今日から仕事始めという方も多いと思います。

明治2年(皇紀2529・西暦1869)の「1月4日」に、年の始めに初めて政務を執る儀式である政始(まつりごとはじめ)が行われ、旧暦から新暦に改まってからも、以後恒例として現在に至っています。

それに倣い、民間でも「仕事始めの日」となります。

今でも新年を迎えた後、本格的に社会が動き出す日となっています。


この1月4日にお話ししたいことを、今年も皆さまへお届けします。

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明治6年(皇紀2533・西暦1873)には「五節供」を廃し、神武天皇即位日(2月11日)と天長節(当時は11月3日)を祝日と定めます。

この「五節供」は「五節句」とも書きますが、人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)の総称です。

以来、国の公的な国民の祝祭日としてではなく、民間の私的な年中行事として現在でも定着しています。


昨年にも皆さまへお伝えしたことなのですが、私は自治体ごとに、こうした民間年中行事を公的に主催して住民相互の親睦と地域共同体の保持に勤しむような地方自治の在り方があっていいと思っています。

マクロとミクロが有機的に結合した複眼的かつ多面的な文化的社会の生成が求められているのではないでしょうか?

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明治10年(皇紀2537・西暦1877)の今日には、地租を減ずる詔書が渙発されます。

明治維新前後、国内の動乱と国外からの脅威に向き合う中で、多くの人々が苦しい生活へと追いやられ、一般庶民の貧困と苦難の日常は大変厳しいものがありました。

新しい時代へと歩みを進めていく中にあって、畏くも 明治天皇には何よりも民の苦労へと慈しみ深き大御心を寄せられ、今でいう「減税」の詔書を渙発せられました。


ここに謹んで「地租軽減ノ詔」を奉戴致します。


**地租軽減ノ詔【明治10年1月4日】

朕惟フニ維新日浅ク中外多事国用実ニ貲ラレス而シテ兆民猶ホ疾苦ノ中ニ在リテ未タ富庶ノ沢ヲ被ラサルヲ愍レミ曩ニ旧税法ヲ改正シテ地価百分ノ三トナシ偏重無カラシメントス今又親ク稼穡ノ艱難ヲ察シ深ク休養ノ道ヲ念フ更ニ税額ヲ減シテ地価百分ノ二分五厘ト為サン有司宜ク痛ク歳出費用ヲ節減シ以テ朕カ意ヲ賛クヘシ


「兆民猶ホ疾苦ノ中ニ在リテ未タ富庶ノ沢ヲ被ラサル」
「今又親ク稼穡ノ艱難ヲ察シ深ク休養ノ道ヲ念フ」
畏くも 仁徳天皇の「民のかまど」を思わせる御仁慈を拝するかのようです。


これまで私たちは、慢性的なデフレ不況と新型コロナウイルス感染症(武漢肺炎)の流行以来、生活も雇用も健康も、大変深刻な苦境に立たされ続けてきました。

それに加えて慢性的な物価高まで加わり「デフレ+物価高」という最悪の「負のスパイラル」と思しき事象が重く圧し掛かっている実態があります。


以前こちらでもご指摘した通り、バブル崩壊後に迎えたデフレ不況の中、少子高齢化の増悪という状況も加わって戦後旧来の「中福祉低負担」という社会システムを保持することが叶わなくなったことから革新側から「行税制改革」や「聖域なき構造改革」などと銘打った様々な「改革」と称する革新政治が推進されてきました。

ざっくりまとめてみます。

【革新側からの「改革」】
◇少子高齢化+財政健全化=増税+緊縮財政
◇「経済成長」を促進するための規制緩和+グローバル化による自由貿易の推進=競争原理に基づく自由市場の開放+国際化
◇外国人労働力の受け入れ=移民促進

今回は特に「少子高齢化+財政健全化=増税+緊縮財政」という点に注目します。

■「少子高齢化+財政健全化=増税+緊縮財政」の「理由」とは

◇「少子高齢化で旧来の低負担では今の中福祉を維持することが困難だから増税」
◇「財政赤字が悪化しており、このままでは日本の財政が破綻してしまうので財政の支出規模を縮小する」
◇その結果、中福祉水準を維持するために実際上は高負担を国民が背負うことに→「中福祉高負担」

