知り合いの御夫婦が結婚50年を迎えました・・・人生の大先輩
いつも大変仲がよく、お二人で散歩したり、ショッピングをしたり、お孫さんの面倒を見たりと、微笑ましい限りです
ところが、この御夫婦にお別れの時が迫っています・・・。
とても元気だった奥様のご体調が夏頃からすぐれず、検査したところ、すでに末期の病と診断されました・・・。
お二人は相談し、ご自宅で「その時」を迎える決断をし、現在、ご主人は離れることなく奥様に寄り添っております・・。
お見舞いに参りますと、奥様はベッドから笑顔で話しかけてくださいます。
先日もお邪魔かな~~っと思いつつも、わたしの馬鹿話で心が楽になると言われたので調子に乗ってお見舞いに参上!
やはり日を追うごとにご体調は・・・・・書いている時点で涙ぐんでしまいます・・・ごめんなさい。
色々なお話をしていると奥様が「ねえ、教えてちょうだい・・。結婚式の時に誓いの詞(ことば)っていう祝詞を夫婦で読むじゃない?あれって、この世で別れても心は離れないって意味でいいの?」と問いかけてきました・・・。
ここで抽象的な言い回しで「はい!それで良いと思います!」と言ったら、多分わたしは今後一生後悔すると感じて、めちゃくちゃ学術的な話を展開しました
当然奥様は「????」って感じで、少し微笑みながら「あっちゃん・・・もう少しわかりやすい説明してくださる?いつもの講演みたいな感じで・・・」と言われました←この時は皆で爆笑しました
それでも理解を促すには、口頭では難しく、結局新聞広告の裏側にマジックで字を書くという講義スタイルになっちゃった~~
現在「誓」と綴るこの言葉は、元来「手交ふ(ちかう)」の意とされ、約束を交わす際には、お互いが手を握る行為から始まったとされております。
でもわたし自身はもう少し踏み込んだ意味があったと考察しており、現に多くの学者がこれに言及しております。
すなわち手を握るとは、あくまで約束を形にした行為であり、精神的な意味は、それよりも太古に答えがあるからです。
本ブログでは常より「命」とは「生きるための知恵」の意であり、「生の知(いのち)」が本義と綴っております。
知(ち)とは、知恵であり、さらに「血重(ちえ)」ですから、遠い先祖から伝承されてきた、したがって血が世代ごとに積み重ねてきた叡智であり、現に私たちが存在している証であります・・・先祖が一人でも欠けていたらこの世に存在しませんからね。
さらに新たな生命は、夫婦の血が重なり、それがきっかけとなって、自然の恵をうけてこの世に誕生します
さらにさらに!!「血」とは、御霊とも繋がる「霊(ち)」と同意です
次に「誓い」の「かい」の部分ですが、これは「交ふ」を意味すると捉えて良いでしょう。
すると我が国においての「誓い」の意味とは「お互いの霊・血(ち)を交える尊い行為」となりますネ
かつての先人は夫婦は「1(妻)+1(夫)=2(夫婦)」という捉え方ではなく、「0・5(妻)+0・5(夫)=1(夫婦)」という概念を持っていました。
だからこそ、夫婦離れ離れになっても、そこに誓いがあればこそ霊(ち)は離れることなく交わり続け、そこに「永遠の愛」が生き続ける
こんな拙いお話でも、奥様はぽろぽろと涙を流しながら「よ~~く分かったわ!ありがとうね!」と喜んでくださいました
奥様は「大和言葉・・・それをしっかりと理解できれば、きっと!もっと!多くの人々の心は豊かになるあなたのお役目はそれを実践し、伝承すること!それを私の前でしっかりと誓ってネ・・・そしてわたしをしっかりと次の世界に送る儀式をしてよ!」と言われました!・・・・これはかなりの重圧~~
でも私の本心は、やっぱりその時が来るのを、少しでも、1秒でも遅らせて欲しい・・・。
帰路、大きな病院の前を通ると、ポツポツと病室の灯りが見えます・・。
いつも何気なく見ている灯火・・・。
でも今はこれがお一人お一人の命の灯火とまったく違う感覚で見えるように心が変化していることに気づきました・・・。