『お伽草子』サントリー美術館。2012年9月22日。

まずは、以前採り上げた『長谷雄草紙』が展示されていて、思わずニヤニヤ。『ささやき竹』『一寸法師』なども。『是害房絵巻』は『今昔』の智羅永寿だな、などと考えながら展示を見ていく。
この形式の展示では、どうしても、〈お話〉そのものよりも、〈絵〉の方に関心が行くのは仕方がないだろう。で、その絵だが、一言でいえば玉石混交。大津絵並の稚拙なものもあったりして、ま、それはそれで味があって面白い。物語が公家から武士、一般大衆のものへと移って行ったということ(この展覧会の隠し?テーマでもある)と関連があるのかしらん。
ところで、絵として最も興味深かったのは、『しぐれ絵巻』。なんだ、この目は! 〈引き目鉤鼻〉の引き目が二重まぶたでお目々ぱっちりになっとる! なんとも異様で、チープ。『男衾三郎』のカミさんと子供たちを思い出した。

意欲的な展示は、『調度歌合』。調度が夜中に歌合をおっぱじめるという話だそうだが、絵巻がないので、実物の調度類を絵巻の代わりに展示。とてつもなく地味だが、いい趣向だと思った。


図録の[あいさつ]に〈お伽草子ファンの皆様、お待たせいたしました!〉とあったのには笑ったが。いないでしょう、ファンなんて、そんなに。とは思ったが、サントリー美術館のようなお洒落な美術館が、こんな大風呂敷広げつつも、お伽草子関連の展示をやってくれるっつうのはありがたいことです。

『ジェーン・エア』

http://janeeyre.gaga.ne.jp/


監督 キャリー・ジョージ・フクナガ

ミア・ワシコウスカ(ジェーン・エア) マイケル・ファスベンダー(エドワード・フェアファックス・ロチェスター)

ジェイミー・ベル(セント・ジョン・リヴァース) ジュディ・デンチ(フェアファックス夫人)


というわけで、映画の「ジェーン・エア」を観てきた。ミア・ワシコウスカさんは、美人ではないジェーンにはぴったりだし、ロチェスターから愛を打ち明けられるシーンの喜びの表情がなんとも可愛らしかった。マイケル・ファスベンダーは渋くていい男で、美男子ではないが魅力のある男のロチェスターとしては、いいんじゃないでしょうか。信仰第一のセント・ジョンのジェイミー・ベルは、それほど出番が多くないので、いいとも悪いとも。さすがの貫禄ジュディ・デンチさんは、フェアファックス夫人にはぴったり。もっとも、お話の中ではそれほど重要でない役どころだけれども。


ジェーンがロチェスターの屋敷を飛び出し、ムーア・ハウスにたどり着くところから始まり、子供時代や、ロチェスターとの出会いからジェーンの出奔までは、回想シーンとして描かれる。子供時代はだいぶ割愛されているが、まあそれほど気にならない。


原作と違うところをいちいちあげつらうのも野暮な話である。が、それでも気になったところがいくつか。


セント・ジョンがジェーンのもとに彼女に莫大な遺産が入ったことを伝えに来る場面。ノックの音にジェーンがドアを開けると、そこに立っていたのは、なんとロチェスター! 二人は口付けを交わし、で、次のシーンで、ドアの外に立っているのはセント・ジョン。つまり、ロチェスターはジェーンの空想であったというわけだが、これは要らんだろう。ジェーンの心の中には常にロチェスターがいるということを表現したかったんだろうけど、ここでそれを表現する必要もないし、第一映像的に分かりにくかった。


謎の女グレイス・プールの存在感が希薄、というより、ジェーンが彼女を意識することは映画の中では一度もなかったはず。つまりは、怪奇趣味的な要素がほとんどなくて、それはそれでいいのだろうけれども、そのせいか、ジェーンがロチェスターの妻と引き合わされる場面が、あまり衝撃的ではなかった。衝撃的でないといかんのかと言われれば、そりゃ人それぞれでしょうと言うしかないが。それよりも、ロチェスターの初婚の事情がなんかよく分からん。いや、こっちは原作読んでるんで分かってるし、映画の中でもロチェスターが説明してはいるんだが、このロチェスターの説明があまり説得力がないような気がしてね。原作知らない人がこの映画を見て、ここんところすんなり受け入れられるんだろうか?


