1. 戦争が残した三世代の心の傷


​戦争は、たったひとりの人生や性格を歪めるだけでなく、その影響は何世代にもわたって家族のあり方を変えてしまうことがある。


私の母方の祖父は戦争で命を落とした。残された祖母は、再婚することなく、ひとりで働きながら母を育て上げた。この祖母の決断と苦労は、言葉にならない想いとして、3世代にわたる人間関係や家族に影響を与え続けた。


​母方の祖父が戦死したのはちょうど80年前のこと。戦争そのものでなく、その影響が、戦後を生き抜いた人々にどのような形で影響を与えたのか。それを考える時、最も身近にいた母を思い出す。


​母は非常に気丈で、厳しい性格だった。しかし、その生涯を振り返る時、彼女の持って生まれた性格だけでは済まされない、戦争が母の人格形成に大きな影響を与えたのではないか、と私は考えている。簡単に言えば、トラウマと言い換えられるだろう。そして、母が亡くなるまで娘である私が、その心の傷を癒し続けることになった


戦地からの便り

誰もがただ、普通の生活を望んでいた。しかし、その普通さえも許さないのが戦争なのだ。祖父が戦地から送ってきた葉書には、ひたすら家族を思う言葉が綴られていた。検閲が入った時代とはいえ、その内容はさして変わらなかっただろう。なかなか届かない妻からの手紙を待ち侘び、「励みにするから、お前と娘の写真を送ってくれ」との言葉が最も印象に残っている。





​これらの葉書や戦死報告書、祖父の写真は、母が亡くなってから見つかった。母は生前、それらを私たちに見せることはなかった。どうやって祖父が死んでいったか詳細に書かれた戦死報告書は、身内として到底読めるものではない。遺族にとって、国によって犬死にさせられた屈辱が、その詳細から目を背けさせるのかもしれない。




晩年、母は一度だけ「何が英霊だ。」と呟いたことがあった。物心ついた頃にはいなかった父親に対し、普段は感情はなかったようだが「父親がいても幸せだったかは分からない。でも、復員した先の人生は自分たちの責任と言えるから。」とも語っていた。


​祖母は戦後、生活のための再婚の道を選ばず、幼い母を連れて看護師・助産師の免許を取得し、必死に働いた。だが、夜勤も休日出勤も当たり前の生活は、子どもだった母にとって、親と一緒に過ごす時間がほとんどない不満と、愛を十分に受け取れなかったという心の痛みとして残ってしまったのだろう。


人間、自分の思った愛され方でないと愛されてると認識できない。本当はそうではないのだけど。いつも愛されていたと人生のどこかで気づくと生きるのが楽だろう。つまり、どんな人生であれ人間皆孤独で、それでいて生かされているということは、我々が認識し得ない巨大な何かに愛されているからなのだ。


ただ、母は両親との縁が薄かった分、私たち子どもとの時間を結果的に長く過ごせて幸せだったと思う。前半生の不足を後半生で取り戻したようなものだった。


祖母の近くにいた母のいとこの話によれば、祖母は死ぬまで「娘(母)が望む進学先に入れてやれなかった」ことを詫びていたそうだ。祖母と母の関係が悪かった理由は長年のさまざまなことが重なったのであって**、これではない。関係が修復されないまま、祖母は待ち切れずに亡くなった。葬儀後知らされたので、母は祖母の死に目にも合わなかった。


母は「母親の愛の不足」と「資金不足による進路の制限」という、2つの大きな心の傷を抱え続けていた。特に、行きたかった四大に進めず短大に進んだことで、教員時代に昇進昇格で差を見せつけられたことが、人生最大のトラウマとなったのだ。(母自身の証言では、年齢性別による差別はなかったとのこと。)


母が私にしたことは、今なら「教育虐待」に当たるかもしれない。だが、30年前はまだ社会全体が、就職が前提というシステムだった。ホリエモンこと堀江貴文氏でさえ、「あの時代は仕方がなかった。今だったら大学受験はしない」と語るほどだ。


教育虐待は親が自身を振り返る時


教育虐待は基本的に親自身が望む人生を歩んでない(歩まなかった)から、それを子に託し生き直しを図るのだろう。親が自分の人生を生きていれば、起きにくい。子にとっても、親という他人の人生を生かされるので、自分の人生を生きていない。


幸い、母は「あんたのため」とは一度も言わなかった。でも、世の中にはいるだろう。

結局、「あんたのため=自分のため」だし、親が子を思う愛が心配になり、心配は支配にすり替わる。心配も支配も、子をひとりの人として尊重もしていなければ、信頼もしていないのだ


一方、子は親に対し全幅の信頼と愛しかない。その親から信頼されないとなると、子の心はどうなるか。大きく傷つきオロオロしながら、親の期待に応えない自分が悪いと思い、健気に親に手を差し伸べようとする。つまり、親が子から愛を吸い上げてしまっているのだ。


親離れと言うが、子離れできていれば親離れはできる。親が幸せな人生を生きている姿を子に見せることで、やっと子は安心して親から離れ、自分の人生を歩める。それが子離れ。


どんな子育ても結局は親の価値観の押し付け


ともあれ、私と弟は大学進学ありきで育てられたが、両親ともに性別によって私たちの進路を制限することはなかった。これは感謝すべき点だと思う。しかし、3歳から始まった英才教育は、まるでプロを目指すかのような訓練の仕方だった。それが当時の私にとっては、萎縮の原因でだった。しかも、ピアノや水泳は私がやりたくて始めたことではない。既に習い事で無理をさせておいて、中学受験が目の前に迫ると「泳いでいる場合か、勉強しなさい」だったので、強烈な怒りに変わっていった。のちに、当時のことを聞いたが、母としては厳しくしたつもりはなかったようで、先述の通り最初から大学受験ありきだったようだ。その厳しさを真に感謝できるようになったのは、30代に入ってからのことだ。