要するに

財政健全化+経済成長=緊縮財政+規制緩和・撤廃→「慢性的なデフレ不況+高負担による国民所得の低下・消費低迷」

という「負のスパイラル」に陥ったことが「失われた30年」の真実です。


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御歴代の 天皇陛下の大御心を拝しますと、あるべき日本の姿を見ることができます。

私ども国民を赤子とお慈しみくださり、大御宝とも思し召される 天皇陛下のご君臨を仰ぎ奉る日本で、こんな過ちが許され続けていいわけがありません。

大詔奉戴、承詔必謹の大義を弁えれば、この非常時に政府が取るべき政策は積極財政・消費税免税・民生支援です。

国防・安全保障に重点を置き、軍事力を整え、経済面では政府が経済活動に積極的に介入することで、社会資本を整備し、国民の生活を安定させ、所得格差を是正し、社会的には国体を明徴にし、国民精神を涵養振作しながら文化の発達を促し、完全雇用政策と社会保障政策とによって全国民の最低生活の保障と物的福祉の増大とを図りつつ、伝統的価値観・社会規律の保持・復活を目指す国こそが、正統(正当)なる皇国日本です。

「すべての国民が幸せで、文化が栄え、みんなが健康的で、豊かに生きる国にする」
「国力が強く、すべてのことが興隆し、国民が世界に羨むものがなく生活する国にする」
「そのためにできるあらゆる可能性を現実的に模索し、歴史的体験と知恵を創造的に適用しながら未来を紡ぐ」

何よりもまずこうしたことを「はじめの思考と考察の出発点」としなければ、「その先」へのプロセスやシステムなどへの展開・発展が生まれません。

アイデアや創造的発展を育むことができないからです。

今に一番欠けているのはこの点です。

まず発想や思考、考察の原点を見直すことから、日本の再生・復興・復活の一歩は始まります。


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そして明治15年(皇紀2542・西暦1882)の今日。

畏くも 明治天皇には優渥なる勅諭を陸海軍人に賜います。


世にいう「軍人勅諭」です。

軍人が守るべき忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五箇条について諭されたものですが、江戸時代に肥前国佐賀鍋島藩士であった山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた武士道の教え「葉隠」と共に、日本人の心のエッセンスに彩りを添えてくださった勅諭のひとつです。

ここに謹んで「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」を奉戴致します。


**陸海軍軍人に賜はりたる勅諭【明治15年1月4日】

我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中国のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屡なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐国風に傚はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打続ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り遂に武士となり兵馬の権は一向に其武士ともの棟梁たる者に帰し世の乱と共に政治の大権も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剩外国の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を悩し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の専蒼生を憐み給ひし御遺沢なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を弁へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我国の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大権は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には委すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か国家を保護して上天の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽ささるとに由るそかし我国の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其誉を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を国家の保護に尽さは我国の蒼生は永く太平の福を受け我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

一 軍人は忠節を尽すを本分とすへし凡生を我国に稟くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき況して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑国家を保護し国権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ
一 軍人は礼儀を正しくすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷属する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧きものに対しては総へて敬礼を尽すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤労せよ若軍人たるものにして礼儀を紊り上を敬はす下を恵ますして一致の和諧を失ひたらむには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし
一 軍人は武勇を尚ふへし夫武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を弁へ能く坦力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を尽さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を践行ひ義とは己か分を尽すをいふなりされは信義を尽さむと思はは始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧気なる事を仮初に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に践迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき
一 軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陥りて志も無下に賤しくなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるる迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜条例を施行し略此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等閒にな思ひそ

右の五ヶ条は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五ヶ条は天地の公道人倫の常経なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや



国民皆兵」が普通であったかつての日本。

一般庶民にとってもこの「軍人勅諭」の聖諭を奉戴し、一意奉公の至誠を抜きんで忠節を尽くし、軍務に勉励し、もって国威の伸長に努めることは「ありふれた日常」であったわけです。

