさい!といった風潮により、ミクロなコンプラを委ねられた方々が疲弊しきってしまった・・・という構図(これは教育現場だけではなくすべての職種に至るまで)になっていると個人的に感じております・・。
・・・とは言え、組織に身を委ねる限り、上下関係は必ず存在するのであり、なんぼイライラしても部下をいじめるような言動は慎まなければなりませんネ・・。
では、我が国における本来の上下関係とは、本来如何なる関係性が望ましいことを先人は今に伝えているのでしょうか?
これはわたし個人が思う所でありますが、712年(和銅5年)に編纂された古事記にその答えが綴られおります
そんなに難解ではありません。
イザナギの命に左の目から成り出てた太陽の如くあまねくこの世を照らす神「アマテラス大神さま」。
次に、右目から成り出でた太陽が沈んだ後に夜の世界を見る月の神「月読命(月・読とは夜見(よみ))」の関係性が重要だと思うのです。
そもそもなんで「月(つき)」は「つき」と呼称されるのでしょうか?
実はこの発音を「付き」と綴ると、はっ!とされませんか?
確かにアマテラス大神さまは、月読命の上位に立つ神なのです・・・が!夜がなければ昼はなく、休む時もない!
表があれば裏があるように、組織も陰で一生懸命働いてくださる方の存在があって、はじめて表舞台に立つ方が際立つが如く、上下関係とは「上を司さどる者(上司)」と「お付き」(部下や弟子など)が一体となって形成される関係性であることを先人は「太陽」と「月」から学んだのではないのでしょうか?
これが、いまでも「お日さま」と「お月(=付き)さま」と謂われる由縁ではないのかと思うのです
ならば、上司のあるべき姿とは、太陽のように暖かい心をもって現場を照らす努力をし、そこに付く部下は、いつかは自らもこうなる!と人柄を学び、まずは陰となり上司を支える
きっと、古のご先祖さまはそう願って、月を「つき」と呼称したのではないのかなと、こんなご時世だからこそ強く感ずる次第なのであります
新年度がスタートして充実した日々を送られている方々!
もし・・・上司がまったくもってブラックだとしんどい思いをされているとしても、ご自身が月であり、太陽のようなポジションについたときは、自分はこうはならないぞ!と反面教師にしてくださいネ
だって、人間関係においてもっとも重要な点は「言いたい放題言っているこの人が、いざとなったらわたしの人生の責任と取ってくれる存在なのかな?」っと自問自答すれば、答えはすんなり出てくるはずです