おはようございます♬
いつも私の拙ブログ村お越し頂きありがとうございます。



昭和16年12月27日條約第20號、大東亞戰爭中に大日本帝國と泰王國の間に結ばれた同盟に関する條約。

「歴史」
―背景―
大日本帝國と同じく独立を保ってきた泰は、同じ亜細亜人として日本の政策にはおおむね好意的で、満洲事變後のリットン調査團の報告によって、國際聯盟における満洲國の合否判断の際も投票を棄権し、満洲國も國家として承認してきた。
また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁體制が固められ、仏蘭西領印度支那に日本軍が進駐すると、かつて仏蘭西に奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留仏蘭西軍と紛爭となった(泰・仏蘭西領印度支那紛爭)。
翌年に日本軍の介入で講和が成立し、これによって泰は舊領土のほとんどを回復できたため、日本への協力姿勢を強めた。

「締結」
昭和16年12月8日、大東亞戰爭開始と同時に、日本軍は泰南部へ奇襲上陸した。當時、泰は第二次欧州大戰に關して中立を宣言していたが、日本は泰を枢軸側の同盟國とすることと、泰領を経由して英吉利領馬来に侵攻することを意図していた。
日本の計画ではすぐにピブーン政権から進駐同意を得るはずであったが、実際には同意獲得までにはしばらく時間がかかってしまった。
交渉の間に、少年兵による義勇軍を含む泰軍及び警察と日本軍との間で戰斗となり、双方で数百人が死傷した。
日本と泰の停戰後、日泰攻守同盟條約が締結されることとなった。
條約では、亜細亜における新秩序建設、相互の独立主権の尊重・相互の敵國または、第三國との交戰の場合の相互同盟國としての義務を果たすことなどが明記された。1941年12月21日に公布され、泰政府は日本の戰爭へ積極的な協力姿勢を内外に示した。
この間、日本軍の計画を豫想していた英吉利軍も、開戰直後に泰領南部へ侵攻し泰警察と交戰していたが、日本軍の到着で敗退した。
さらに條約締結を知った英吉利及び亜米利加軍が、翌1942年(昭和17年)1月8日から泰國内の都市攻撃を始めたため、泰政府は1月25日に英米に對して宣戰布告した。

「破棄」
條約は1945年(昭和20年)9月2日、日本及び聯合國の降伏文書調印に伴う泰の敗戰により破棄された。
ピブーンは失脚し、泰新政府は攻守同盟條約を「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた」ものとして、その違法性を聯合國に訴え、1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて、回復した舊領土を仏蘭西に返還した。
その結果、泰國民は聯合國による裁きを免れた。
日本に對しては、1951年(昭和26年)の日本國との平和條約において戰爭強制の賠償を要求、日本は高額な賠償金を支払うことを約束して國交を回復したが、戰費として日本が泰から借りた20億バーツ(當時10億ドル以上)は、日本の悲惨な状態に同情した使節團によって2500万ドルまでに引き下げられた。
また、ピブーンは逮捕、投獄されたがすぐに釈放され、後に首相に返り咲いた。

(ウィキペディア参照。)