ジジイになったからだろうか・・・。疲れ果てて就寝しても早朝にはしっかりと目が覚める・・・。容姿はどうでも良いのですが、脳の整形は出来ないかな~~なんて子供もみたいな妄想に浸りながらも、そんなわたしの歩行を支えてくれる自らの足の裏に感謝をし、毎日を過ごしております
さて、過日、ある大学で英文学を専門とする女性教授とセッションを行いました!
英文学の味わい方を教授からご説明いただいた後、ではそれを日本人は如何に読み取って人生に活かすのかといった内容です
題材になったテキストは「ガーデンパーティー」という短編文学です
作者はキャサリン・マンスフィールド。
あらすじはローラという少女が虚栄心の高い母親によって自宅で開催されたガーデンパーティーに最初はなんの疑問も感じていなかったシーンから始まります。
パーティーで騒いでいる裏路地の家では、男性が死んだという知らせが入ったり、貧しい人たちが苦しむ光景などが展開される中、それも富裕層の私たちには関係ないと平然とパーティーを楽しむ母親に、ローラの心理状態が徐々に変化していくという物語です
この短編文学は、多くの高校や大学で教材として取り扱われておりますので、読んだ方もいらっしゃるでしょう!”
・・・・しかしですな・・・・流石に英文学の先生・・ネイティブの発音ですので、聞き惚れてしまいましたネ~~・・・わたしが読んだら、荒井注の「THIS IS A PEN」レベルだもん←もう荒井注を知っている世代が希少種だわ!
でね!この物語の味わい方は人それぞれだとは思うのです・・・。
富裕層と貧困層の差が、平等である命すら凌駕してしまっていいのか!・・なんて感じの感想が多かったですね~。
でもね!わたしの捉え方はもう少し踏み込んで、現代社会を取り巻くある種の「勘違いの正義」を比喩した物語ではないのかなと参加者にはお話しました。
先人はどんな聖人であっても、利己主義な心、欲望に走ってしまう愚かな心などは人である以上、ぬぐいさることは出来ないと考え、ならばそれを「祓う=追い払う」という神事で具現化し、日常生活にて実践しましょう!と考えました。
つまり、ローラのお母さんは「自己中心的な大人の象徴」であり、ローラは「虚栄心を自ら祓い退けようとする純真な子供の象徴」として描かれているのです。
お祓いという神事には「正義とは自身で悟り、自身に向け、自身で実行する」という意(こころ)が内在されております。
では、(最近は特にひどくなった気がする)我が国の「言論機関の正義」とは、果たして先人が残した神事の心が具現化されていると思われますでしょうか?
おそらく会場にいらっしゃる多くの方々は「これはちょっとやりすぎではないのかな?」「ここまで追い詰める必要性があるのかな?」「ここまで過去の出来事まで根掘り葉掘りしてこの方の将来を奪ってしまう必要があるのかな?」「そもそもそれは裁判所が決めることではないのかな?」と感じているのではなのかと思うのですが如何でしょうか?
なんでそんな疑問が沸くのかと言えば、答えは明瞭で、「彼らが自身に正義を向けなくなったこと。次にスキャンダルの判断を市民を扇動することで判断させ、実態はそれをもって莫大な広告収入を得るという本末転倒な性質に気づいていないこと」の2点だと考えております。
つまり、読み手のわたしたちは「情報」の裏にある「広告収入」という実態に気づかず、例えばテレビのコメンテーターが語るコメントも「何言ってんのこの人!内容が薄いーー!」などと本気で受け止めてしまっている「カラクリ」に気づいていないのです。
ローラのように正義とは自身に向けるという至極まっとうな判断力を思い出し、目の前に広がる数えきられないほどの「虚栄=情報」を落ち着いて判断した時、行き過ぎた正義・・・ではなく、間違った正義という病巣を治療することが可能となるのではないのでしょうか?
・・・・って感じのお話をしました!
大学生の女子が挙手して「確かに!今って政治が悪い!あれが悪い!これが悪い!っていう人ばかりですが、先生(一応わたくしのこと)のお話を拝聴して、先ずは家族や地域、国家を形成する自分自身が動くことが大事だと強く思いました!」と意見してくださいました。
私たち世代の感覚からさらに先人に近づいて、共存共栄の心を取り戻してほしい!
どこまでお役に立てるかはわかりませんがジジイも精一杯頑張りたいと思います!