それは西洋における「ノブレスオブリージュ」を広く一般庶民まで含め全国民が共にしていることを意味しており、古今東西、極めて稀有なことで、まさに文字通りそれを実現していたことは奇跡といえます。

そうした「ありふれた日常」は、あの大東亜戦争敗戦の日まで続きます。

滅亡的な敗戦によって崩壊寸前となった国を立て直す戦後復興は、焼け野原と化し、瓦礫の山となった風景の中で「在りし日の日常を取り戻す」というあまりにも切ない想いから始まりました。

そこから所得倍増・高度成長への大躍進を経て、「世界第2位の経済大国」「一億総中流社会の実現」への道を登っていくことになります。

こうした「戦後復興から高度成長へ」という「東洋の奇跡」と世界から称賛された歴史的偉業は、かつて教育勅語や軍人勅諭などを心に刻んだ世代の皆さまの懸命な努力によるところが大きいです。

承詔必謹、大詔奉戴という先祖代々の大義を貫いた成果こそが、日本の繁栄につながり、日本人の豊かさへとつながるという歴史的実証ともいえるでしょう。

畏くも 昭和天皇には戦前・戦中・戦後と全く変わらずご君臨くださり、その大御心が民心の安定と活力の源となって国民一人ひとりの努力が実った昭和の聖代を、この令和の御代に振り返れば、言葉にならない想いが清涼な感動となって、常に胸を熱くさせられます。

「戦後を通じて忘却の彼方に追いやったこと」
その中でも「いつの時代であっても大切なこと」を思い返し、それを今と未来へ生きる希望や幸せへとつなげていきたいものです。


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明治23年(皇紀2550・西暦1890)には、天皇陛下の大御手代として神宮の祭祀を司る最高の職である神宮祭主は 皇族を以て任ずことが決まりました。

「日本」という「時間」がひとときも変わらず流れ続ける 皇室や神社、聖蹟や聖域、歴史的伝統の年中行事や大切に遺された史蹟。

その「時の営み」が太古より変わらず「空間」として現出している貴重なサンクチュアリーともいうべき「場」です。

お正月に初詣へ参られた方も多いでしょうが、年頭にあたり気持ち新たにお参りをしたその想いの中に、悠久の「日本」へとともにつながる祈りを込められた方もおられると思います。

その素敵な祈りをともにしたいと思います。


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私たち「日本学会」も今日から、現実の環境と条件の中でできる、各地・各分野それぞれの学活(学会活動)や特活(特別活動)を開始しました。

令和6年の学活始め+特活始めです。

「国体明徴の年」そして「日本ルネサンス(令和の文芸復興・学芸復興)の年」となるよう、日本学会員一同変わらぬ努力を重ねてまいります。

幅広いご理解とご賛同のほど、よろしくお願い申し上げます。

最後に、畏くも 昭憲皇太后の「新年梅」というお題の御歌(明治35年 歌御会始御歌)を謹んで奉戴致します。


おほきみの 千代田のみやの 梅の花 ゑみほころびぬ 年のはじめに
口語訳:皇居の梅の花の莟が、新しい年のはじめに、にこやかにほころびはじめました。何とめでたく、うれしいことでしょう。
『明治神宮編・発行『新版 明治の聖代』(平成27年11月25日第五刷・明治神宮)』



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上御一人に対し奉り日夜それぞれの立場に於て奉公の誠をいたす。
我等は畏みて大御心を奉体し、和衷協力以て悠久の臣道を全うせんことを誓いまつる。

天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年も続いてお栄えになりますように。

国体を明徴にし、国民精神を涵養振作するという一点で手をつなぎ、肇国の由来を詳らかにし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、もって国民の自覚と努力とを促すため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めましょう。

「国体の本義、いまこそ旬」
「国体の本義、臣民の道、明日をつむぎ未来をひらく」
「失った日本を数えるな、残された日本を最大限生かせ」
「新しい日本の世紀、紀元2700年へ!」
想いを共に

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