結局、書くとこはここになった。2016年4月末に、その後の私の人生から「左半身」をうばってしまうこととなる「右脳脳内出血」を起こして(おそらく)歩行人の方の119番への通報で現場到着からほんの20分弱ほど救急車で搬送された。そしてそれから6年以上経ったつい先日、突如自宅で様子がおかしくなり、妻と娘の判断で救急車を呼んで同じく20分強ほど、救急車で搬送された。搬送された時間も、救急車の中の設備もさほどかわっていないだろう。それでも不思議とこの2回には、はっきりとした「違い」がある。それが今日のお話のメインテーマだ。
「前回」の時については、全くと言って良いほど、救急車の中の記憶がない。救急車の中なんて、滅多に見られるものではない、少しでも憶えていても不思議はないのに、まったく、本当にかすかなイメージすら、記憶にはないのだ。しかし一方、今回は、自分が寝かされているストレッチャー、そのすぐ横に座る妻と娘。その二人の顔は、娘は,.とんでもなく可愛く、妻は.,とんでもなく心配げで泣きそうなほどに不安だった。自分はストレッチャーの上に仰向けに寝かされていたと思うが、時々右横を見て、二人の顔を確認していた。
なぜ、こんなことが起きるのだろう?
しばらく経ったので思い出してみる。両者に状況や見た目上の違いがあったとは思えない。だとすれば、あるのは自分自身の「心持ち」だ。今回は2度目ということもあり、前回以上の障害や最悪の場合このまま死亡、とあうこともあったかもしれない。そして一方の自分としては、「そんなことないよ」「心配するな」というサインを出して二人を安心させなければ、というのが素直な気持ちだった。反面前回は、結構ハードな仕事明けだったこともあるが、散々身体には悪いと言われることを散々やり尽くした果てのオトコだったので、自分も淡々と運ばれて行く医療パーツのひとつ、と言うような感じを感じていたのかもしれない。

こうした自分の意識の違いが、両者の記憶の違いをうんだのかもしれない。

妻よ、娘よ、父はあれでも、「心配かけないようにしよう」と、頑張っていたのだ。
精一杯。