おはようございます♬
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🌸今日の誕生花と花言葉🌸

 

名 称 ストック

花言葉 愛の絆・永遠の美

 

名 称 アカシア

花言葉 豊かな感受性

 

名 称 ムスカリ

花言葉 夢にかける思い

 

☆2.26事件の日

1936(昭和11)年、2.26事件が発生しました。 陸軍の皇道派の青年将校が、対立していた統制派の打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸等を襲撃しました。内大臣・大蔵大臣等が殺害され、永田町一帯が占拠されました。 当初、陸軍の首脳部は青年将校たちの行動を容認する態度をとっていましたが、海軍が鎮圧を要求し、天皇も同様の立場をとったので、29日に鎮圧を開始しました。飛行機から「下士官兵ニ告グ」のビラを撒いて帰順を勧め、「今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ」との投降を呼びかけるラジオ放送を行いました。形勢が不利になったと判断した将校たちは兵を原隊に帰し、2名が自決、残りの者が自首して、その日のうちに鎮定されました。

 

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今から約88年前の1936年2月26日、陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行しました。それが『二・二六事件』です。このとき高橋是清(たかはしこれきよ)、斎藤実(さいとうまこと)など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になりました。事件後に開かれた軍法会議では、「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定しました。主謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心に死刑となり、刑はすぐに執行されました。

この事件の背景にはいったい何があったのでしょうか。

 

実は、事件の起こる6年前、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に見舞われました。企業は次々と倒産し、町は失業者であふれました。さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく(農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出てきました。

 

こうしたなか、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件が続発しました。また不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが肥え太る状況が生まれました。このため、人びとは政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍)に期待するようになりました。こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指すようになります。

 

実際、過激な計画や事件が続発していきます。クーデターによる軍部内閣の樹立を計画する陸軍青年将校を中心とする桜会、現役の犬養毅(いぬかいつよし)首相を暗殺(五・一五事件)した海軍青年将校、一人一殺を標榜して財界人を殺害する右翼の血盟団などです。ちなみに、当時の陸軍には「統制派」(とうせいは)と「皇道派」(こうどうは)という2つの派閥がありました。「統制派」は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥です。彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えています。これに対して「皇道派」は、天皇親政を目指し、そのためには武力行使などを辞さない一派です。

両派の対立は、「統制派」が勝利します。ところが1935年、「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長を、「皇道派」の相沢三郎(あいざわさぶろう)中佐が斬殺する『相沢事件』などがおきました。

これに、「皇道派」は大いに力を得て翌年、クーデターを決行したのです。

青年将校は天皇を中心とした新しい政治体制を築く『昭和維新』を掲げ、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張しました。

 

時の陸軍大臣も、「おまえたちの気持ちはよくわかる」といった訓示を出すなどして、事件を起こした青年将校の要求に沿うように見えましたが、思いもかけぬ誤算だったのは、「皇道派」が最も崇敬していた昭和天皇(しょうわてんのう)は、彼らを「賊徒」(ぞくと・政府に対する反逆者)と見なしたことでした。自分の重臣たちを殺されたことに、昭和天皇は激怒し、自ら早急な鎮圧を陸軍大臣に指示しました。

 

天皇が自ら軍に指示したことは極めて異例なことでした。

しかし、同士討ちを避けたい陸軍は、武力で反乱を鎮圧するのをためらいました。すると天皇は、「私が自ら軍を率いて平定する」とまで明言したといいます。ここにおいて、軍も本格的に動き出しました。アドバルーンをあげたり、ラジオ放送などによって、永田町一帯を陣取る反乱軍へ原隊への帰還を求めました。その結果、将校たちも観念して兵たちを原隊へと帰らせました。将校の二人は武力行使の責任をとって自決しましたが、その他の将校たちはこれらを「統制派」の陰謀と考え、『五・一五事件』、『相沢事件』と同じく、裁判闘争に訴えようと自決をやめ、宇田川町(現在の東京都渋谷区)の『陸軍刑務所』に収監されました。

 

 

☆咸臨丸の日

1860年、幕府が派遣した使節団が、咸臨丸による太平洋横断航海を終えてサンフランシスコに到着した日。咸臨丸出港の碑が1960年(昭和35年)に日米修好100年を記念して建立されている。

 

☆脱出の日

1815年のこの日、エルバ島に流刑されていたナポレオンが脱出し、パリに向かった。

 

☆パナマ運河開通記念日

1914年(大正3年)のこの日、中央アメリカのパナマ地峡を開削して太平洋と大西洋を連絡するパナマ運河がアメリカにより開通した。

 

☆血液銀行開業記念日

1951年(昭和26年)のこの日、輸血に必要な血液を常に確保し、必要に応じて供給する血液銀行(現在の血液センター)が発足した。

 

[[著名人の誕生日・命日]]

良忍上人忌

平安時代後期の僧で融通念仏宗の祖・良忍の法要の日。 亡くなったのは1132(長承元)年2月1日ですが、法要はこの日に行われます。1773(安永2)年に聖応大師の諡号を贈られました。