ついでながら、この手の話をすると必ず羨ましがる人が出てくるが、5才前後でコーチから殴られながら練習したいなら妬めばいい。実態を知らないから、贅沢だの言えるのだ。


ともかく幼い頃から、私は母の機嫌に常に気を配る習慣が身についていた。それは、まるで扁桃体が常に緊急事態と認識し、起動し続けているような状態だったのかもしれない。家にも学校にも居場所がないと感じていた頃は、あまりのストレスで脳が萎縮していたのではないか、というほど勉強が頭に入らなかった。まあ高校入学時に、学校の勉強はしないと決めていたのもあるが。代わりに、脳科学や心理学の本を自分を救うために読み始めたが、それらは強制されたことではないので、当然と言うべきか頭にすんなり入ったものである。


​ストレスといえば、今はずいぶん痛みも和らいだとはいえ、35年以上にわたって生理痛に悩まされてきたのも何のことはない、母に対するストレスのせいだったのだと思う。子宮に問題を抱える人は、感情を溜め込みやすい人が多いと言うが、母もまた、最期は子宮体癌で逝った。


​さてそんな中、私の唯一の逃げ場となったのが、中学生の頃、偶然クラスメイトに誘われて通うようになった地元のバプテスト教会だった。これもまたのちに阻止されるのだが、母は自分が私の心の居場所を奪い、私がそこから逃げ場を求めていることなど、まったく気づいていなかった。


https://ameblo.jp/raya-aya/entry-12917942684.html

↑母から逃れたくて英語を学んだ話。あらゆる価値観から距離を取り、自分の精神を保ち守るためだった。



転機


修羅場で母は「そんなこと子どもが考えるはずがない。大人になった今後付けでそう言っているだけだ。」と咄嗟に言い返してきた。が、これを期に母も反省したようで、こんなことまで白状してきた。


「あんたが何歳であれ、何歳でこれができたから、と思って息子(私の弟)にもさせたけどダメだった」(弟は一点突破タイプ)


私と弟は別の人物なのだから、得意不得意も違ってあったりまえだわ!ロボットじゃあるまい!人を何だと思っているのか。


ともかく、自分を母から乗っ取られていた私は、発狂しそうになりながらも良く生きたもんだ。そりゃ病気にもなる。高校に入ってから突発的な高熱が出るようになり、3年時は毎日のように病院通いで、診察券でトランプ遊びができるほどだった。


2. 母の死がもたらした解放と気づき

​5年ほど前、私たち家族はフリーランスの仕事を辞めた。その後、私は深刻な鬱になった。回復の過程で、私はようやく母の価値観から本格的に脱却することができた。そして、最近になって10年前のノートを見返していて気づいたことがある。それは、母が亡くなったことで、私と弟の関係、そして父と弟の関係が変わったということ。亡くなった当時は決してそうは思えなかったが、今なら言える。母が亡くなって、よかったのだと。

それほど、母との生活が精神的に過酷だった。正直、あの時母が亡くなっていなければ、私が死んでいたかもしれない。そして私は、母が幼少期から抱え続けた心の傷を、その生涯を終えるまで癒し続けていたのだ。その大きな役目を終えたことに、私はすぐには気づけなかった。家族にとって母の死はあまりに突然で、悲しみが大きすぎたからだ。

3. どんな親でも赦せる子の深い愛

​こんなことを言うと、到底そんなことはできないと言う人もいるだろう。それでも!どんな親であっても、子というのは意識の深いところでその全幅の信頼と愛で親を包み赦している。それができるからこそ、私たちは生まれてきている。



https://ameblo.jp/synchronicity-kou/entry-12923290688.html


↑私の先生のブログから




8月27日生まれの母に捧ぐ。生まれてきてくれてありがとう。私たちを生み育ててくれてありがとう。今頃親子3人揃ったやろ?


**(注釈)私の両親は見合い結婚だった。1学年違ったが同じ高校。だが、お互いそんなことは見合いするまで知らなかった。父は大学を卒業後、名古屋に就職。工作機械メーカーを経て自動車業界で金型設計士に。50年以上に渡り設計士として生き、家族の生活を支えた。母は長崎県の公立中学の教員だったが13年の勤務後、結婚を期に退職。父の勤め先が岐阜県内に工場を作るのを期に、両親も岐阜県に引っ越すことにした。


祖母は退職したら一緒に暮らすという約束で結婚したが、その約束が守られることはなかった。祖母からしたら、岐阜県は全く知らない土地だから、知り合いがおらず面白くなかったのだろう。さらに、文化も外国並みに違う。しかし、知らない土地での生活は母も同じである。簡単に里帰りできるような距離でないし、子どもが生まれてないならまだしも、もう生まれたのだから、そこでやっていくしかなかったのに。


知人がいない状況で子育てをする羽目になった。父も手が空いている時はオムツを替えたり、ミルクを与えたりしたそうだが、基本的に仕事で忙しく、母もなるべく自分でやろうとしていたようだ。


ともかく、結婚前から祖母に不平があって、結婚後も約束を破られ、お互い大人だから、話し合わなかったはずはないがうまく行かなかったのだろう。具体的にどういう会話がふたりの間で行われたかは、今となっては知ることはできない。