その後のロチェスター氏の事情の語り手として、原作ではお暇を出されていたフェアファックス夫人のM、じゃなくて、デンチ女史登場。ま、いいか。これだけの大物、ギャラも高いんだろうから、使えるだけ使っとけばいい。別に不自然じゃないし。


でもね。その後のジェーンとロチェスターの再会シーンはがっかり。使用人のジョンとメアリ夫妻が全然出てこないのでエンディングはどうなるのよ、と不安に思っていたら、案の定ロチェスターとジェーンが直接対決(^_^;)。ジェーンがメアリに代わって水を運んだり、思わせぶりにセント・ジョンの話をロチェスターにして彼の嫉妬心をかき立てたりという、私としてはこの小説のもっとも好ましい部分がなくなっているというのが、なんとも残念。





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狙公賦茅曰朝三而莫四衆狙皆怒曰然則朝四而莫三衆狙皆悦      『荘子』斉物論篇

猿回しの親方が、ある朝猿たちに言った。
「今日から餌の茅(とち)の実を、朝に三つずつ、夕方には四つずつにしよう」
猿どもはそれを聞いて怒った。
「ならば、朝に四つずつ、夕方に三つずつとしよう」
猿どもはそれを聞いて大喜びした。

ご存知、朝三暮四の一節。見かけの違いにとらわれて実質が同じであることに気づかないこと。

中公文庫の森三樹三郎先生の『荘子』を読んだのは高校生の頃だから、はるか遠い昔のことである。今、講談社学術文庫の福永光司先生のもので読み返している。福永版は、語注と解説が一緒なので、若干読みづらいが、欠点と言うほどのものではない。

で、朝三暮四。読んでいて変なことが気になりだした。そもそも狙公(猿回しの親方)は、それまで茅の実をいくつ猿どもに与えていたのだろう。

答えは八つである。朝に四つ、夕方に四つ。景気が悪くなってきたので餌代を減らそうと考えて、狙公は、一日一頭あたり八つの餌を、七つにしようとしたのだ。と、それまでは何の疑いもなくこう思ってきた。

が、それなら、朝に三つと聞いて猿が怒るのは分かるが、朝に四つと聞いて猿が喜ぶというのは変ではないか、これまでと変わらないのだから。

と、こう考えて、それまでは朝に三つと半分、3.5個だったのではないかとも考えたが、そんな刻み方は寓話としてはありえないだろう(なぜ寓話だとありえないのかと訊かれても、なんとなくとしか答えようがないが)。だいいち、夕方には何個で、一日何個だったのかと考えると、こんがらがってくる。

それじゃあ、荘周先生がそもそも設定を間違えていて、例えば朝に五つで猿が喜び、朝に三つで猿が怒ったとすべきだったのではなんてなことも考えてみた。

てなこと考えているうちに、ああそうかと。やっぱり、朝に四つ、夕方に四つ、一日で八つでよかったのだと気がついた。

猿は、最初いつもよりも少ない三個を提示されて怒り、次に、最初提示されたよりも多い四個を提示されたので、それがいつもと変わらぬ個数であるにもかかわらず喜んだのだな。目先の朝飯の茅の実の個数にしか頭が回らず、夕方の個数や一日でいくつかなどという計算など吹っ飛んでいたということなのだなと。

さすがエテ公、猿知恵である。もっとも、一周回って同じ地点にたどり着く俺もたいしたものだが。

ちなみに、朝に3.5個とすると、一日8個を7.5個に減らそうとしたと考えればつじつまは合う。が、やはりこんな刻み方はない。なぜと訊かれても、以下同文。朝五個だと、夕方二個ならつじつまは合うが、これなら朝に七個で夕方無しでもいいことになる。本物の猿ならそれでも騙されるかもしれないが、人間を惑わすには、数の違いが多すぎる。

てなことを考えた。


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